<宮永発題> 宮永:始めさせていただきます。今日は、お忙しいところ、また、遠いところお越しいただきまして大変にありがとうございました。発表者が最初は3人から4人のはずだったのですけれども、プログラムをご覧になって頂くとお分かりのように、8人に増えてしまいました。それでひとり5分から10分ぐらいの見当で始めさせて頂きます。 それではすぐに本題に入りますのでよろしくお願いいたします。お手元の資料をご覧になってください。資料は急いで作った関係上、ホッチキス止めがしていない物もありますので、ばらばらになりませんように、一番上からご覧になってください。一番上をご覧になっていただきますと、「ワークショップ2002プログラム」がございます。その下に問題提起がございますのでご覧になってください。「個の可能性研究会ワークショップ2002 7月7日 宮永國子」をお出しください。 このワークショップは、1994年に始めた「個人主義再検討」研究会が、発展したものです。1999年には、「グローバル化とアイデンティティ・クライシス」として、初めてワークショップを組みました。これからは、毎年一回以上のワークショップを行いたいと思っています。7月7日、七夕の日に一番近い週末には、必ず行おうと考えております。それ以外は、お知らせいたしますのでよろしくお願いします。現在の予定では、来年のワークショップは7月5日6日の2日間、国際基督教大学で行うことになっております。ICUの方では快く引き受けていただいております。二日目には、今の予定では3つのパネルが同時進行する予定です。第一日目にパネル代表者を中心としての総合的な討論を行いますので、そこで二日目にどのパネルに出席するかを選んでいただきたいと思います。今日の、この研究会は、来年のワークショップを見越して行うということになります。 本題に入ります。この研究会のようなちいさな試みを含めまして、グローバル化のダイナミズムというものを簡単に言ってしまえば、西洋産業社会の世界伝播、波及による、世界の経済統合にあります。経済統合にはそれに伴う世界的な経済文化というものがあります。そこでは、いつも言われおりますような、グローバルスタンダードの普及と強制があります。これによって、地域の文化や伝統が破壊されていきます。60年代には、地域の文化や伝統を捨て、グローバルなスタンダードに参入できるものが勝つと強く信じられていました。いまでもそれは続いていると思います。しかしそれに対して、強力に待ったをかけたのは、日本だったと言っていいと思います。70年代には、伝統文化をアイデンティティとした日本人が、近代産業社会に日本の伝統文化を巧みに織り込んで、ローカルな近代社会を作り上げたというふうに私は考えております。このような近代化の過程を、再帰的近代化ということができると思います。これは「グローバル化とアイデンティティ」という本に書きましたので、ここに詳しく論じてあるつもりです。これからこの研究会を場としてさらに考えを進めて行きたいというふうに考えております。ところが、西洋と再帰的近代化の再帰性という問題についてですが、西洋と日本に代表されるような非西洋の再帰性には、ひとつ大きな違いがあると私は考えております。非西洋では、再帰性というのは、近代西洋社会の影響で破壊された伝統が、自身を復元するかのように普通考えられています。そうではないのですけれども、そう考えてしまうのは、変容の原動力が外から来るからです。ですから、外から来て破壊されたものをもとにもどす、あるいはそれに対して抵抗した分だけ成功したのだ、という考えるわけです。ですから、そこでは、再帰性といわずにむしろナショナリズムと言うほうが、通りが良いと思いますし、そういう風に論じられることが多いと思います。実はそういう風に論じられてきた。ところがこれに対して、西洋では、再帰性という言葉自体が違っていまして、自己批判によって、自己を解体し、それを通じて、反作用を創出する作業を言います。これは簡単に言ってしまっておりますけれど、これを私はテーマとして続けて行きたいと思っております。この作業は、まさに無から有を生み出す作業です。この無から有を生み出すことが重要な点だと思います。これがじつは、20世紀後半のポストもダニズムの中心にあったとのだ、と考えております。この作業、無から有を生み出だす作業、これはバリッジが「個のアイデンティティ」の中で言っているように、弁証法的な総合を生み出さなければ、定着することができないのです。この過程をポストモダニズムは意識的に行おうとしたというところが、非西洋と違っていると思います。だからこそ西洋のポストモダニズムは文芸運動から始まった、自己批判的な文芸運動から始まったと、思うのです。 再帰的な自己批判力は、これは西洋の場合ですが、多くの人々が指摘するように、言語による思考そのものに内在しています。これだけでひとつの大きなテーマだと思います。そのために一般にポストモダニズムというのは西洋文明内部の運動のように思われてきました。しかし、ポストモダニズムの自己批判の契機は、実際他者の発見にあると考えます。自己批判を通じて、他者に接近すると同時に、他者に映る自己の姿こそ、自己批判のきっかけがあるという風に考えます。グローバル化は、他者を顕わにします。だからこそ、西洋という他者とであったときに、非西洋社会では、近代的自己を成立するために、自己の伝統を変容させつつ、再構築する必要があったと思うのです。この過程で、伝統が積極的に解体され、再構築されてきたと、私は認識しているのですが、これをわたくしたちは見逃してはいないでしょうか。再帰性の自己批判力は、次回、来年のワークショップで、さらに深めたいところです。できれば事例発表の皆様には、少なくても事実としての再帰性、あるいは、再帰性のように見えるけれどそうでないというもの、を抑えていただきたいというのが希望です。その希望を出した上で、次のテーマの問題提起をしたいと思っております。 アメリカを中心とする西洋世界は、とくにアメリカは典型的だったと思うのですけれども、20世紀の後半解体の時代を経て、ネットワーク社会へと進化することによって、グローバル化に対応しようとしています。ネットワーク社会では、個と集団の対立と言う図式は終わり、個が積極的な集団構成員となることができます。そのため、集団構成にさまざまな可能性が生じ、グローバルに流動する状況に遅れることなく、対応することが可能です。アメリカのネットワーク論では、ネットワークをどのように組織するか、というところに関心の中心があって、構成員がネットワークを構成できるという能力が前提とされています。しかし、日本の場合には、ネットワークの構成員となることのできる個を作ってこなかったと私は思っております。このような個は、どのようにすれば、創出できるのでしょうか。これから作る必要があるか、そして必要ならば、あるいは、わたしたちがそれを望むのならば、望む場合に、このような個は、どのようにすれば、創出できるのでしょうか。 ネットワークというのは、非常に簡単に説明してしまえば、個を単位として、その個の意志によって結ばれ、意志によってきることのできる関係です。そのような関係を作るためには、第一に、意志を明確にしなくてはならない。第二には、意思を表示しなくてはならない。第三に、書面で契約をする場合を除き、拘束力は一切ないわけです。ここで説得力を持つのは、魅力と自己呈示です、全く役に立たないのが、順応性や従順さです。自己呈示とは、言葉を変えれば、リーダーシップであるといえます。ここは論理が飛躍しているかもしれませんが、簡単に出発点と結果を言ってしまえば、リーダーシップであるということが言えます。ネットワークへの積極的な貢献は、他の参加者を動かす力に懸かっている。だからリーダーシップといえることができます。また、自分に対するリーダーシップでもあります。ここでは一貫性というかたちでの、倫理とアイデンティティが問われています。これは他者から見たときの自分、そして自己呈示するときの自分。自己呈示に対応する能力は、これは人を見抜く力です。相手が呈示してきたものを正しく見抜くことができる。この場合、自分以外は、すべて他者です。 意志による関係は、根拠の呈示を求めます。説明が要求されます。物事がどう展開したかという成り行きの説明ではなくて、どうなったかではない。自分が提示しているわけですから、その根拠と、それから提示している本人の責任のありかが、問われてくるのです。アカウンタビリティとはそういうものなのです。こういうことをするためには、根拠が事実に立脚して事実的だということが肝心だと思います。この事実性が、じつは難関で、ここが科学性という問題に直結すると思います。何が事実であり、何が仮説であり、何が経験的かというところが、問題なのです。次には、事実をどう捉えるかということが問題になります。これは責任の問題に直結致しますが、現在の科学ではこのふたつ、つまり事実性、自分の外の事実、事実をどう捉えるか、という自分の主体の問題、このふたつを関連して扱います。なぜなら事実は、それを捉える仕方によって、違った相を見せるからです。実感は、その人の内面的事実であったとしても、必ずしも外の事実と、一致するとは限りません。また、事実に立脚するという言うことは、普遍性を獲得するということでもあります。このあたりで、身体の扱いは、西洋と非西洋では、違っています。 個の可能性研究会では、このような問題に対応するために、実験的研修を、約10週間にわたって、ボストンで実行致しました。その結果、概念化の能力が、まず何よりも基本となることを、確認しました。概念化とは、実践的には、観察を記述し、その原理を取り出すことです、そうすることによって、事実に接近するのです。それができたかできないか、総勢6人の合宿研修は、苦悩のうちの試行錯誤に終わりました。詳しい報告は、現在まとめているところです。この実験の中で、2ページ目の最初のパラグラフの最後の「このような個はどうすれば創出できるのでしょうか」というところに、問題はつながっていきます。 この過程で、参加者は、様々に内面的経験をしました。観察と言う行為、つまり概念化ですが、この行為に責任を取ろうとすれば、観察の主体としての自分を、反省しないわけには行かない。ここでもまた、一貫性の問題に出会います。一貫性を獲得すれば、結果的に、内面と外界の対立が解け、セラピー的な効果を発揮することがあります。研修の結果、実際にこれを経験した人が何人かおります。 研修の結果、概念化、事実的な思考、一貫性を原則にまで洗練すること、意志を持つこと、記述、分析、自己対象化、積極的な自己呈示、等を学ぶことができました。あるいは、学ぶきっかけを掴むことができました。その過程で、中心テーマが個の再帰性にあることを、全員が経験したことになります。と、いう風に私はこれから展開していきたいと、考えております。 このまま事例発表に入らせて頂いてよろしいでしょうか?ディスカッションを一番後にまとめてやった方が、事例と理論検討が一緒になってよろしいのではないでしょうか。それでよろしければ事例発表に入らせていただきます。それでは、第一回、佐藤壮広さん、「グローバル化への沖縄の対応」、よろしくお願い致します。 <佐藤発表> 佐藤:立教大学の佐藤と申します。宜しくお願い致します。私の発表、両面コピーの資料がお手元にあると思います。大きめの活字にて用意致しました。裏面には、佐藤報告資料とありまして、これから発表申し上げる事例の資料となっております。 沖縄の民間巫者、ここで沖縄という言葉は、私がフィールドワークをしております沖縄本島を指すというふうにご了解下さい。沖縄の民間巫者、「ユタ」の儀礼は、グローバル化に対応するウチナーンチュ、つまり沖縄人のアイデンティティ形成の、重要な場です。沖縄県発行の『沖縄の歴史と文化』という冊子のなかには、ユタについての次のような記述があります。「女性をはじめとする大衆社会では、今でも根強い支持がある」と。これはユタの存在が、普段の沖縄の生活に密接に関係していることを示しています。沖縄における普段の生活とは、平凡かつ平和な生活では決してありません。周知のように、米軍基地を抱え、昨年の米国の9・11テロ事件の時にはその影響をもろに受けています。例えば在沖米軍基地が厳戒態勢になり、危険を察知した本土の多くの中学・高校が、沖縄への修学旅行を取り止めました。このような世界の軍事秩序ひとつをとってみても、現在の沖縄は、いわゆるグローバルな状況におかれているといえます。また沖縄は、琉球王国が滅んだ以後、明治国家日本への統合を、そして米軍の統治を経て、再び日本へ復帰したという歴史を歩んでおります。 この流れの中、ウチナーンチュとしてのアイデンティティは、時に揺らぎ、時に分断の危機にさらされてきました。状況は今なお進行しているといえます。こうした背景のもと、現在のユタの儀礼への参加者は、ユタのとり行う「たち切り」と「つなぎ」の拝みによって、(ウチナーンチュとしての)アイデンティティを新たに立ち上げます。 「たち切り」の儀礼は、歴史の悪縁・因縁からの離脱を目指すものです。「つなぎ」の儀礼は、伝統文化と現在との連続性を再び創り出すものです。ひとつ、事例を挙げます。資料の裏面をご覧下さい。1999年の9月、この「たち切り」と「つなぎ」という二つの指向をもつ儀礼を大々的に行った女性のユタがいました。その儀礼のタイトルは「グスク・御嶽(うたき)まつり」です。資料の「グスク・御嶽(うたき)まつり」趣意書をご覧下さい。そこには、琉球王国時代の祈りと平和の伝統を理想化する言葉や、グスクの世界遺産登録の祈願(2000年12月に登録決定済み)、そして核兵器や戦争反対のメッセージが記されています。とりわけ重要な部分は、祈願によって「過去の一切のカルマを浄化」するという志向と、「そのことを成し遂げられるのは皆様方の真心からの祈りです」といった、自分達の祈りの意味を再認識・再確認しているところです。ここには、沖縄がおかれたグローバルな状況に宗教儀礼によって対応しようとする意志と行動を読み取る事が出来ます。 こうして(ユタの)ローカルな儀礼によって、(儀礼の参加者は)いったんはゆらぎ、途切れた自己のアイデンティティを、再び伝統へとつなぎなおすことが目指されているのです。ただし、この時に構築される自己は、現在の状況に対応した古くて新しい自己です。私は、グローバル化が進めば進むほど、沖縄のユタの個々の儀礼が重要な意味を帯びてくると考えています。その理由は、新しい自己表出、あるいは自己のあり方のひとつを、ユタとその儀礼が提供すると思われるからです。以上です。 宮永:事実確認の質問をひとつだけとりたいと思います。 品川:グローバル化の定義は、宮永先生のいうグローバル化の定義と同じ、と考えてよろしいのでしょうか。それとも佐藤さんの独自の定義があるのでしょうか。 佐藤:基本的に『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』にある論文を今回発表しておりますので、宮永先生のグローバル化の定義に準拠していると考えてください。 宮永:どう準拠しているのか一言でおっしゃっていただけるとありがたいのですが。 佐藤:ひとつは、沖縄が現在おかれている状況を考える際、そこは小さい島ですが世界の軍事秩序の中におかれているという意味で、沖縄がグローバルな環境に放り込まれているという点です。これは、ギデンズがグローバル化の一側面として指摘した「世界の軍事秩序化」の具体例にあたります。また、ベックはそれを「危険社会」という言葉で表現しています。これが空間軸で沖縄の状況を捉える際に、グローバル化の視点が重要だということの理由のひとつです。もうひとつは、宮永先生がグローバル化を「統合と反統合のベクトルの同時進行」と再定義しているように、琉球王朝以降の沖縄の歴史は、日本国家へ統合されるというベクトルの中で、沖縄の文化が再活性化するいくつかの時期を経ているということです。