個の可能性研究会
ワークショップ2004質疑応答
宮永: 今4時5分過ぎですが、5時まで質疑応答と討論をして頂いて、それから2、3分お休みをとって、また続けていきます。それでは、始めます。まず第一にどなたからどなたにでも構いませんので、事実確認あるいは字句についての確認をしたい、自分が本当に分かったかどうか確認をしたいと考える方の質問をとります。分科会に関しては分科会に出て頂いてじっくりお話をして頂きますので、まずは事例発表をなさった方に対して、確認の質問のある方どうぞ。どなたでも結構ですのでお願い致します。はい、どうぞ。
辰田: 辰田と申します。村中さんに質問があるのですが、「会社の中のニート的存在」という大変面白い視点での発表興味深く聞かせて頂きました。私が確認したいのは、ニートと呼ばれる人が個人主義と集団主義のはざまにいるというところなんですけれども、その状況を説明して頂きたいと思います。よろしくお願いします。
宮永: 辰田さん自身はどういうふうに理解しているのですか。「はざま」にいるというのを一言で言ったら。
辰田: 理解しにくかったので、質問させて頂いたのですが。
宮永: では一言で定義するとしたら、このニートという人は何主義者ですか。集団主義でも個人主義でもないのですよね・・・・ニート主義(笑)
村中: いえ、主義未満の人、ということですね。
宮永: 主義未満主義。
村中: 主義ではないですね。どういうことかというと、先ほどの会社の事例で言いますと、4、5年前の新入社員というのは、ウィルがあるというか、勘違いも含めてこういうことをやりたいという人が多かったのですね。今もいるのですが割合はだんだん減ってきているように思います。この会社におけるニート的存在というのは、自分がどうしたいかという自分の気持ちが自分の中に埋め込まれてしまっていて外から見えないのですね。今までだったら、本当はこういうことをやりたいというのが表現が稚拙あるいは会社流の表現ができないので表現できなかった。あるいは仕事ができない技術がないということで表せなかったのを先輩が手ほどきしていく内に、その人の内なるウィルや適性を見い出していったわけです。ニート的存在の人は、自分が埋め込まれているので、トラブルか何かがあって、比喩でいうと心がぼきっと折れたときにその断面に、この人の個性が露呈されるということ以外には、外から見ても分からない。集団主義者は自分のアイデンティティが集団のアイデンティティに一致した状態でないと、どうも落ち着かない、精神的な安定が得られないという人たちだし、個人主義者というのは、集団のアイデンティティと自己のアイデンティティが別に一致するしないというのには関係なく自分の精神的安定を得られるという人たちです。私は、そこまで踏み出していない存在として、ニート及び会社におけるニート的存在を把握しています。
辰田: 大変分かりやすく、有難うございます。
宮永: 分かりやすいですか。私は全然わからないです。(笑)
辰田: 主義未満というところで理解しました。
宮永: ではまた後で展開したいと思います。はい、どうぞ。
高崎: 島添さんのご発表に、「シマの成員は、自分のシマのデータベースを共有することでシマの人間としてのアイデンティティを得る」というご説明がありましたが、そのような成員は、シマの人口のどの位の割合を占めているのでしょうか。学校の教材などに取り入れられたりして、子供から大人まで、皆がデータベースを共有しているのか、それとも共有しているのはもう少し上の世代なのか、教えていただけますか。
島添: はい、この場合には学校を卒業した成人です。なので子供は含まれません。伝統的には学校を卒業した、と言った場合には尋常小学校を卒業したということで、大体、十代半ばぐらいになります。
宮永: 今の質問は範囲ですか。それとも15歳か18歳か、それ以上の人は全員が成員というかこのシマウタを知っているわけですか。全員ですか、100%?