そこでは、自文化に立ち返りながらウチナーンチュとしてのアイデンティティを再構築する動きが見られます。以上のふたつの点から、グローバル化の状況を沖縄に読み取る事ができると、私は考えております。 品川:自己が再構築される状況がグローバル化なのか、それを引き起こす原因がグローバル化なのか、わかりにくいのですが。 佐藤:両方だと言えます。統合と反統合が同時進行するプロセスにおいては、状況に対応する自己の再構成(統合的自己と反統合的自己の両方がある)が、状況(統合・反統合の両方の状況)の更新までも含みます。単純な因果関係として捉えられない点が、グローバル化の特徴なのではないでしょうか。ただ、時間軸に沿って歴史的に考える視点は、どの時点で近代化(例えば資本種主義経済の拡大)が進み、グローバル化のプロセスが色濃くでてきたかについて考えるには、有効だと思います。 宮永:論点ははっきりしたと思いますので、次の方へ進みたいと思います。島添さん、お願い致します。 <島添発表> 島添:東京芸術大学の島添です。わたくしの配布資料はA4、片面一枚です。わたくしがとりあげます対象は、東京ディズニーランドです。 グローバル化社会において、グローバルとローカルの不整合は必然です。それに対して、東京ディズニーランド(以下TDL)は従業員にアイデンティティ・クライシスを起こさずに、グローバル化に対応できる選択肢を与えます。本発表は、TDLのグローバル化への対応の仕方を報告します。なぜなら、それをふまえてはじまて、ディズニー人間の可能性を論じることができるからです。 TDLというミクロな現場は、マニュアルを通してマクロな管理システムに支配されています。ここでは、一見偶然に見える日々の出来事も、実はシステムに基づいて予め想定され、演出されたストーリーです。例えば、シンデレラ城の前は、客が写真をとりたくなるようにデザインされています。そして城の前は、掃除担当の従業員が数分に一度は必ず通りかかります。彼らは持ち場が決まっていて、持ち場に落ちたゴミを数分以内に片付ける事になっているからです。このように、客と従業員はシンデレラ城の前で出会う事になっています。従業員は自分から、「写真をお撮りしましょうか?」と呼び掛けて、客のために写真をとってあげます。これは、マニュアル化された行動です。しかし、客にも従業員にも、この出会いは偶然にしか見えません。だからこそ、客は感動して従業員のサービス精神の高さを褒め称え、従業員も客に幸せを与えられた自分自身に感動できるのです。このようにTDLでは、従業員も客も楽しくシステムに強制されているのです。しかし、どんなに良く出来たシステムでも、包括できない出来事は起こります。例えば、天気は非常にローカルな現象です。TDLでは天気予報や、過去のデータなどを基に、予想入場者数をはじき出し、それを基に従業員の配置人数や仕事を計算します。しかし予想がはずれて、計算通りにいかないこともあります。これはシステム(グローバル)と現実(ローカル)との間でしばしば起こる不整合の事例です。しかし従業員は臨機応変に人員や仕事のスピードを調整し、不整合をシステムに整合させなければなりません。マニュアル人間といえば、ロボットのように機械的に決められた仕事をこなすだけだと思われがちです。しかし、マニュアル人間に必要なのは、マニュアル通りに動けるだけでなく、マニュアル通りに物事を動かす能力なのです。TDLの従業員は、その適応能力を競い合っています。そして、適応できない者は去るのです。TDLでは年間3回のアルバイトの大量募集をしています。募集人数は一回につき、2000人程といわれています。アルバイト従業員は、総勢1万人あまりであることを考えると、単純計算で年間、半分以上のアルバイト従業員が入れ替わっているといえます。これもシステムに既に折込済みの、予定調和なのです。 一方、適応できた人間も、ディズニー人間としての「顔」をもつことによって、システムに吸収されます。アルバイト従業員の入れ替わりは激しいとはいえ、勤続年数が5、6年以上になると、インフォーマルな序列も上昇します。この人間関係は、言葉使いや、職場の外の酒の付き合いにまで上下関係がはっきりしており、自分より序列が上の従業員に頼まれれば、私用をなんとかしてでも仕事や飲み会にでてこなければならない雰囲気が出来上がっています。しかもフォーマルにもステータスが上昇すれば、週何時間働かなければならない、という拘束も厳しくなり、職場にどっぷりとはまるようにできています。このようなディズニー人間が、職場の忘年会や送別会などの酒の席でみせる表情は、グローバルで規範的なマニュアル人間の顔であると同時に、親しみのあるローカルな表情も埋め込まれたグローカルなものです。経営者側もこの点を理解しており、従業員同士の交流を奨励さえしています。又、友だちが友だちを呼び、交際の場が広がると、当然、男女交際が生じます。職場恋愛の末に結婚し、子育てをしながら(TDLに)パートで働きに来ている女性も少なくありません。彼女達は、夫もTDLの正社員で、互いに職場の状況がわかっているので、家事分担などの協力も得られやすく、非常に働きやすいと言います。ディズニー人間は、昇給・賞与・有給・社会保険制度などの福利厚生制度の保障も新米従業員に比べ厚くなっています。又、たとえパートで勤めていて、出産、子育てなどで一度辞めたことがあっても「経験者特別採用枠」を使って元の職場に戻ってこられる点で、実質的には終身雇用されている、といえます。こうして、適応できた者はディズニー人間としての「顔」を持つ事になるのです。その代わり、ディズニー人間の「顔」を持つ事により、自分の時間や人間関係だけでなく、思考の仕方や家族までもがシステムの一部になるのです。こうしてTDLの従業員は、再帰的にではなく、ローカルを予定調和的にグローバルに吸収することによって、グローバル化に対応しています。以上です。 宮永:事実確認の質問を受け付けます。 永澤:アメリカやフランスのディズニーランドとの比較でなく、東京ディズニーランドに限定した報告でしょうか。 島添:今回の報告はわたくしが行った東京ディズニーランドのフィールドワークを使った報告です。アメリカやフランスのディズニーランドとの比較はここでは含まれておりません。 宮永:事実確認の質問を、もうひとつ受け付けます。 樫村:非西洋のグローバル化には、再帰的なものと再帰的でないものがある、ということでしょうか。島添さんの事例は、再帰的のように見えるもので再帰的でないもの、の報告ですよね。 島添:再帰性ではない、とわたくしは考えております。 樫村:再帰性に見えるけれども再帰性でないといえる根拠はなんでしょう。 宮永:そうですね。そこが論点なのですけれども・・・ 島添:再帰性がある、ということは弁証法がある、ということだと致しますと、わたくしの考えるTDLの事例では、再帰性がない、つまり弁証法がない、ということです。どういうことかと申しますと、もしもTDLに弁証法があるとしたら、TDLのシステム自体の根底が弁証法によって揺らぐ、ということが考えられると思います。ところが、TDLにおけるわたくしの観察からは、システムを再現することはできても、システムを作りかえて新しいものが生まれることはないのです。「正」であるTDLのシステムに、「反」がでてきて、「合」としての何か新しいシステムが生まれることが観察できなかったと考えております。システムに組み込まれている限りTDLのシステムは全て予定調和で動いていると考えれば、予定調和がある限り、根本的にシステムは揺らいでいない、と考えてよいのではないかと思います。 樫村:再帰性には弁証法があり、再帰性のないグローカル化もあるということですね。グローカリゼーションの中に再帰的なものと、再帰的でないものがあるということですか。 島添:実は、そこの部分はロバートソンのグローカリゼーションを想定して考えたものなのです。わたくしは、ロバートソンがグローカリゼーションといった時には、再帰性がない、予定調和である、と読んでおります。 宮永:そこのところが中心の問題だと思います。再帰性という言葉を使うのでしたら、それがそのまま弁証法であるのか、という問題になるわけです。言葉の定義ではなく、概念として何を掴み取ろうとしているのかということですので、討論の時間に続けたいと思います。 <森発表> 森:国際基督教大学の森と申します。わたくしのレジュメはA4、片面の一枚です。 先ず、議論の前提となります、ファンダメンタリズム論についての再検討から始めさせていただきたいと思います。現代のファンダメンタリズムは、多様性の許容によって生ずる教義の相対化に対する拒絶といえる、と考えております。現在、グローバル化によって多様化が増幅されています。それにより、自己の相対化に悩む人々が増加しています。ファンダメンタリズムはそうした苦痛に対する処方箋のひとつなのです。ファンダメンタリズムにとって、自己の相対化は教義の相対化です。そして、彼らにとって教義の相対化は救済論の破綻を許します。従って彼らはそれと全力で対決しなければならないのです。彼らが本来ならばそうした役割を負うべきであると考えるエスタブリッシュメントは、折衷主義の立場をとることにより生き残りを図っています。それに対して、ファンダメンタリズムは、その折衷主義を根絶すべき「悪」と見なし、全面否定をします。この否定の正当性の根拠は、教祖・経典等から彼らが抽出する「原理」の絶対性です。その絶対性は、彼らによってのみ保証されています。彼らの解釈のみが無謬とされるのです。ファンダメンタリズムは、この絶対性を受容しないものに対する徹底的な排除、攻撃を通じて、自己の、そして社会の「聖なる秩序」を取り戻す事を目指します。彼らにとっては、「悪」を駆逐することが自己の正義を証することであり、「救済」に与るための必須の条件なのです。 従って、これまでファンダメンタリズムの特徴のひとつとして、並列的に扱われてきたこの攻撃性は、実は、その本質的な要素であることが分かります。そのため、ファンダメンタリズムは、常に意図的に「敵」を措定しなければなりません。彼らの敵意は、本来の責務を放棄したエスタブリッシュメントに向かいますが、同様に、あるいはそれ以上に、西洋近代や資本主義経済に向けられます。それを体現するものに対する戦闘性の激しさを、近年私達は目の当たりにしています。しかしファンダメンタリズムは、普遍性を目指せば目指すほど相対的な存在となります。対象を敵対者として固定化した瞬間に、(ファンダメンタリズムは)カウンター・パートとしての立場にとどまらざるを得なくなるのです。 ここから私の事例なのですが、日本のファンダメンタリズムの一例として、浄土真宗親鸞会をフィールドワークいたしました。そこにおいて、以上のような点が確かに観察されます。親鸞会の沿革、教義の詳細等については『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』を読んでいただきたいのですが、彼らの攻撃性が最もよく現れているのは、教義の説き方と布教スタイルです。親鸞会の教義の説き方は、エスタブリッシュメント本願寺教団の教義との相違点を強調することによって、自らの教義を明らかにする仕方です。親鸞会の教義は、その主要部分に関しては本願寺教団のそれと大同小異です。しかし、現在の本願寺教団においては、寺院等の法話で説かれている教えは様々なものを取り込んでおり、まさに折衷主義で教学と必ずしも一致はしておりません。親鸞会はこれに対して親鸞や蓮如の著作、経典から文言を提示し、その非を糾弾します。こうすることで自らの絶対性を強調、確認しているのです。 布教につきましては、「破邪顕正」として邪義とみられる他宗教、他宗派への積極的な批判を展開しています。例えば、本願寺の境内で座り込みを行ったり、本願寺末寺やキリスト教教会、新宗教教団の支部を訪問して宗論を持ちかけたりします。あるいは本願寺の僧侶らに、教学に対する質問状を送り、返事がないと、何度でも催促状を送る、といった行動を繰り返しています。このように、「敵」を攻撃する「戦士」となることで、親鸞会は自らの存在意義を確認しているのです。以上です。 宮永:事実確認の質問を受け付けます。 武者小路:このファンダメンタリズムの定義は、例えばブッシュ大統領に当てはまるように思えるのですが、当てはめることは可能でしょうか。 森:比喩的には可能だと思います。アメリカ、もしくはブッシュ大統領にとっての「原理」が、例えば「ジャスティス」といったようなものであると考えると、それも「ファンダメンタリズム」と言えるかとも思います。 <薄井発表> 薄井:神田外語大学の薄井と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私は『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』に論文を書かせていただきました。その際の意図は、世界のグローバル化の中でジェンダー問題をきちんと位置付けたいというものでした。発表時間の制約もありますので、今回はこの課題についてどういう見通しを持っているかを先にお話しさせていただき、それから、私が現在調査しております宗教の問題にコメントしたいと思います。 20世紀の最後の30年間には、新しい社会運動として「フェミニズム運動」が誕生し、歴史にある成果を刻んだと思います。女性たちを中心とする様々な問いかけや問い直しは、その時点ではなかなか理解できませんでしたが、現在に至っては、資本主義のグローバル化がものすごい勢いで進む中、女性たちがそうしたものに反応・抵抗を示した運動として、位置付けることができると思っています。それが明らかになるのは、世界的な資本主義が構造的な再編を行なう中で、いわゆる第3世界と呼ばれる地域が新たな国際分業に引き込まれ、無力だとされてきたそうした地域の女性たちが声を挙げ、抵抗を示しているという様子を目のあたりにしたからです。その動きを追いながら、グローバル化がいかに女性たちの実存の問題と関わっているかということを、私自身発見したという思いがあります。当初は、性差別に対する抵抗としてフェミニズム運動を捉えていましたが、それは資本による女性たちの分断、ジェンダー秩序への女性の再編入である、つまり「資本主義による女性の再発見」と考えるべきだと思うようになりました。初期のフェミニズムの運動では女性たちの共通の体験・共通の認識として「私たち女性は」という言い方が可能だった時代があります。今思うと、人間一人一人が違う経験を持っている訳で、それがフェミニズムの主張でもあったのですが、戦略的に「私たち」と称した運動や問いかけによって無視されてきた女性の存在を顕在化させる手法がこれまで存在したと思います。しかし、特に90年代以降グローバル化が進む中で「女性たちの連帯」も分断され、「私たち女性」という言葉も通用しなくなり、さらに、個々の生き方や能力という捉え方の中で、女性たちが問題化しようとしたものが再び無力化され、潜在化していくという状況が展開したと見ています。つまりグローバル化が進む中で新たに女性たちの役割や「女性たち」という言説そのものを無力化することによって、結局は、女性たちが生活の中で抱えている課題を問うことが出来なくなるという状況が起こっているのではないでしょうか。さらに、この私という個人はどういうものなのか…。ジェンダーに根深く支配されているという構造が見えてくる中で自己のアイデンティティを考えるという問題に、現代の私たちは直面しているのではないでしょうか。 以上のような見通しを持ちつつ、宗教の現場での調査を続けています。グローバル化とジェンダーの問題を表出するのに、この現場がどのような位置付けを有しているか自分でもまだ明確にできでおりませんが、今日は現在整理しつつある作業について配布資料に則して話します。 女性たちが今まで疑うことなく自己認識をしていたあり方や存在のあり方が揺らぎ、新たに「私たち」とはどういう存在なのかを問う運動に、私はひとまず注目してみました。そうした女性たちの動きが周囲からどのような対応を引き出すのかという相互作用にも注目してみますと、結論的に言えば、女性たちからの新しい問いかけを受けて時代は少し変わりつつあるように見えても、やはりそこには別な形での言葉のすり替えが起こり、新たな女性役割やジェンダー秩序(男性と女性の権力構造)といったものに絡めとられていっている現実があると見ています。 先ほど、本願寺派がエスタブリッシュメントの例として出てきました。ここでも浄土真宗大谷派の住職の妻で「坊守(ぼうもり)」と呼ばれる女性たちの運動に着目してみます。宮永先生が私の論文の紹介で書いてくださいましたように、この例は、女性たちが自分たちのアイデンティティを創り出していくーいままで、宗派や教団または日本文化の中で与えられていた性役割を主体的に取り入れていた自分を問い直し、新たに自分たちでその集団での位置付けを創り出すープロセスと見ています。それは80年代後半から「真宗大谷派における女性差別を考えるおんなたちの会」90年代後半からは本山内に開設された「女性室」の中に見ることができます。彼女らは住職と結婚しているということで、当然のように「坊守」と呼ばれ、お寺の雑事や裏方の役割を引き受けます。教団の中では彼女たちには何の権利もありません。90年代に入り、住職になる資格も緩和され、女性が住職になりうる可能性も出てくる中で、女性が住職になる場合、坊守は誰がなるのかという問題が出てきました。つまり坊守を女性と限定する意味はどこにあるのか、という問いかけです。数年に渡り、坊守の規定をめぐって討議した結果、答申書を見る限り、結局のところ坊守は住職の配偶者、ただし、女性住職の配偶者について、坊守の規定は適用されませんので、つまるところ坊守とは妻のみをさす言葉です。家事など裏方をするのは妻の役割だからという理由からなのでしょう。 坊守問題が提起しているのは、浄土真宗という宗教教団の「家の宗教から個の自覚の宗教へ」というスローガンの中核にあたる問いかけです。個々の信心を中心に据えると、性役割に縛られた寺運営はおかしく、また信心の有無とは関係なしに自動的に坊守と位置付けるシステムも問題でしょう。しかし、個々人の信仰の問題という面を強調していくと、「坊守」としての連帯が築きにくく、運動体としての求心力が弱まってくる恐れがあります。 もう一つの女性たちの運動のねらいは、資料でわかるように、決定の場に女性の数があまりにも少ないという権威構造です。女性の宗政参加の要望に対して、答申は「男女両性で形づくる教団をめざす」と応えています。しかしながら、この討議によって、坊守の性が固定化され、非役職としての位置付けも再確認された結果となりました。「男女共同参画」という非常に聞こえのいい言葉のもとで、あらためて性別役割分担が推進されていくという状況が展開していったとも言えます。 ジェンダーという視点は、これですべての問題が解けるというものではありませんが、しかしジェンダーの問題を抜きにしてはグローバル化の問題も解けないのではないかと思っています。ジェンダ−問題は、言語実践と言いますか、言葉でもって秩序化が進んでいくと捉えています。様々な言上げやそれに対する応答の言葉の表現の中で、自分たちが意図していたものが微妙にズレた形で受け止められ、それに対してまた新たな意味付けをされて返ってくるという事態が起こっています。つまり、本例も、言葉そのものはグローバル化の中で語られていながら、結局は自分たちの文化のスタイルで表出されるという状況を示している、その齟齬が女性たちの運動の困難さとなっていると見ています。発表は以上です。どうもありがとうございました。 外山:住職の配偶者はどのような規定になっているのでしょうか。 薄井:住職の配偶者、住職の妻を坊守と称しています。 外山:結婚相手は自由に選べるのですか。家柄などは関係あるのでしょうか。 薄井:自由です。家柄も、何の制約もありません。ほとんどの方は恋愛結婚です。その際ほとんどの女性には、お坊さんと結婚したという意識はありません。ですから、僧侶である男性と結婚したら自分も自動的に坊守になってしまうという状況です。 <樫村発表> 樫村:私は、日本をはじめとするいわゆる非西洋世界における近代化の問題や、グローバル化に対する固有のリアクションや自己の再構成といったことに関心をもっております。分析の際には、もちろんギデンズやべックの再帰性の理論を用いますが、ラカン派の理論も用いています。 ギデンズやべックの理論では、近代的な主体というものを無前提に想定しています。しかし、近代的な主体、再帰的な主体が可能になる場としての生活世界がまずあり、人間はたった独りでは生まれてこない、最初から他者に依存して生まれてくる、という事情があります。再帰性を獲得するために人間が最初から生活世界あるいは共同世界に依存しているという点を、精神分析理論はわりあい尊重しています。もうひとつは、先ほど問題にしたグローバリゼーションとグローカリゼーションに関連します。精神分析では例えば「移行空間」という概念があります。これは、子供が母親(他者)から離れて自立していくまでに、固有の幻想空間を作りますが、その空間のことを指します。おしゃぶりやぬいぐるみや毛布の切れ端など、他者ではないけれども他者の代わりとなるものなど、自立するまでの、変動を受け入れるための特殊な空間のことです。これは、じつはラカン派のシジェクや、フレデリック・ジェイムソンなどもそうですが、彼らはマックス・ウェーバーが理論化した「プロテスタンティズムの倫理」のなかにこの「移行空間」を見ることができると指摘しています。つまり、「プロテスタンティズムの倫理」とは、資本主義へと社会が変化するときの、ひとつのグローカル化だったわけです。これは、マルクス主義に対抗してウェーバーが発見したことです。宗教世界の幻想の内部で、神のために禁欲的に労働する。それまで労働というのが罪悪だったものが、固有の幻想を使って、資本主義の身体を練り上げる空間を持った。グローカリゼーションはその意味作用だけを外から見ていると非常に奇妙なのですが、そのなかでどんどん資本主義の身体が形成されていきました。先ほど例に挙げたぬいぐるみ(への依存)などは、まだまだ子どもが甘えているかのようですが、一方ではそれはむしろその子どもが母親から自立して一個の主体となっていくための変動の局面なのです。 島添さんがおっしゃるような日本的様式が、もともとの様式を打ち壊すような潜在力を持っていたら、再帰的ではなくともある種の弁証法的な作用をもっていて、それを見る側つまり研究者や観察者は、それを弁証法的に捉えていく必要があるのではないかと思います。現在の日本の若者のコミュニケーションは、非常に閉鎖的で内輪ウケ的で、いろんな他者をキャラ化してしまいます。そのコミュニケーションにおいて、若者は他者とは出会っていません。ぎりぎりのところで他者に出会ってはいても、他者と出会って自分が開かれて自分が変わっていく可能性があるにもかかわらず、その他者をキャラ化し、その出会いを閉じられたものにしていてそのことを取り上げています。 時間の制約上詳しくはお話しできませんが、資料を二つ用意しました。一つは、『つながりの中の癒し』(専修大学出版局)で試みた分析です。もう一つは、専修大出版局通信の「テレビと若者たちのコミュニケーション」です。様々なひとがこれまで、バラエティー番組について分析をしています。例えば、佐藤健二「ボケ。理屈の枠を外す力」(朝日新聞紙面)や鷲田清一「『キャラ』で成り立つ寂しい関係」(『中央公論』2002年6月号)などがあります。これらの議論を総括すると、若者のコミュニケーションが非常に閉鎖的になっているというものです。例えば佐藤健二氏は、テレビ番組にみられるコミュニケーションが非常に早口になり、「ツッコミ」ばかりが目立つと言っています。テロップもまた「ツッコミ」だと言います。ボケは昔は日常性を逸脱させ、「型や枠を外す力」をもっていました。ツッコミは「何を言っているんだよ」と言ってそれを元に戻すものでした。例えば、やすし・きよしの漫才のボケを考えれば分かるかと思います。しかし現在では、ボケの非日常性やダイナミズムがなくなり、単純で無能になっています。そして、ツッコミだけが過剰になっています。この点について詳しく分析したものに太田省一さんの『社会は笑う―ボケとツッコミの人間関係』(青弓社)があります。ツッコミだけが目立つと言う佐藤氏に対し、大田氏はツッコミさえも無くなりつつあると主張しています。コメディアンの萩本欣一がパートナーの坂上二郎を相手に繰り広げた笑いがしろうとの場所へと引き下げられました。そして、従来は逸脱するボケを正常化する役割だったツッコミのほうが逸脱・過剰化していきます。萩本が笑いへと引き入れたしろうとはこのあと自己主張をしはじめます。そして、ご存知のようにマンザイ・ブームがやってきます。このブームの面白いところは、マンザイの分かる受け手の若者を囲い込んだ点です。そこから内輪ウケ空間が出来てくるわけです。マンザイ・ブームのなかで、ビートたけしは聞き手の若者たちを攻撃していました。しかし攻撃されながら、若者はそれを笑い飛ばすことのできる自己相対化能力をもちます。これを再帰性と呼べるかどうかは分かりませんが、マンザイの演じ手たちは自分たちだけが分かり合えるとする仲間感覚を育てていきました。これに対してタモリが、観察的ツッコミ(非日常性を日常性へと戻すのとは性質が異なるツッコミ)を行いました。これは「天然ボケ」を発見して、それをさらに過剰にさせるものでした。とんねるずはしろうとを煽って一緒に遊び内輪ウケの空間を強化しました。そこで、ツッコミはどんどん省略されることになります。そして、ボケへの規制が緩和されてボケるしろうとの笑いを共有する空間ができていきました。さらに、ツッコミが入らないためボケが暴走しはじめます。ここでキャラ化という記号化作用が出てきます。例えば「壊れる」「キレル」ひと、というキャラ化です。大田氏は以上の分析から、テロップとは非常に希薄なツッコミだと結論づけています。 なぜ、ツッコミが不在化したのか。これがグローバリゼーションの問題と関連します。つまり、世界が非常に再帰的になったわけです。信じられるに足る日常性や伝統的なものがなくなったために伝統的なツッコミ、非日常を日常に戻す力がなくなったのです。これは、日本だけに限られた現象ではありません。これがグローバリゼーションであり、この若者の閉鎖的な空間とはそれに対する反応だと思います。日本では、宮永さんがおっしゃるように個として反応するエージェントがないために、内輪ウケ空間をつくりながらそれに対応しているのだと言ってもいいかと思います。時間が参りましたので、発表はひとまずこれで終わります。あとは全体討論の際にまたお話ししたいと思います。 宮永:はい。ぜひとも続けてください。それから、来年のワークショップには、独立し たパネルをこのテーマでお願いいたします。そこでぜひ、ラカンを十分に論じていただ きたいです。よろしくお願いいたします。 <永澤発表> 宮永:発表のほうに移らせていただきます。永澤さん、「オープンシステムとしての<個>の造型を目指す実践的教育のモデル―自己覚知・呼びかけ・応答」、お願いいたします。 永澤:東京福祉大学の永澤です。1枚目の資料を見てください。実際に、私が、もう2、30回はやったと思うんですけど、日ごろ授業においてさまざまな学生たちとやっていることを、そのまま、ちょっと簡単に、伝えたいと思います。まず、自己覚知というのは、これは省略して自覚ということでわかると思うんですけど。ワーカー=援助者が、クライアント=利用者に対していろいろな負の感情も抱くわけなんですよね。そういう時に、それを隠蔽しないで、自分自身の感情の動きをちゃんと自覚して、いろいろなマイナスの感情も抱いていたとする、それを自覚して、それをコントロールすればよい、というそういう意味の自覚が大切だ、ということを示しています。要するに、これは全ての人間関係でも共通して言えること、なんですけど、それを、ワーカーとクライアントの関係ということで、特に大切なこととして教育している、ということです。 2枚目をあけてください。2枚目のディスカッションシート、これでディスカッション をしてもらうわけなんですけど、まず、1枚目にある「4段階の、4つのタイプの意見の伝え方」のうちで、あなたはどれが一番いいと思いますか。それを、1から4まで、いいものから悪い順に番号を付けて、しかも、その理由を簡単に書いてください、と問いかけます。はじめに各自少しディスカッションシートに書かせた後、ディスカッションしてもらって、それを発表してもらう、というかたちになります。 1枚目を見てください。1、2、3、4、これ出典はこちらのほうに書いてありますか ら、省いてますけど。1、これは英文でいうと、you are a 〜.という形になっているんですね。これは、a 〜、というふうに述部が名詞形になっています。あまり時間がないので、答を言いますが、括弧1番、これはもちろん1に対応していまして、あなたはいつも怒ってばかりいる人。これは完全な決めつけですね。いわゆる本質主義というか。つまり、名詞形になっていることによって、いつも怒ってばかりいる人、というふうに、過去・現在・未来にわたって、もう決めつけているわけです。感情の交流はまったくないし、自分は安全圏にいる。 2番目は、これは科学的な観察命題のようなもので、これは、you are 〜 と、 状態を言っています。これは、現在に定位しているので、過去までさかのぼって決めつけていないという意味で本質主義ではないんですが、これは、共感がない、とうことです。中立的に記述して済ましている、ということです。 そして、3番目は、you feel 〜、 あなたはこう感じている。これは、受容・共感・傾聴の構えに基づいたリピート(繰り返し)の技法と言われるもので、非常に基本的なものです。つまり、クライアントが「私はこういうことで生活が破綻している」などと、ごちゃごちゃ言って、「つらい」というふうに訴える。それを、何度も何度も反復するわけなんですが、それをそのまま、「あなたは、これこれこういった・・・」、言語的レベルで、「これこれこういったことが問題で、つらいのですね」、とあえておうむ返し的に繰り返してあげると、言語的に、確かに自分の感情、つらいという感情を受け止められたという、受容されたということが、はっきり相手にも伝わる、ということなんですね。それで、しかも、冷静に言われているわけですから、確かに自分は受容されている、ということになります。 3番目は、どの学生も、まあいろいろな年齢層、女性や男性の方々がいますけど、3番目が1番いい、という答が一番多いのです。この3は、優等生的なものであって、どういう場面でも、まあいいだろう、ということなんですね。受容的な態度、ということで。ただ、これは、まだ信頼関係が形成されていない段階、初回面接の時とか、はこの方が無難なんですけど、これだけで、その人を変えること、変化させたりすることができるか、その人の問題への洞察をもたらすことができるか、というと、できないのです。必ず、アイデンティティ・クライシス、というか、危機的な場面に遭遇する必要がありまして、さらに、これはフィードバックあるいは直面化の技法と言うんですけど、感情の交流を意図的に起こす、ということが必要で、それは、熟練していない人だとかなり危険です。つまり、下手をすると単にけんかを売ってる、ということになってしまうわけです。 つまり4番目は、ワーカーも自分自身人間なので、例えば、メンタルイルネスみたいな 人がいて、そういったクライアントに何度も何度も、もう怒りを、実際にぶつけられるわけです。実際に、人間なので、自分自身本当にいやになります。いやになった時に、未熟なワーカーというのは、ネガティブな感情を、クライアントに抱いたこと自体に罪悪感を持ってしまって、それを、隠蔽しようとすると、すべて失敗してしまうことにもなる。結局、自分は安全圏にいて交流がない、ということになるので、その場合、それを自己覚知して、どういうふうに相手にも伝えることによって、つまり、私と相手の両方ともこう思っている、ということになって、感情を交流させるか、ということで、テクニックが必要になるわけなんですよ。 私が対象としている学生は、今のところ、全部日本人なんですね。成熟している人ほど、「4番目もいいんじゃないか」、と答える方が多いんですけど。若者というか、若い人の場合は、・・・これは宮永先生だけじゃなくて樫村さんの話ともつながるんですけど、4番目を最悪のものとして挙げる人が多いんですよ。「4番目は、これは本当にまずい」「自分の感情を相手にさらけ出してしまうのはプロとしてよくない」、とか、「これはけんかになるじゃないか」、「これは最悪」、という人が多いんです。もうちょっと深く考える学生とか、あるいは、ある程度人間関係をこなしている人だと、4番目をあえて、自分の、あくまで言語的に言葉で、しかも冷静に、・・・理性的にということだと思うんですけど、自分の感情を相手に伝えることでしか、感情の交流が起きない、ということもわかる。これをわかってもらう、ということですね。 それから、後半の1、2、3、4、なんですが、これはもう時間がないので簡単に答を言いますと、1番いいのは、同じ意味で4なんですね。これは、4しかだめ、という意味なんです。4というかたちで、私、という言葉を使って、例えば、専門医の受診、これは深刻なケースに多いと思うんですけど、例えば、エイズチェックなんかもそうだと思うんです。検査を受けたほうがいい、という場合に、「私はあなたが専門医を受診したほうがいいと思います」、というふうに、私、という責任(応答可能性の構え)のレベルを持っている必要がある。 3番目は、ワーカー、あるいは医者の場合でも、専門家、というのは、上の立場にいる、権威の立場にいるので、やはり、上の立場なんですね、クライアントから見ると。そうすると3番目の言い方は懇願、つまりお願いになってしまって、上の立場からお願いされると断れなくなってしまう。したがって、クライアントの消極的否認の契機が隠蔽されてしまって、かえってクライアント自身に負の逆作用を及ぼすことになります。 それから、2番目は命令なんですけど、1番目よりまし、と思われます。1番目というのは、これはもう、一方的な非難です。これは、要するに、「何であなたこうなの」っていう、例の言い方です。これは、もちろん単なる疑問文ではなくて、「何であなたはできない、いつもできないの」、ということで、先ほどの1番目と対応している。 2番目は、これは、命令・強制でよくないんですけど、これは、エマージェンシー(緊急対応)の場合、・・・つまり、生命の危険がある、というような場合には、これはもう、一刻も早く受診させたり、お医者さんにかからせたりする、ということが必要な場合もあるので、1よりかなりましなのです。 それで、ちょっと急ぎますけど、自己覚知、ということで、これは、ワーカー・クライアント関係と言ってますけど、普通の人間関係でも同じじゃないか、ということを言っています。それから、相手は子どもでも同じなんじゃないか、ということも言えます。ですから、実際の親子関係・自分の子どもの場合、あるいは、夫とか妻という場合でも同じ、というふうに、一応言える、ということで、学生には言っています。いずれの場合でも、例えば、子どもの場合だと、いろんな生育歴を経てきた中で、こちらを試す、という意味で、さかんに攻撃をかけてくる場合に、それに対して、あえて冷静なふりをして対応するのはかえってまずい、ということで。実際に、「本当にもう何度もそう言われて、もう言うことを聞いてくれなくて、本当に、私はつらい、というか、悲しいよ」、というふうに言ったほうが、子どもは素直に変わる、っていう事例ですよね。これはもう、私自身の事例、・・・経験したことでもあるんですけど。そういった、卑近な例でも同じことが言える、ということです。 次の資料は、これは、初回面接のもので、熟練したワーカーのほうが、かえって、「自分は緊張している」ということを言っている、という例です。それから、6番目の資料は、記録ということで、これは、書くっていう作業においても、やっぱり、自分にとって都合が悪いことを隠蔽してしまって書かないんだけど、それはまずいっていうことを言っているので、さっきと同じです。相手と語るという場面でも、書くという場面でも同じ、ということを示しています。 それから、4番目の資料になるんですけど、これは、いわゆる転移ですよね。結局、根本的には、転移の問題があるんですけど。簡単に、どういうふうに言っているか、ということだけを、最後に述べます。それで、3番目の資料をあけてください。この図式なんですけど、若い学生は、もうラカンどころか、あんまり本さえ読んでいないというのが多いんですよ。上から最初の図式、これは要するに、こういうことだと思います。つまり父親あるいは母親(最初期の養育者)からいろいろネガティブな、あるいは、その逆の、いろんな感情をゼロ歳からずっーと注ぎ込まれている、と。それで、たとえば、「おまえはいやなやつだな」、と父親とかに言われてたとしますよね。それはなかなか意識化できない、ということを内化してしまって、そういった父親あるいは母親に対する、例えば、反感、いやな感じ、というものが内化してしまったときに、無意識に、出会う相手が父親と似てる相手に、それを転移してしまう。いやだな、ということを、このL字型三角形を説明する場合に、最も単純なやりかたで、そういうふうに言ってみると、出会う他人、Aに対して抱く感情というのは、実は父親あるいは母親への感情を無意識的に転移していることがある、というふうに意外にわかってもらえます。そういう複雑な生育環境に育っている学生も多いので、意外にも、みんな深刻になっちゃいますね、すごく。例外もありますが、通常の授業ではそこまででやめます。これはここで終わりにしますけど、私はラカンの専門家じゃないんで、いろいろ大変なことになると思いますけど、最初の図から始まって、ラカンのこのL図式に展開できる、というふうに私は思うんですよね。というのは、要するに、父親あるいは母親から私に向かっての感情は実は私のエス・無意識に向かって注ぎ込まれているので、他者に、その都度出会う他者に対する感情というのは、そのエスを経由して他者に向けられている、という意味で、次の図に変換できるんですよ。そうすると、この図っていうのは、ラカンのL図式と、反転されれば実は同じものになるので、要するに、3次元空間でひねってやるとほぼ同じになるのではないか。ここは別に専門家として言っているわけではいので、厳密に言っているわけではありません。ただ、そういった、1番目の非常に単純なところまで指摘してあげると、そうか、と。非常にいやなタイプ、話しにくいタイプが誰でもいるんだけど、それは結局、自分自身の感情を自分で自覚してみると、よくわかってくることがあるんではないか、というぐらいのことを、教育的効果としてやっている。言い換えれば、日本人は自分のことを、あるいは相手のことを、とくに相手にとってネガティブなことを言いたがらなくて、今の学生も、全然、若い世代も昔と変わっていない、ということですね。それがわかるんですけど、それを、いろんな、実はそうじゃなくていいこと、・・・実は感情が交流できることがあって、その方が、人間関係がよくなるということを、あえて示唆するということは、十分可能であるわけです。 <小井発表> 宮永:それでは次に、小井君。「スピッツ―<君>と<場所>のありか」、お願いします。 小井:国際基督教大学の小井と申します。「スピッツ―<君>と<場所>のありか」というテーマでお話をしたいと思います。スピッツというのは、今の日本の音楽のなかでも若い世代に受け入れられているロックバンドです。皆さんもご存じかも知れません。研究の視座としては、彼らの音楽性というものが、再帰的近代化という視点から見たらどのように見えるか、ということを今日は考えてみたいと思います。 理論的な前提として、佐伯順子さんの『恋愛の前近代・近代・脱近代』があります。佐伯さんはこの論文の中でどういうことをいっているのでしょうか。 日本においては、伝統的な「色」という観念が、主に男女の恋愛関係の機微を表す言葉として用いられてきました。明治期に、聖書翻訳の際、Loveの翻訳語として「愛」という言葉が用いられて以降、浪漫主義によって、これまでとは異なる男女関係を示す言葉として「愛」あるいは「恋愛」という言葉が、急速に日本社会に広められました。そこで伝統的な「色」の観念が失墜して、肉体と精神を分節し、前者を後者に従属させるキリスト教的な愛がどのような文化的、経済的条件のもとで、支持を獲得していったか、ということを佐伯さんは論じています。彼女によれば、この「愛」という思想は肉体と精神を分節化せず、性を聖なるものとする日本の伝統的なセクシュアリティの独自の価値を見失わせたと主張しています。しかし決して「色」の伝統がそこで途絶えてしまったわけではなく、現代において、再帰したそれが、例えば、家庭や生活空間、籍を別にする男女の結びつきや、同性の共同生活、というかたちで現れてきています。このことは結婚愛という近代の男女関係の幻想、理想そのものが崩壊しつつあり、こうした脱近代の動きは「色」の伝統へと回帰することになります。 この過程は、ここでこれまでにやってきたグローバル化における再帰的近代化のプロセス、つまり伝統があって、その伝統が脱埋め込みされて、再び新しい形で再埋め込みされる、という、そういうプロセスを示す格好の例であると思います。佐伯さんの論文は、日本の側から見た再帰的近代化の例ですが、ここで、視点を変えて、「愛」あるいは「恋愛」はいかなる変容を経験しているのか、という外から入ってきたものの脱埋め込み、再埋め込みのプロセスをここでは考えていきたいと思います。 ではスピッツが明治期の「恋愛」思想を新しいかたちで受け継いでいると言える根拠はなんでしょうか。それは透谷のいった「想世界」、「想世界」というのは肉体の有限性を越えた無限なる精神の世界、この世界にはないどこか別の世界を示していますが、そういった世界観を、現代において、新しく洗練された形で受け継いでいると思うからです。例えば、スピッツの歌詞の抜粋のプリントを見てください。その世界がどのようなかたちで表現されているかが分かるのではないかと思います。たとえば、幻の森、とか、約束した場所、とか、孤りを忘れた世界、二人だけの国、隠された世界、ちゃちな夢の世界、未来と別の世界、遠い 遠い 遥かな場所、夢で見たあの場所、というふうなかたちで表現されています。透谷の言った想世界が、ここではさまざまに言葉を変えて表現されています。 スピッツにおける想世界のキーワードというのは、「君」と「場所」です。この二つの観念において「愛」という新しくはいってきた概念と「色」という伝統的な観念が、相互浸透しあう影響関係がみられると思います。この愛と色を西欧的な文脈に置き換えて考えてみます。明治期に輸入された「愛」とはキリスト教の愛、これは多分アガペだろうと思います。アガペの愛には、互いの人格を尊重しあう、対等な人格相互の愛が、基本としてあります。しかし、西欧における愛のもう一方の側面、エロスというのは、「色」という観念において日本では処理されてきたように思います。エロスというのは、死を通じた合一性への欲求です。アガペという愛と、エロスという色が、スピッツにおける君と場所という、再帰的なかたちであらわれているのではないでしょうか。率直に言うと、スピッツにおける「君」とはアガペ的な対象であり、「場所」というのは、エロス的な空間である、ということです。再埋め込みされたあとの、「愛」という言葉には実質的には佐伯さんも主張するように、「色」と同じ意味を含む広い意味合いを獲得しているといえます。その相互浸透する複雑さが、スピッツにおける「君」と「場所」というかたちで、新しく、現代においてあらわれてきているのではないか、というのが、この発表の主旨です。これで発表を終わります。 宮永:ありがとうございました。質問、ありますでしょうか。お願いいたします。 どうぞ、外山君。 外山:場所がエロス的空間であり、そして君がアガペ的対象であるというのはなぜですか。 小井:場所というのは、一体化の空間のことです。つまり現実において存在する場所ではなく、君と僕という二人だけの空間のことです。その場所における、君と僕の関係というのは、一人、一体でありながら、二人に分割される。二人でありながら一人である、そういう関係性だと思います。その一体性をあらわす空間が、歌詞にあらわれるような、二人だけの世界、とか、隠された世界とか、ちゃちな夢の世界、というかたちで表現されているのだと思います。 外山:もしかしたら、もしかしたら、こういうことなのかもしれません。デカルトは精神と肉体という二元論の世界観をもっています。精神は空間的広がりをもたない存在であり、逆に空間的広がりをもつ存在が肉体です。肉体というのは空間的な世界における、空間的な広がりのある存在なのです。だから、エロス的存在である肉体は空間的な広がりである「場所」の概念と近い。そして肉体に対している精神はアガペ的対象である「君」を表している、と。 小井:肉体と精神とか、そういうことについて僕はここで言いたかったのではなく、君と場所というものには、新しい存在というか、存在の異なる局面というか、そういう側面がある、ということを示したかったのです。答えになっているかどうかわかりませんが。 宮永:あと10分か15分くらいで休憩がありますので。お二人はどうぞその時に、お続けになってください。次の発表の方に移らせていただきます。 <井上発表> 宮永:それでは、わざわざ遠いところから駆けつけてくださいました井上さん、お願いいたします。「ヒンドゥーナショナリズムのオルタナティブはあるのか」 井上:私は、論集『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』に「大衆文化とローカル・ポリティクス――インドのポピュラー音楽における「愛国主義」の構築と受容」という題の論文を書かせていただきました。論文を書くきっかけは、「The ‘Nation-State’and Transnational Forces in South Asia」と題した国際学会での研究発表でした。それに基づいて、この論文を書きました。今日は、この論文の背景となる「ヒンドゥー・ナショナリズム」についてお話ししたいと思います。なぜならば、論文では「ヒンドゥー・ナショナリズムに対する漠然とした不安がある」という書き方しかしておりませんでしたので、このへんのところを説明しておく必要があると考えるからです。インドの実情を知っていただくという意味も兼ねて、お話しいたします。最近、インドとパキスタンが、核実験をめぐり一触即発の状態だと言われたり、テロが頻繁に起きている状況がありますので、論文ではかなりミクロな話をしましたが、今回はマクロな話になるかもしれません。 まず、ヒンドゥー・ナショナリズムについて位置付けしなければなりませんが、『南アジアを知る事典』(平凡社、2002年新訂増補版)に掲載されている関連用語を、配布資料に載せておきましたので、そちらをご覧ください。また、資料の末尾には年表も付けておきました。 1992年の項には、「アヨーディヤー暴動事件、各地でヒンドゥーとムスリムが衝突」とあります。1990年代、いわゆる冷戦構造の崩壊以後、こうした暴動が頻発するようになりました。ヒンドゥー・ナショナリズムが台頭してくる時期は、じつはこれと一致しています。アヨーディヤー暴動事件の1年前、1991年は、インドが本格的な開放経済へと向かって進み出した年でした。このように、両方の動きには時期的な一致があるということが、重要ではないかと思われます。ヒンドゥー・ナショナリズム的な考え方は、もともとそれほど新しい考えではありません。昔からヒンドゥーとムスリムは対立していたわけではありませんでした。むしろ、イギリスの植民地支配以降、対立が顕在化したとさえいえます。そこで、植民地以降の宗教と政治の関係について考えてみましょう。 独立以前はガンディーが中心の時代であったとよく言われていますが、ガンディー主義が果たしてどれだけ民族運動の原動力になったかは問題です。ガンディー主義は、宗教的な倫理観・道徳観であり、彼の宗教は、ローカルなあるいはヴァナキュラーなヒンドゥーイズムに基づいていました。ヒンドゥーイズムという言葉自体は、イギリスの研究によってもたらされた枠組みではあるのですが…。民族運動におけるガンディーの問題とは、政治に宗教を持ち込んでいるという点です。彼が理念としたのは「寛容」の理想だったと思いますが、この理想がいかに困難であるかということは、流血の分離独立が示すところです。独立以降、ネルーが首相になってからは、イギリス支配の遺産であるところの近代民主主義やセキュラリズムを、ナショナリスト的解釈として持ち出してきたわけです。ガンディーの寛容の理想と近代のセキュラリズムは、実践のレベルでは同じように見えますが、ベースとなる部分が違うと言えます。セキュラリズムは一般には政教分離と訳されています。しかし、政教分離するためには、政治が宗教に介入せざるを得ないという矛盾を抱えています。 1990年代以降台頭してきた勢力に、インド人民党があります。この党のベースとなるヒンドゥー・ナショナリズムは、独立以前からありました。ヒンドゥー・ナショナリズムにとって、植民地時代における一番の敵は何であったか、それはガンディー主義でした。これが最も重要な点です。ガンディーは、あくまでもヴァナキュラーなヒンドゥーイズムをベースにしていました。ローカルな、ヴァナキュラーなヒンドゥーは、正統派の者からすれば異端として避けられるべきものだったわけです。こうした点から両者は全く違います。さらに、ガンディーは、近代が持ち込んだ科学文明や機械文明を、インドを駄目にしたものとしてまるごと批判しました。しかし、現代のヒンドゥー・ナショナリズムにおいて、科学や近代といった価値観、すなわち、現代社会におけるグローバルな経済や核実験、資本主義、市場経済など、いわゆる近代の産物が否定されたことがありません。これらのものとは矛盾しないという点に、ヒンドゥー・ナショナリズムの特色があるわけです。ヒンドゥー・ナショナリズムは、いわゆるイデオロギー上のものです。イデオロギー上のものと現実社会における行動の指針とは別であり、これらふたつが両立し得るというのが重要だと思われます。 1990年代において、ヒンドゥー・ナショナリズムが台頭してきた経緯を、ざっとまとめておきましょう。専門の先生からは怒られるかもしれませんが…。ひとつには、経済のグローバル化によって国内的な経済危機に拍車がかけられているということです。インド人民党は、「スワデーシー」すなわち、国産品を奨励すると表面的には主張しつつも、実際には、グローバル経済と折り合いをつけるという方針を変えていません。また、マイノリティの優遇措置によって逆差別が生じていると主張したおかげで、上位カーストの大きな支持をとりつけることに成功しています。さらに、グローバル化の影響によるネーション解体への危機意識があります。そもそも反グローバル化運動自体がグローバル化の産物であり、危機の原因を特定することが困難になっているわけです。すなわち、植民地時代のように外部の敵を特定することによってネーションの一体性を高めることができない、ネーション・ステートであるための基準がはっきりしなくなってきたことが、現在のヒンドゥー・ナショナリズム台頭の背景にあるのではないかと思われます。その結果、外部に具体的な原因を求めて戦うことができないのであれば、内に向かってそれを理想化するという反作用的な側面と、隣国パキスタンや異教徒を安易に外敵として想定するという側面とが、同時に起こっていると思います。現在、様々な側面からどうしたらこうした問題が解決できるのかという模索が続けられています。その一例として、私が論集『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』で紹介した事例は、愛国主義をモチーフにして、ヒンドゥーとしてのインド人ではなく、インド人としてのインド人というものを立ち上げることによって、すなわちヒンドゥーとは異なるアイデンティティを与えることによって、解決をはかろうとするあり方でしたが、それははっきり言って、ヒンドゥー・ナショナリズムと非常に親和的であって、決して成功していないと言えます。実際、愛国主義が広まってすぐ後に、核実験が行なわれたりしているわけですから、この方向性は、むしろヒンドゥー・ナショナリズムを強めているとさえ言えます。 よく、インドという国は、Unity in Diversity多元的共生、多様でありながら統一されているなどと言われます。確かに、インドという国は、それをずっと理念として掲げてきました。しかし、それを実現することの困難さは、独立後50年間で明らかになってしまったのではないでしょうか。独立以前に、ネーションは、結局イギリスによって構築されたと言えます。ネーションという意識を構築するためには、他者である外敵を必要としてきました。ところが、独立してその外敵がいなくなったとき、身近なところではやはりパキスタン、そして現在では国内のムスリムやクリスチャンを敵として求めてしまう傾向があります。インドはこれまで、多元的共生のためにさまざまな政策を施してきました。例えば、連邦制の実施です。連邦政府は、民族や言語を基準とした州に何らかの権限を与えるという方策を講じてきました。しかしそれはうまくいっていません。 配布資料には「ハイブリッドなアイデンティティ」と書きましたが、これはホミ・バーバがよく言っていることです。私はこの言葉に非常に疑問を感じます。なぜなら、アイデンティティがひとつでないのは当たり前だからです。ガンディーの多元主義を見れば分かるように、多元的共生は実現困難な理想でした。彼自身のこのような思想にはジャイナ教の影響がありますが、彼も結局狂信的なヒンドゥーに殺害されたわけで、多様な人々の中で矛盾なく共存することができなかったと言えるでしょう。さらに、ハイブリッド性は植民地時代にはあったにもかかわらず、現在のヒンドゥー・ナショナリズムは、それを否定してむしろ集合的なアイデンティティを強引に構築しようとする傾向があると思われます。そこには、排他的なアイデンティティ政治が立ち現れます。すなわち、アイデンティティに必要なのは反アイデンティティであり、それを身近な他者に投影することによって、アイデンティティを立ち上げているのです。こうした中では、インドの多様な人々は共存不可能になってしまいます。 また近頃、「多文化主義」ということも言われています。その実際的な政策は、物理的空間の棲み分け論理に基づいていると思います。この論理を考えるならば、誰もが共有できる棲み分けの論理は不可能ではないかと思います。なぜなら、現実的にインドは多様であるから、棲み分けの論理を政策的に採用してきたのですが、それはうまくいっていないからです。また、世界システムという観点からみても、世界システムは、その中に多数の国民国家を作ることによって、地理的な棲み分けの論理を実践していると言えます。しかしそれにもかかわらず、これだけ多くの紛争が起こるのは、この論理がうまくいっていない証拠だと思われます。さらに、公定の多文化のリストをいくら増やしていっても、すなわち、独立をたくさんの国に与えたり、連邦制では州という形で権限を各地域に与えたりしても、棲み分けの実践が果たして可能かどうかは疑問です。以上のように、現実の地理的空間の棲み分けには、非常に限界があります。 空間の棲み分けについては、CMC(コンピューター・メディエイテド・コミュニケーション)のコミュニティについても考えてみましたが、これは現実の物理的空間の棲み分けとは異なるであろうと思います。ネット上では「テーマ別棲み分け」が中心となっています。従って、棲み分けの論理がある程度可能になっているとみることができます。ただ、今のところ、私はそれ以上は何とも申し上げられません。 4番目は、「本当の私を求めるのをやめること」です。これは、いわば付け足しのようなものなのですが、アンジェラ・マクロビーというカルチュラル・スタディーズをやっている人が言っていることです。これを「個の可能性」というテーマに引きつけて考えてみて、「たまねぎのようなアイデンティティ」と書いてみました。たまねぎとは、ガンディーのような多層の多重のハイブリッドなアイデンティティを言っているわけではなく、剥いたら中身がないということです。どんどん剥いていっても、芯があるわけでも種があるわけでもありません。こうしたアイデンティティの構想は、より有用なのではないかということです。私は心理学も精神分析学もやっていないので、これは素人の考えですが、「本当の私を求めるのをやめること」という意味からこうした提案をしてみました。 次に考えたことは、公的空間において人々は何をする必要があるのかということです。すなわち、個が集まったとき、それが集団となるとき、どういうことを考える必要があるのかということです。ひとつの提案としては、まず「帰属の資格を問わないこと」です。これが一番重要ではないかと思われます。それからもうひとつは、「語りの権利の承認」です。「語り」は聞かれないと成立しません。語る人がいて聞く人がいて成り立つのが「語り」です。そういう関係を構築する権利を承認することが、公的空間において求められるのだと思います。以上、私が参考にしている文献や資料から敷衍して、提案させていただきました。 <全体討議> 宮永:発表者が提出した材料に比べると、討論の時間が少ないので申し訳ありません。思います。続きは、来年に発展させていただくとして、本日は、事項確認の質問ではなく、これぞズバリ本題だという質問を、フロアの皆様にしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。 藤枝:井上さんのご発表について質問いたします。「個の可能性」として、たまねぎの皮のようなアイデンティティについてお話しなさっていましたが、それは剥いたら何も無くなくなるということでしょうか。あるいはそれを「アイデンティティを持たないというアイデンティティ」として理解すればよろしいのでしょうか。 井上:「アイデンティティを確立しなければならない」という意識を持たないということです。 藤枝:「アイデンティティを持たないこと」というわけではないのですね。 井上:「アイデンティティを持たないこと」というよりは、ある特定の形でのアイデンティティを構想しないということです。皮を順番に剥いていけば、自分自身とか何か本当の自分とかが種のように、核のようあるのではないか、そのように思わないことをアイデンティティにするということです。 星:剥いていくたまねぎの皮について、具体的にどのようにイメージなさっているのかを、もう少し教えていただけますか。 井上:たまねぎの皮は、状況に合わせていろいろだと思います。例えば私たちは、ある時は学校の学生であったり、ある時は日本人であったり、ある時は何々教の信者であったり、ある時は何々家の一族であったり、いろいろな帰属意識を何重にも持っています。状況に応じてそうした帰属意識の中のどれかが突出することがあったり、なかったりという状況があります。それらひとつひとつを、たまねぎの皮というように申し上げただけです。 篠田:井上さんのアイデンティティについての見解を伺っていると、人間性を否定しているように感じます。人間というものは、かならず自分しかないわけです。それぞれ育っている場も違うし、自分は自分しかない。このことをアイデンティティと捉えてはまずいのでしょうか。そうしたアイデンティティを否定するということは、自分を否定するということになるのではないでしょうか。それは、自分の人間性の否定ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 井上:自分自身のただひとつのアイデンティティ、これこそが本当の自分であるという、そうした意識を立ち上げるためには、反自分のようなものを常に想定し、それを他者に投影してしまいます。それが先ほど報告した敵対状況につながっています。反自分、自分とは違う概念、それらを立ち上げているのもやはり自分自身であるから、それを立ち上げることの繰り返しをやめたほうがいいということです。人間性という問題には、私は一言も言及していません。 宮永:井上さんのご提言は、二元論を超越するという一つの方式ですか。 井上:そう言われれば、そういうことかもしれません。核となるアイデンティティ、本物の自分があるのではないかという意識は、申し上げた事例で言えば、ヒンドゥーこそが自らがよって立つものであり、ヒンドゥーに帰属するという意識、常に自分はヒンドゥーであり続けなければならないという自己を本質化してしまう意識です。そのような意識を持とうとするとき、ヒンドゥーではないものを自分の中に想定してしまいます。だから、そういうことをやめたほうがいいのではないかと提言したわけです。では、ヒンドゥーでないものを自己の中に意識するときにどうするかと言えば、周りにいる他者をみて、その他者のなかに反自分を見出し、それをヒンドゥーではないものとして自己の中に位置づけるわけです。それが、ヒンドゥー・ナショナリズム形成の大きな要因になっているのです。 篠田:人間というのはやはり、自分だけで生きているのではなく、対社会性、対関係性が非常に重要です。その関係性を否定しようということでしょうか。 井上:いいえ、違います。関係性の保ち方を変えようと言っているのです。 篠田:それは、自他非分離的世界ということに通じるのでしょうか。 井上:そうした言葉で言われると、ちょっとよく分かりません。 篠田:関係性をもう少し重視するということですが、宮永先生のご本の中では「間人」ということで定義されていました。そういうことなのかどうかをお聞かせください。 井上:関係性については、発表内容の公的空間における人間のあり方という部分で、先ほど挙げた二つが私の基本的な考え方です。それは、相手に対して「帰属の資格を問わない」ということ、すなわち、相手が拠って立っているアイデンティティというものを問わないこと。そして、それを問わないところから「語り」を始める。これが相手の「語りの権利の承認」ということです。つまり、相手の「語り」を聞くということです 篠田:そういうことに関しては、全く賛成です。ただ、個を最初に定義をどのようにするかという点で、先ほどのロジックについては理解できないということです。 武者小路:まさに今のお話なのですが、アイデンティティについて3つの質問があります。一つは、「語り」において相手のアイデンティティを問わないということが、まさにガンディーのアイデンティティだったと思います。ガンディーはヒンドゥー教徒ではないような、あらゆる宗教を乗り越えたところから語る人でした。その際に、自分がヒンドゥー教徒であるというアイデンティティも持って、そして相手のアイデンティティがヒンドゥー教徒であろうがイスラム教徒であろうが誰であろうが、まさに自他のアイデンティティを問わないということを実践して、それで失敗したのだと思います。それだから、私はガンディーを尊敬しているのですが…。成功していたら、私は尊敬しませんけれども(笑)。とにかく、無理を承知でそういうことをやろうとした。 一つの質問は、井上さんは、ガンディーの実践をそのようなものだと考えているようでもあるし、一方でガンディーは駄目だったと認めていらっしゃるようでもある。そこに、難しい問題があるのではないかということです。つまり、アイデンティティというものを乗り越えようとすると、ガンディーのような問題が起きてくる。しかしガンディーの弟子ネルーは、非常に現実主義的に、宗教を乗り越えた世俗主義的なアイデンティティをインドのために作ろうとしたと思います。それにはいろいろな問題があるというのは、ご指摘の通りだと思います。そこをさらに乗り越えることができるか。私は、乗り越えるためにはガンディーにもう一度戻る必要があると思いますが、それはどうだろうかというのが、一つ目の質問です。 もう一つの質問は、アイデンティティと関係性の問題についてです。これは、ジェンダーの問題ともつながります。ヨーロッパの人権思想では、女性の人権は人権であるという考え方は出てきません。つまり、すべての人間は同じであり、女性と男性は違わない「個人」であると考えます。しかし、フェミニストがジェンダーという考えを入れたことで、関係性が男と女の間で問われるようになった。ジェンダーというと女性のアイデンティティを確かめられるのは男性があるからで、その関係性を大事にするということが、今日では世界的な傾向になっています。しかし、日本の男女共同参画社会の理想は、ジェンダーにこだわらない社会を作ろうというということですが、そういうことはつまりジェンダーの諸問題を再帰的に考えないで、忘れられるような社会を作ろうとしています。国際的にはむしろジェンダーに敏感であれといって、ジェンダーにこだわって、再帰的にジェンダーの問題を取りあげようとしています。ところが日本では、ジェンダーのアイデンティティはもう要らないという社会を再帰的な反省をしないままで作ってしまおうとしています。この問題をどう考えるか。ジェンダーにこだわらない方がいいのか、敏感であるほうがいいのかという問題が一つあると思いますがいかがでしょうか。 それから、三番目に、ちょっと突拍子もないことかもしれませんが、西田哲学の「矛盾的自己同一」というのがあります。自己同一をアイデンティティととれば、矛盾的アイデンティティということになります。これは、矛盾としてアイデンティティを確立するということです。自分を主張することは自分を滅することであり、相手を認めることが自分を認めることであるという、矛盾的に再帰的になることでアイデンティティを深めるという考え方は、ヨーロッパにはあまり無いのではないかと思います。ほかのアイデンティティをただ無制限に認めるのではなく、矛盾的に、つまり、弁証法的に自分のアイデンティティを主張することはできないものだろうかと思うわけです。相手のアイデンティティを思いやりながら、これと同じでありながら別である自分のアイデンティティを主張するということです。永澤さんのご発表のなかで、援助者がクライエントに意見を伝える際の4つの表現を、例に挙げました。その例の4つ目は「あなたが怒っているので、私も怒りが湧いてきて困惑しています」というものでした。正しい質問かどうかは分かりませんが、日本人だったら、少なくとも私だったら、自分が怒られいていてもその相手に対し「あなたが怒っているのはもっともですね。しかしちょっと…」と返します。「もっともですね」と相手の立場つまりアイデンティティを認めながらも、自己肯定をして相手のアイデンティティを批判によって再帰的なものにするということがあってもいいのではないかと思います。西洋的な発想ですと、そういう形で自分が怒っていれば正直にそれを言うのが自己主張ですが、むしろそれを否定して矛盾的な自己同一で、相手のアイデンティティを喜ばせるようなことはできないだろうかという問いが、三番目の質問です。 宮永:武者小路先生より、四点のご質問をいただいたと思います。質問の中心は、「矛盾的自己同一」で、これがもしかしたら、弁証法的な考え方ではないか、ということです。それでは、一番最後の四つ目の質問を、永澤さんに、最初に答えていただきまして、その前のジェンダーについては、薄井さんにお願いいたします。その前のインドに関しての質問は、井上さんにもう一度お答えいただきたいと思います。その後で、さらに他の方も加わってくださいますようお願いいたします。 永澤:できるだけ、簡単に答えます。今の武者小路先生の質問は、少し言い足りなかったところをまさに指摘していただいたと思います。さきほど、配布資料の3番目の文例が優等生的であると説明しました。例えば、初めて会った人などと最初はあまり信頼関係ができないのは、当たり前です。そういう時でも、「あなたが怒っているのはもっともですね」というふうに相手を受け入れるのはたいていの場合必要です。ですから、3番目にある「あなたが怒っているんですね、怒りを感じているのですね」という文例や、武者小路先生がおっしゃったような、「あなたが怒っているのはもっともですね」というのは、とりわけまだ会ったばかりとか、あまり付き合いが深くない、信頼関係がまだ十分形成されていないときには不可欠なものなわけです。そして、ある程度、信頼関係が形成されていたとしても、「あなたが怒っているのはもっともですね」というのが、まずベースにないと、4番目の文例も発動しないというのはまさにその通りなのです。ですから、これは背反的なものでも、対立しているものでもなく、ワンセットで、常にあるというものなのです。ただし、4番目の文例は、受容しているだけで、その先に関係がすすまない時に、もう一歩踏み込んだ関係をつくる場合です。この場合は、仕事ですので、ある程度の信頼関係が、いろいろな紆余曲折があっても、クライアントとの契約関係が続かざるを得ません。途中で放棄するわけにいかず、例えば1年ぐらいのスパンがある場合、ある程度、信頼関係ができているというのが、4番目の文例の条件になっています。そうでない場合には、先ほど申し上げたように、「けんかを売っているのではないか」というように失敗してしまうわけです。ですから、「あなたが怒っているのはもっともですね」というのは常にベースとして必要です。その上で「私も実は怒りを感じている」ということを何らかの形で伝えていかないと、「じゃ、あなたもそうだったのか」という認識が導入されません。そうでなければ、感情が交流するレベルまでいかないのではないかということなのです。日本語と英語の問題もあります。英語では、単にI feel、 つまり、「私」からはじまります。私の感覚を明示して、あと必要でなければそれだけでいいのです。ただ、英語の場合は最初に結論を言わざるを得ません。I 〜 といって、「それはあなたがそんなに私に本当に何度も怒りをぶつけているのだから」という構図が後にきます。ところが日本語の場合は、たいていは、「ので」が先にくるので、「あなたが怒っているので」ということになってしまいます。そうすると、「あなたのせいで、私が怒らされている」みたいな誤解を受けてしまいます。ですから、われわれ日本人がこれを読んだ場合に、ちょっとまずいじゃないかということになると思うのです。ただ、ポイントは、あくまでもI feelです。自分のfeelを相手に伝える、あるいはオープンにするということがポイントです。そして、まさに武者小路先生がおっしゃったようなことでも、ベースにこのポイントがなければなりません。だから背反してはいけないのです。 宮永:矛盾はどこにあるのですか? 永澤:矛盾というのは、矛盾というのは、少なくてもこの議論においては、私自身、宮永先生のいう「創造的破壊」あるいは、さきほどの先生の発表にあった再帰性の定義でしかとらえていません。それは、さきほど島添さんの事例が日本に限定したものか尋ねた理由でもあります。「日本風」の人間関係、例えば、「仕事明けに仕事仲間と飲みに行く」といったものは、おそらく、アメリカ人にとっては異質なものです。夜、ディズニーランドの従業員が一緒に、赤ちょうちんで飲んでいるといったことに直面して、島添さんは驚いたと思います。しかし、ディズニーはすごいので、そういうところまで踏み込んで、取り入れてしまった。結果的に予定調和になっているのですが、私の考えでは、これはまさにヘーゲルなのです。私は弁証法そのものだと思います。だから、ある程度自分を崩して、日本みたいにへんてこな空間までとりこんでも、あいかわらずディズニーのシステムが貫徹してこそ弁証法なんだと私は考えているのです。そう考えると、宮永先生の再帰性とは少しずれると思います。だから、島添さんは違うといったのだと思います。しかし、私はあくまで再帰性で考えたいので、あまり弁証法にこだわりたくないのです。 宮永:弁証法、再帰性の概念については、まだ討論が必要だと思います。武者小路先生、今の永澤さんのお返事でよろしいでしょうか? 武者小路:よくわかりました。「あなたは怒りを感じているのですね」という言葉のなかに、「それはもっともである」ということが含まれているというのが、日本語だとはっきりいえるけれど、英語だとはっきりいえないということですね。 永澤:言語によって、どんな言いかたが許容されているか、というように考えたことは ないのですが。 宮永:それでは、薄井さんお願いします。 薄井:武者小路先生、するどいご指摘ありがとうございました。先生からおっしゃっていただいたのは、まさに私がいつも論文を書くときに、頭の中に置いている課題です。ジェンダーに関するアイデンティティの問題は、一方では、井上先生のように私もたまねぎをむいていくようにして、ジェンダーもむいていけるといいと思います。けれども、ジェンダーはやはり、かなり深いところまでいろんな形で、アイデンティティを規制します。自分がジェンダーといったものを軸にしてアイデンティティをたてるということもありますし、社会や文化の中でのジェンダー秩序といったものに、かなり左右されます。その辺の関係は、他のものに比べて、そうとう深いのではないかと思います。ですから、ジェンダーから解放されるとか、ジェンダーから自由になるということは、言葉ではいえるけれど、実際にはどういう状況なのかというのは、私は想像がつきません。グローバリゼーションの中で、本当に幅広く、フェミニズムなどが展開しましたが、それぞれの地域では、その展開の仕方に特徴があると思います。やはり、日本には日本の伝統的なジェンダー秩序と いったものとつじつまを合わせながら、結局、再帰的近代化の中での、ジェンダー解決、ジェンダー対応といったものをやってきたと思います。 今日紹介した事例も、結局何がでてくるかというと、日本の文化的なイエというような秩序の中でのジェンダーの問題なのです。発表で申し上げたように、自分のアイデンティティを考える際、女性であるとか、男性であるとか、そういったことを一つの軸にしながら、それをはずせないものなのだということを、女性たちも認識しています。それによって、新しい自分たちのアイデンティティを再構築していくというプロセスが見られます。ですから、彼女たちの運動としては、自分たちは女性でないとか、男性・女性はない、つまり無性的な存在だといっているのではなく、根本的にはジェンダーとは何なのだということを社会全体、集団全体で批判的に検証したいということでしょう。ただ、これは他の状況でもよくあるのですが、男性も女性も同様にある組織の中でやりたいとか、女性の差別をなくしてほしい、女性らしさといちいち強調しないでほしい、と女性側からの要求に対して、じゃあ、本当に男性・女性はないのか、あなたたちは性差を無視するのかという反論が返されるだけになりがちです。問いなおされた側は検証するがことなく、せいぜい社会は男女で成り立っているのだから、ということで「男女共生社会」や「男女共同参画」という非常に現代的な言葉を使いながら、結局はジェンダーについての議論が成立しない構造になっている。それは女性たちの問いかけを無力化させるのです。そういったことが、日本のやり方の一つとして顕著になってきたように思います。この坊守問題でも、そのことを主張したかったのです。ジェンダーにこだわらない方がいいのか、敏感であるほうがいいのか、という問いに対して簡単に答えることは難しいのですが、男性とは何か、女性とは何か、というアイデンティティに関わる議論をもっとしたいという当初の訴えが、男性も女性も一緒に述べあいましょう、という部分だけ吸い取られた形になりがちであること、それをゴールとして新たに再びカテゴリーの中に再統合するというプロセスが進行しているのではないかと危惧しています。 武者小路先生のご質問とはちょっとずれましたが、ジェンダーにこだわらないというスタイルを取るこの社会の中で、いかなる私を問うことができるのか、ということをグローバリゼーションとアイデンティティ・クライシスにからめてみました。 武者小路:よくわかりました。 宮永:井上さん、もう一度お話になられますか。 井上:はい、ガンディーのことで。現在問題になっているヒンドゥー・ナショナリズムをどう乗り越えるかという文脈で、ガンディー主義に戻ることは意味のあることだという認識は、インド人の間にもあると思います。ネルーや他の指導者たちの考え方はこのところしばしば批判されていますが、ガンディーは常に再評価される存在であり、非常に重要な存在であることはおっしゃる通りです。それは、ガンディーのアイデンティティのあり方というより、彼の思想体系に対してだろう思います。その思想体系を彼のことばで言えば、「神は真理である」ではなく「真理は神である」ということです。すなわち、真理というものを人間はアッラーとかエホバだとか様々な神の名前で呼んでいるということなのですね。人間は、名前を通じてしか真理というものをつかむことができないわけで、それこそが真理というものであり、ガンディーも人間である限りつかめないのは同じです。しかし、ガンディーは、その真理に近づく手段、真理を把握するための手段として非暴力主義を唱えるわけです。彼は手段についてしか語っていないのです。非暴力主義という手段こそが真理をつかむという最終目標のために重要だというのです。だから、彼は、真理は何であるとか、真理はどういう神であるとかについては何も言ってないのです。そして、その手段をインドのネーションを立ち上げる時に政治的に利用したのがガンディーなのです。私が思うに、ガンディーにとって一番難しかったところは、非暴力という手段を、彼以外の人達全員に徹底させることができなかったという点です。非暴力という手段はとても現実的であり有効であると、ガンディー自身は信じ、しかもそれほど難しいことではないと考えたかもしれませんが、他の人にとっては、非暴力という手段こそ、実現するのが最も難しかったのだと思います。しかし、ガンディーの思想が基本的に非常に重要であるという意見に関しては同意いたします。 武者小路:はい、おっしゃる通りです。ただわたくしの解釈は、ガンディーの思想というのは、思想だけでなくガンディーのアイデンティティそのものであり、自分を体現しているものだったと思っています。だから、誰もついて来られなかったのではと思います。ガンディーはインド人ですがインド人でなく、サティアグラハプ、真理を求める人、いわば真理をアイデンティティとする真理人である。人々はガンディーにはついていけないが、思想は評価する。そこのところにひとつの矛盾的自己同一がある。 宮永:先生に質問申し上げたいのですが、先生はそれを矛盾的自己同一で、西田哲学で拾い上げたいわけですよね。どうして今、矛盾的自己同一をつかって、グローバル化をつくりあげようとなさるのかを種明かししていただけませんか。 武者小路:はい、非常に簡単なことです。色々なアイデンティティが色々な形で渦巻いている以上、喧嘩は避けられない。その喧嘩をどう創造的な破壊に変えていくかと考えるときに、なるべく多くの人が自分のアイデンティティを矛盾をもったものとして定義する必要があるのではないか、と思うのです。グローバル化の中で起こっている自己主張の嵐は、画一化と対立するアイデンティティを皆が主張しながら互いに争いを起こす。グローバル化のひきおこすアイデンティティの危機の中で、再帰的にグローバル化する争いを乗り越えようとすれば、矛盾的自己同一がとても大事になってこざるをえない、という仮説です。 宮永:非常に興味深いと思うのですが、先ほどこれは西洋にはないとおっしゃられましたが、そうでしょうか。 武者小路:ちょっと口が滑りました。常にわたくしの言う事には矛盾があります(笑)。 宮永:今の件に絡んで、質問おありの方。 能勢:玉ねぎのアイデンティティというのは、争いを避けるためのもの、あるいはアイデンティティ・クライシスを起こさないためのものと考えればよろしいのでしょうか。 井上:アイデンティティ・クライシスの最も大きな原因は、「本当の私」にあたるアイデンティティを求めても得られないところから起こると思います。そうであるならば、そういうものを求めるのをやめれば、クライシスはなくなると考えられます。 松井:ちょっと気になったのですが、アイデンティティを求めなければいいといっても、実際社会では求められるわけですよね。例えば自己紹介をしようとする時、自分をある程度カテゴリー化しなければならないわけです。例えば自分はどこの大学で、などだいたい帰属によって説明しますよね。アイデンティティを求めないと、自分のことを他人に全く説明できなくなってしまうのではと思うのですが。 井上:ですから、あくまで「本当の私」とか「ただひとつの私」とか「これこそが本物の私」を求めないという話であって、帰属の説明は状況に応じて多様でかまわないわけです。それはたまねぎの皮の部分です。剥いたときのその一枚一枚の話です 宮永:ちょっと確認なのですが、玉ねぎの皮はいくらもっていてもいいわけですか? 井上:そうです。一枚だけの人は一枚で…。 黒田:ある時、玉ねぎの皮ではない事があるから問題なのです。玉ねぎは、他者との関係の中でとらえるものですよね。例えば、すぐ脱げるようなアイデンティティならいいわけです。ところが、まさに宗教対立が起きている現在をみると、玉ねぎの皮が剥けないから起こっているのですね。玉ねぎの問題だけで考えてはいけないように思います。先程の原理主義の例でもそうですが、親鸞会というのは現状では発表された通りに観察されると思いますが、親鸞会が起きた時からずっとそうだったか、どういう変化をしてきたのか。又、沖縄のユタの事例でもそうですが、どういう条件によって変化してきたのか。同じようなシャーマニズムの動きが韓国でも盛んです。軍事政権下ではシャーマニズムや伝統的なものを保護するような法律を作りました。その中で、国民としてのアイデンティティを強化することになったという経緯があります。70年代から国民意識を強化する方向になり、玉ねぎの皮ではなくたまねぎの「鎧」にされてしまう。その契機が何だったのか。そこを議論する必要があると思います。 宮永:たまねぎは比喩として、比喩ですが…樫村さん、どうぞ、お願いします。 樫村:精神分析では自我を論じる際に「玉ねぎの皮」の比喩を使います。自我というものは、玉ねぎの皮のように剥いていっても何もないと論じられています。その際、何もないところに皮がひとつひとつ重なっていくのではなく、それは他者から受けた影響を内化・したものです。玉ねぎの皮は、他者との関係によって構成された歴史的なものです。「他者」とは具体的人間、社会、歴史を含むものです。他者なり社会なりが安定していた時代には玉ネギの皮は固定化しています。だから玉ねぎには見えないわけで。玉ねぎの比喩が出て来たのは、大状況としての「他者」が揺らぎ、不安定な時代状況になってきているので、それに対応する形の「個のアイデンティティ」が求められているということです。自分の「玉ねぎの皮性」のようなことを自覚して、揺らぐ他者なり社会なりに呼応した形で自分を再構築していかないと、アイデンティティ・クライシスになってしまうということです。そうすると、先ほど黒田さんがおっしゃったようなことも出てきます。再帰的な主体ではなく鎧で対抗しないと自己が壊れてしまうのです。 宮永:ちょっと待ってください、萩原君の質問は関連することですか。続けていただいてよろしいですか。はい、ではお願いします。 樫村::宮永さんは、実践性をもったプロジェクトを提起されていると思います。そこでは、個の再帰性が非常に強調されていると思います。その場合に、今回出されている森さんの親鸞会のファンダメンタリズムの例や、島添さんのTDLの例などは、再帰性の失敗例なのか。宮永さんが以前の本で出された「真光」の例ですと、個の再帰性という強調よりももう少し広い文脈で、グローバル化の中における日本的な対応について述べていらしたと記憶しています。その時と現在の焦点は違っている気がいたします。そうしますと、森さん、島添さん、そして私の例は今回の実践的な提起の中でどのように位置付けられるのか。それをお伺いしたいのですが。 宮永:はい、それでは全体的に萩原君はどうですか。 萩原:ちょっと別のことになります。 宮永:別のことになってしまう。どうしましょうか。では、私がこの件について簡単にお答えして、萩原君にバトンタッチします。私の問題提起のところをもういちどご覧になっていただきますと、1枚目の、3段落目の「ところが、西洋と、日本に代表されるような再帰性には〜」、からです。ここのところなのですね。西洋で再帰性ということを考えるときには、要するにアンチテーゼをテーゼから導き出すということを言っているわけです。アンチテーゼを導き出すときに、批判精神というものが契機となりうるというところに、西洋の知の力に賭ける、と言う姿勢が出てくるわけです。それを代表するものが文芸運動だから、文芸運動は非常に重要なわけです。それに対して日本はそうでなくて、アンチテーゼというものは外から来る、つまり、西洋がアンチテーゼとなっているわけです。日本に対して。そういう図式は西洋ではまず弁証法とは言わないのです。私はこれを含めたいので、弁証法という言葉ではなくて、多分ギデンズもベックも再帰性という言葉を新しい形で使ったときにそういういう野心があったと、考えたいのです。ところが、ギデンズに関しては、イギリスでは、この件に関しては、めちゃめちゃに批判されたらしくて、結局ブレア政権のグル(カリスマ的なブレーン)になってしまったと、そういう形で決着してしまっているのです。彼は西洋人だからそこで済むのかも知れませんけれど、非西洋人の私、あるいは、私たちにとっては、日常的に切実な問題だ、と感じるわけです。どうしてそう感じるかというのが、まさにグローバル化の現実であると、私は感じている訳です。そこを深入りして行くと、さまざまな今までの問題に到達して行く、ということなのです。それで、また来年まで勉強してきますので、ここで、ご批判、御意見、いただけると嬉しいのですが… 樫村:しつこいのですけれど、そうすると、TDLの例とか、ファンダメンタリズムの例は、研究者として客観的に見ると、こんなことが起こっているのですが、構造はこんなになっています、でよいのです。しかし、実践的にみていくとどうなるのか。非西洋の例はただ再帰性の失敗例だと。 宮永:そうですね、再帰性という言葉の全体的な定義は、私はもうちょっと待ちたいのです。しかし、弁証法の方から言えば、弁証法の失敗だと思うのです。それは、バリッジが「個のアイデンティティ」の中で論じているところです。それは何かと言えば、結局西洋だったら、アンチテーゼとなるべきものが、アンチテーゼとなり得ずに、周辺化されてしまって選択肢になる。だから、人はそれを選んでその中に参加するか、あるいは、選ばないで、どうぞあなたやってください、という選択肢になる。しかし、選択肢になるだけであって、中央のエスタブリッシュメント、つまりテーゼです、それに対して力を持たないということになる。だから、弁証法という意味では失敗です。偽の弁証法です。再帰性という風に考えたときに、偽の再帰性であるかどうかは、まだ検討中ですので、来年までには少なくてもある程度の答えは見出したいと思っています。 樫村:そうすると、今は非西洋の事例についてはとりあえず判断留保するということですか。とりあえず現実を分析しようと。 宮永:そうですね、現実をもっとしっかりと見ていきたいと思っております。はい、ではどうぞ。 武者小路:よろしいでしょうか。今の話でもうひとつ質問があるのですが、グローバル化というときに、このグローバル化というものは、均質な形をとるというのではなくて、中心と周辺だかなんだかよく分かりませんが、グローバル化に参加するアイデンティティと参加できないアイデンティティの区別が出てくる。やはり今日の発表で非常に勉強になったのは、グローバル化に十分参入できない周辺の沖縄におけるユタの役割、癒しということは、おそらくグローバル化に参加するディズニーランドでは不可能だと思うのです。ユタはディズニーランドには入って行けない。だから、グローバル化の中心に一番近いのはディズニーランドではないかと思うのです。アメリカを中心としたひとつの経済の一番の中心となっていて、それはマニュアル化していて、その中でなんとか自分を確立しようとしている。ユタ、これはやっぱり、日本全体でそういうことはできなくて、沖縄でなくてはできない。それは逆に言うと、沖縄が周辺であるからそれができる。癒しというものをグローバル化の中心でやるのと、周辺でやるのと、その違いというのを、どう評価なさるか。グローバル化の中心、周辺ということに関し、アイデンティティと癒しについてどのようにお考えになっていらっしゃるのかということを質問したいと思います。 佐藤:武者小路先生のご発言は、非常に重要な問題提起だと思います。癒しの場面というのは個別の場面なのです。近年、日本本土から出かけてユタに相談する人が増えているという現実もあります。なぜ沖縄なのかというのは、「あなたはそれでいいのだ」という形で、相談者がまずそのまま自己肯定されるからです。「ああ、大変なことがあったんだね」と、相手をそのまま受容するセラピーになっている点が、沖縄のユタの癒しの一つのポイントです。もちろん、親兄弟姉妹を大事にし祖先崇拝のために墓参しなさいという、信仰行為の指南をすることもあります。しかしそれは、沖縄という場に根ざしたものです。 自己肯定や自己受容を可能にしている沖縄の社会的な場は、衝突をよしとしない人間関係を作るようになっています。これが、都市を「中心」とするTDLのマニュアルの自己実現効果と、「周辺」としての沖縄文化における癒しの違いなのではないでしょうか。沖縄という場に根ざしたセラピーは、それ自体は地域限定ではあっても、「グローバル化する都市」における癒しの処方との対照のなかで、その効果を持ちうるのだと思います。癒しとグローバル化の問題というのは非常に重要なテーマです。ご指摘、ありがとうございました。 樫村:永澤さんのお話を、精神分析に非常に深い問題意識をお持ちだなと思って、聞かせて頂きました。が、私も含め他の人たちは日本的な事例を出しています。永澤さんは 日本的な心理療法という日本モデルを想定して話をされているのかお伺いしたいと思いました。それとも基本モデルで話をされているのか。 永澤:はい、精神分析の専門家ではないので「基本的な」と言われる場合、どういうものか分からないのです。ただ基本的なものに対して、具体的な事例を通して、接近するということをまず考えました。それはたとえば「ひきこもり」とか、「パラサイトシングル」とか、「境界例」などです。それらには確かに日本的な事情というものがあると思うのですが、それらがどういうものなのかを考える、というかたちでしか思いついていないのです。実際にやっているのは基本的なことです。そこで基本的な精神分析というものが、どういうものかということを、逆に私のほうがお伺いしたいです。 樫村:それに関してなんですけど、たとえばさきほどの宮永さんのお話だと西洋と非西洋という類型になっているのですけど、一方でみなさんも気付かれているかもしれませんが、西洋自体も非常に動揺しています。アメリカでも自己心理学という動きがあって、なぜかというと自我があいまいなものというふうに捉えられていて、それまでなら社会的に形成された自我があって、それを対象としていたのに、自我自体が根底から信頼を失ってしまったので、自我のもっと前段階で、形成される自己を対象としています。それは西洋というモデルがあって日本の特殊モデルがあるというよりも、西洋の方でも近代的な自我が怪しくなっていることを示しています。そのためここで想定されたものとは違う心理療法のモデルがあるのではないかと思うのです。 永澤:それは、まずアメリカという次元でみた話なのか、それからおっしゃるところのものが例えば90年代以降の理論・実践状況とどう関わるのか、それから自己心理学といった場合、E.H.エリクソンとかロジャース、あるいはコフートなどの、フロイトではない自我心理学あるいは自己心理学と現在切れているのかどうか。切れていない場合には(と思いますが)、例えば、もう一人のエリクソン(ミルトン・エリクソン)がいると思うのですが、むしろ過去の生育歴にのみこだわるのではなく、これから未来にどう生きていくかを、ビジュアライズさせた上で、そこへ投射させるという方法があります。たとえば2年後のあなたはどうなっているかをビジュアライズさせ、自己を構成していく、脆弱化した自我を構成していく、というやり方があって、そのような方法を念頭に置いてらっしゃるのでしょうか。もしそうだとしたらそれはそれでいいのではないかと私は思います。日本であってもアメリカであっても、そこは確かに弱かったところなので、今後模索していきたいと思っています。 樫村:あまり専門に入って行くのもどうかと思うので、今のお話で永沢さんがどのような背景知識をもってお話しされているかがよくわかりました。 永澤:アメリカにこだわると、ポジティブな今後の生き方の姿勢のほうが大事だという考え方は、もっと通俗的なレベルで「7つの習慣」であるとか「マーフィーの法則」とか、そういったところにつながっているのではないかと思います。 宮永:そうですね。それが全部グローバル化と再帰性とアイデンティティの問題につながってくると思います。 永澤:そこがアメリカイズム的なグローバル化とどうつながっているかも知りたいですね。 宮永:ぜひ来年パネルをひとつお願いしたいと思います。一応三つ予定しております。またはっきりいたしましたらお知らせいたします。今日はこの後懇親会がありまして、お店を八時まで予約しているのですが八時以降は次の予約が入っておりますので、六時になりましたらぴったりやめなければいけません。その前に萩原君の質問を受け付けたいと思います。 萩原:大きく分けて三つになりますが、なるべく手短に質問したいと思います。まず一つは西田哲学についてです。絶対矛盾の自己同一についてなのですが、これが与えられている背景というのがどういうものか考えてみますと、西田幾多郎は東洋的な禅の思想 とかそういったものによって、日本的なものを考えるという、その背景にあるのが、当時の彼は「西欧近代の思想は主客二元論であり、東洋思想こそがそれを克服する」という形で西欧の思想を学んだということです。これはどういうものかというと、当時の彼が学んだ西欧の哲学史というのは、ドイツ観念論の自我中心主義の人たちが作った哲学史でありました。この場合には、自分たちの系譜の中心にデカルトを据えていました。このことから、自我中心的なもの、絶対的な根拠に還元するという思考に対抗するという形で、このような動きが出てくるわけです。この対立図式のまずいところの一つは、西洋中心主義に対して、非西洋中心主義というのを立てる、という図式と同じ形をとっていることです。どういうことかというと、批判している本人が、その批判の対象に絡みとられてしまう、ということです。そのような意味で、西洋的なものに対して非西洋的なもの、あるいは日本的なものという、この「非西洋的」という言い方そのものが西洋中心主義の発想だと思うのですが、このような形で問題を立ててしまうと、かえって批判の対象に巻き込まれてしまって、有効な議論にならないと思います。これが第一点です。 第二点なのですが、井上さんの述べられている、語りの権利の承認の問題です。これについては、確かにこういったものが必要だということは分かるのですが、実際にインドのように身分差別があるような社会でどう機能するかという点について、もう少し掘り下げる必要があるように思います。なぜかというと、ハーバーマス的な倫理学のモデルというのは、そこに参加する人々の民主主義的なプロセスへの参加の可能性やコミュニケーション・ルールというのがある程度成立しているから成り立っているのであって、これを差別等によって民主主義的要素が十分に機能していない非西洋的な文脈にそのまま持ち込むことになると、問題が生じます。何よりも大きな問題を一つ上げるなら、言説の資源ということです。つまり、地域において切実な問題を抱えている人たちがいて、それにもかかわらず、その人たちは十分な教育を受けていない、あるいは日常の家事に煩わされていて、公共的な討議の場に出てこられないということが起きてきます。そのような場合には、教育によって十分な言語ゲームのルールを獲得していないために、本当は当事者が一番切実な問題を抱えているにもかかわらず、公共的な討議の場から排除されてしまいます。つまり、こういった状況の中で語りの権利ということだけを単に述べてしまうと、それがポジティブな意味を持つどころか、場合によってはむしろ、その社会における権力構造のようなものを隠蔽する機能を果たしてしまうのではないか、これが二点目です。 それから第三点目なのですが、宮永先生が述べられているポストモダニズムについてです。これについては樫村さんの『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』から提起された問題と関係します。これらの議論のなかで、ポストモダンというのが、多様性がアメリカと区別されていないように感じました。例えば、このポストモダンというのは色々ありまして、先程申し上げたような、西洋に対する非西洋というような、いわゆる近代の超克という形でのポストモダニズムというものがあります。それから政治学で語られているのは、近代的な状況が変容したポストモダニティ、そういった意味でのポストモダンがあります。それからもう一つはアドルノの「啓蒙の弁証法」といった言葉で語られることですが、近代的な理念が野蛮に反転する状況の中で、それに対する異議申し立て、モダンの自己批判としてのポストモダン論というのもあります。あとは先ほど言いました言語ゲームという観点から言語の問題を論じる立場、これをポストモダニズムという場合があります。これはリオタール的な意味でのポストモダンだと思うのですが、リオタールにしても、いくつか問題があります。例えば物理学の領域で、古典力学から量子論へ展開するだとか、そういったものをポストモダンだと言うのですが、これは実際に方法論そのものが変容しているというよりは、その成果が従来のものから逸脱しているということであって、近代的な思考の内部での状況布置の変化という方が妥当でしょう。それから彼の場合には、近代的な大きな物語の終焉として、ポストモダンの小さな物語を設定するわけですが、実際にはそうした小さな物語への要求が出てくる一方で、発展途上国における近代的な理念の追求が続いています。つまりリオタールの場合には、小さな物語の終焉という大きな物語を描いてしまった、というパラドックスがあるわけです。こういった点を整理した上でもう一度、ここで言われているポストモダン、あるいはポストモダニズムというものがどういうものなのかを定義する必要があると思います。 これとの関連で最後に弁証法についてです。宮永先生が述べられているテーゼとアンチテーゼ、それの関係においておそらく前提とされているのは、ヘーゲルのモデルだと思うのですが、ヘーゲル的な弁証法というのは、これがいくら自己批判の観点を伴っていても、批判の上に批判を積み重ねるという、ある種の直線的なモデルです。その延長上に近代的なものの自己批判を実現するというのですが、近代的なものそのものに対する、枠組みの問い直しということは果たして可能かどうか、という問題があります。実際、西洋の場合には、民主主義の場合も、ハーバーマスが未完のプロジェクトについて語る場合には、こういった近代性の自己批判の原理があるわけですが、それともう一つの別の流れとして、デリダが脱構築にも取り入れたような、ヴァルター・ベンヤミンの弁証法があります。これがどういうものかというと、テーゼとアンチテーゼがあって、そこからジン・テーゼが生まれるのではなくて、ジン・テーゼがどこまでも先に送られてしまうというものです。いわばカフカの文学に見られるような方法なのですが、その可能性を追求する価値はあると思います。つまりモダンかポストモダンか、という二項対立で問題を捉えるのではなくて、近代的な枠組みの内側から不断に相対化の作業を行い、枠組みそのものを変容させ、その外部を模索するという試みです。先程述べたポストモダニズムなど、モダンとポストモダンという図式にとらわれてしまうのですが、そうではなくてこの図式自体 も含めて、モダンというものを捉え直して、その文脈を横断する中で、自分自身の自明性を考えていく必要があります。ベンヤミンの言葉を借りますと、現在の認識が過去の忘却された記憶と衝突することによって得られる、破壊の衝撃とでも言うべき認識、そこにおいて不断に日常の自明な認識を一つ一つずらしていく、その中で現在の枠組みを相対化していく、ということです。その意味ではモダンの文脈を横断する「トランスモダン」という形で、その実践として、近代社会の批判、つまり近代性の自己批判を通じて、近代の可能性を追求するということ。これらの作業が一体となって近代以外の可能性をも模索する、こういった形での弁証法というものが可能ではないかと思います。以上です。 宮永:はい、質問というよりはむしろ今日の総括をして頂いて、来年につながっていくのではないかと思うのですが。あと十分程度しかないのですが、これに対して一言おっしゃりたい方、どうぞお願いします。 外山:一番最初に出された論点についてですが、さまざまなアイデンティティがお互いに対立し合っている現状で、どのような自己が考えられうるのかと言う問題ですが、最初のたまねぎ型自己観が議論された後で論点がずれてしまったと思います。ここで考えてみたいと思うのは、どんな自己のモデルが考えられるのか、ということなのです。 四つの可能性が考えられるのではないかと思います。私のこの考えの発想は次の通りです。とにかく何らかの考えはいろいろあるわけですが、「考え」が存在している以上、やはり考えている主体は存在しています。そこから発想しました。たとえばコップを考えます。まず第一に、私つまり思考主体がコップについて考えるモデルがある。図式で考えると思考主体からコップに認識の矢がのびている。第二に、私がコップについて考える、と同時に、認識の矢がくるっと一回転して自分に返ってくる。その意味で再帰的な自己というものが二つ目に考えられる。三つ目として、コップに向かう矢印が無い、存在しない、ということも考えられる。四つ目に、これは私が、矛盾的自己同一というものがよく分からないので、ぜひ教えて頂きたいのですが、武者小路先生がおっしゃられた矛盾的自己同一というものがある。その四番目というのはもしかしたら一番目、二番目、三番目のどれかと同じかもしれません。たまねぎ的な自己観というのは、私の考えでは、一番、二番、三番のどれかに入ると思われます。その上で、ではどれが、アイデンティティが対立し合う中で、良い自己なのか、あるべき自己なのか。このようなことを考えると良いのではないかと思います。 宮永:それはどういう提案なのか、とり方によっていろいろ可能性が大きいので、難しいです。私の勝手な意見を言わせて頂ければ、今おっしゃっていた事自体が結局、先ほど萩原君の論じた、ポストモダニズムのさまざまな層の中の、さまざまな試みに対応していくのではないかと思います。今日は結論を出すためではなくて、来年に向かって何をしたらいいか、ということを模索して、ある程度の方向性はつかめたように私は思います。今、外山君のおっしゃって下さったこと、それから先ほど萩原君の発表して下さったことも含めて、来年に向かって「弁証法と再帰性」というパネルが一つ考えられます。それから「アイデンティティ」のパネルが一つ、それはラカンを中心にやって頂ければ、大変面白いと思います。それから「ジェンダー」も面白いと思います。ジェンダーだけでは広すぎたら、そこをもう一つ絞っていかれたら、とても面白い、刺激的なものが出てくるのではないかと思います。中でも矛盾的自己同一は大変刺激的だと思いました。最後にもう一つ、これだけは言っておきたいということはありませんか。 井上:語りの権利の問題について質問があったと思います。これを「ハーバーマス的なもの」というふうに捉えられたように思うのですが、これは、むしろそのハーバーマス的なものを批判するつもりで出したのです。つまり、彼の言うようなコミュニケーション的合理性に対抗するつもりで、帰属の資格を問わないことと共に、語りの権利を承認するということを述べたのであって、彼のように、お互いに語り合う中で何らかの合意を形成しようという話ではありません。むしろ、近代的個というものを前提としたコミュニケーションのあり方への批判です。そうではないあり方を認めなければ、近代的個を確立しなければいけないという意識も持っていないし、そういう機会にも恵まれていない人たちは、一生、そういう公の場からは疎外されていくであろうと考えて、そうではないコミュニケーションのあり方を構想してみたいと思ったのです。 萩原:今の点について疑問があるのですが、ハーバーマスの場合は、必ずしも帰属性を求めているわけではない、ということです。近代的な理念として、差別とかそういったものを解体する形で、ある意味では西欧の民主主義的文脈を普遍化しようとしていると思います。けれども、それに対して批判する際の問題の立て方そのものが、西洋に対立する軸として非西洋的な文脈に置かれると、先程述べましたように、その批判そのものが西洋中心的な観点に絡み取られてしまうということです。 それともう一つは再帰的近代化の問題との関連で、近代的な理念による支配からの解放というものを立てる時に、実際にそれに巻き込まれている人たちは、近代的な認識の影響を受けてしまっています。だから近代に対して、非近代だとか、そういった問題の立て方をしてしまうのは、まずいと思います。それは実際に批判している対象に、自分自身を巻き込んでしまうばかりか、批判している本人もその対象との関係性の中に既にあるからです。ですから、批判の対象と自己との関係性をそれぞれ、主義と主義の対立として立ててしまうのではなくて、そういった主義同士の関係性から一歩退く、後退して、いわばメタレベルでの相対主義として、認識のダイナミズムを追求する必要があるように思います。 永澤:ちょっと噛み合ってないですね。彼が言っていることは。 武者小路:よろしいですか?絶対矛盾の自己同一について一言だけ申します。西田の哲学的立場、西洋の超克という考え方に問題があることは認めます。ですが絶対矛盾の自己同一の思想そのものは、それとは別の独自の意味をもっている。このことについて、二つのことを簡単に申します。私が知っているハシントーさんという、メキシコの先住民族の哲学者がこれまで何年もかけて、一生懸命西田をスペイン語に翻訳しています。それは自分たち先住民族の論理と非常に近くて、西田を彼ら先住民族に読ませたら「これだ」という内容だと思っているから、今一生懸命翻訳しています。その意味で西田の考え方には普遍性があるのではないかと思います。 それから、西田哲学に内容的に私が関心を持っているのは、アリストテレスの論理学は排中律というものを基にしている。そして排中律を基にしていないナーガールジュナ、龍樹菩薩の論理というもののほうがずっと広いということです。つまり西洋とか東洋という問題ではなくて、論理的に非常に面白い広い意味を持っていると思います。だからアイデンティティの問題を考える上で、そこに排中律をもちこまない再帰性をもちこむことで、アリストテレスよりナーガールジュナのほうを私が気に入っているという、それだけのことです。 萩原:翻訳の問題なのですが、ありのままに理解できるのなら、それはもはや「異文化」ではないのです。異質な文脈の中に西田哲学が翻訳されていく、それによって、そのプロセスを通じて、翻訳する当人に対しても、ポジティブな意味で異質な文脈の概念が自分の自明性を問い直すものとして機能する。そういう意味で理解できるのであれば、良いことで、それは単に日本的なものをそのまま立てる、それを西洋に対抗させる、という図式と、今おっしゃられたこととは違うと思います 武者小路:全くその通りです。私どもは、ある程度そういう意味で、矛盾した日本と世界とを対立させながら両方認めるのが一番よいと思います。 宮永:そうですね、言葉がちょっとすれ違ったりする時がありますけれども、では最後にこれでとどめをうって下さい(笑)。 樫村:萩原さんの議論はそれぞれの議論の分節を深めてはくださっていますが、ただ一つ気になるのは、精神分析的に言うと、ヒステリー的な議論というか、そうした批判論理で終わっていると思います。危機に対して新しいオルタナティブな社会を構築するような理論的な提案をされているのではない、というふうに思います。たとえばフェミニズムでもアイデンティティ・ポリティクスとポスト構造主義の論争というのがありました。そこではスピヴァクが当事者的な視点に立つために、戦略的本質主義という議論を出しました。コミットメントしたり、実践的な論理ということを考えたときに、萩原さんの議論は、傍観者的な印象を受けるのですが、ご自身のポジションをどのようにお考えでしょうか。 萩原:私の批判の立脚点は、環境倫理学にあります。そこでは、例えば近代化の中で、ミクロネシアの人たち、いわゆる非近代的な生活を送ってきた人たち、そういった人たちが近代化の中でどうなっていくか、あるいは日本の近代化していく状況に出会った彼らがどうなっていくか、という文化の変容の問題に取り組んでいます。あとは東京湾の問題や足尾銅山の問題にも関心があって、私が所属している河川研究NGOに、環境倫理学を中心とする研究会を立ち上げました。具体的な文脈において、普遍主義的ではないローカルな視点で環境倫理を考えてみようということです。けれども、それは単に多元主義的に意思決定がなされればよいというわけではなくて、その中でどうやって批判的な形での決定が可能か、つまり、それぞれの人たちが学びを重ねる中で、動的な形で望ましい意思決定をしていくためには、どうしたらいいかということを考えています。その場合には、特に今までの環境倫理学では、地球を守るべきだとか、そういう大きな問題の立て方では、個別的な観点が入らなくなります。そうではなく、意思決定の参照枠として、環境倫理学を捉える必要があります。例えばそれぞれの環境運動の中で、それぞれの意思決定のあり方や中身は多様であるけれど、それぞれの中で世代間倫理とか、環境持続性とかそういったものを実現することは必要であるから、その合意形成の参照枠というメタレベルの普遍性として環境倫理学を機能させる、ということです。その具体的な実践の場面で再帰的近代化の問題というのは、伝統と近代化の関わりという点で、単に「伝統と近代」という二項対立として問題を捉えないためにも重要です。私自身、環境問題に中学の頃から十年ほど関わっています。現在研究していることを、そうした実践に生かしていくという形で、自分の理論を展開していきたいと思っています。またご意見などございましたら、お願いします。 樫村:来年にダイレクトにつながるので、せっかくご自身の専門がしっかりあるのなら、その立場からのお話をして頂いたほうが生産的ではないでしょうか。 宮永:ご批判頂くのはかまいませんし、同情的なコメントも非常にありがたいです。また来年に向かって勉強していきたいと思います。これから懇親会場のほうに移動して頂きたいと思います。それでは佐藤君、懇親会場のほうに誘導をお願いいたします。どうも今日はありがとうございました。 ワークショップ終了 copyright 2002, Kuniko Miyanaga. all rights reserved |