島添: はっきりとお答えできませんが、半数以上は当てはまるというふうに考えております。
高崎: シマの成員は学校を卒業した成人というわけですね。学校を卒業するとは、伝統的には尋常小学校を卒業することだというご説明でしたが、島添さんのお話になっている方々は、皆さん(新制小学校ではなく)「尋常小学校」を卒業するような世代だったということでしょうか。実は初めの質問は、現在シマに住んでいる若い世代の人々まで含んだお話かと思ってご発表をうかがっていたために浮かんだ単純な質問でした。
島添: シマの中では、現在の学校を卒業した世代の人間は、ほとんど歌を歌わない世代なので、この場合にはほとんど当てはまらないのですが強いて言えば社会に出て働き始めてから、というふうに考えていいと思います。しかし、シマの外、つまり都市化した所では、小学生や幼稚園児よりシマウタを習いにいくことはざらにあります。
宮永: 今の答えでよろしいですか。
高崎: 島添さんのおっしゃる「シマの成員」の年代の範囲は、おおまかにいって、現在社会人として働いているか、それ以上の世代なのだと考えてよろしいのですよね。
島添: はい。
宮永: それが大体半分くらいですか。
島添: 世代によって割合が違いますが、半分くらいだと私は認識しております。
宮永: この辺りは、大きな問題というか、テーマがあるようです。隠れていますね。面白い質問でした。
永澤: はい、事実確認とか言葉の定義をめぐる質問に限定していると思うので、二人いるのですけど、まず村中さんですが、確認なのですがニートの定義そのものは玄田先生のものをそのまま使っていると。それでいいですよね。
村中: そうですね。カタカナでニートと玄田先生が書いているものです。
永澤: 分かりました。私は不勉強で読んでなかったのですが、この場合の病気というのはどういうものなのか。要するにひきこもりというのはなんら病気には関係ないというか、ひきこもりとの区別で病気ということをさっきおっしゃったのですが、社会的ひきこもりというのは、当然精神病とか精神疾患に起因するものではない、状態を名付けているだけなので、それだけとってみるとこの定義は、年齢制限を外せば全く差異は見い出せないのです。二番目の質問なのですが病気について特にコメントがあるかということです。この玄田先生の著書の中に。
宮永: あ、お願いします。
永澤: いや、読んでいませんのですみません。今すぐ出ないのでしたら、後からで結構です。その上でお聞きしたいのが、この定義をそのまま採用していらっしゃるんでしたら、ニート的存在という村中さんの定義が、宮永先生もそうだと思うのですが、どうしても分からないのです。その違いが分からないのです。もしここでそう簡単に定義が出ないのでしたら、討議の方に時間もありませんので移ってもよいのですけど、何かコメントがあったらというのが一つです。
宮永: 村中さん、お願いします。
村中: はい。今書いている論文のメインテーマに関係するところで今日はあえて割愛したところを鋭く突かれてしまいました。まずイギリスのNEETの定義と玄田先生のカタカナのニートの定義が異なっています。イギリスの方はより定量的でして、生活保護、不登校、病気、失業などを含め、教育も就業も訓練も受けていない状況にある16歳から18歳の人々のことを指しています。これは、毎年出ていますbridging the gapという日本でいうと労働省のようなところでしょうか、そこから出ているレポートで定義されています。これはイギリス政府のウェブサイトからpdfファイルで無料でダウンロードできます。玄田先生のカタカナのニートというのは、えー・・・これ質問されたら答えなくちゃいけないのですか。次の論文のネタが出てしまうのですが。
宮永: 別に構わないですよ。今の質問は字句の確認ですよね、あるいは概念の、定義の問題ですよね。
永澤: 定義の問題ですね。「ニート的存在」という。
宮永: 定義だけ、お願い致します。
村中: ではニート的存在について。最初に頂いた質問と絡んでくると思うのですが、個人主義者と個人主義的だと周りから見られる行動、それから集団主義者と集団主義的だと周りから見える行動をマトリックスにして、いろいろな組織と個人との関係性について4つのパターンにしてみることによって、個人主義者と集団主義者を二元論から解き放してみようという試みを去年の私の論文で出しました。例えば集団の中にいながら集団のアイデンティティに自分を合わせる必要はないと感じている人がいることがこのマトリクスによってよく見える。では何故このような個人主義者が集団の中にいるかというとそれは得だからです。この会社に属していれば福利厚生が充実しているだとか、経済合理的に考えて集団の中にいる自分を選択するという個人主義者もいっぱいいますし、その逆もいるでしょう。従来、集団主義者は集団主義的行動を取るから集団主義者なんだとあたりませのように考えられてきたので、そうではないと言いたかったのです。今までは集団主義的な行動というものと、集団主義者であるというアイデンティティの問題とが切り離されずにごっちゃになって議論されておりました。さらにまた倫理的にどちらがよいのか、個人の自立か和が大切かというような評者の好みもごっちゃになって集団主義、個人主義が論じられていたので、それを分けて考えてみたのです。ただ自分の中で本意ではなかったのは、分けたことによってちょっと静学的な印象が出てしまいまして、いくつかのパターンの人がいるというようにとられてしまう誤解があった。別に集団主義的な行動をとる、個人主義的な行動とる、というのは行動のその時々の表出にすぎないので、同一個人のパターン間の移動はアイデンティティは固定ですが行動は流動的です。
話を戻しますと、そういったマトリックスにニートを当てはめるとどうなるかを考えてみると、外からはどうも個人主義的な行動に見える、だけれども本人は個人主義者なのか集団主義者なのかアイデンティティが定まらない、アイデンティティの象限には分けられない軸上にある存在だと思うわけです。つまり、ニートは個人主義と集団主義の二項対立では捉えられない存在だというのが自分の整理です。こう考えてみると、別にニートは集団に属していなくてもいいんじゃないか。集団にもニートはいるんじゃないか。就職したかしないかはニートの本質ではないのではないか。そう思えてきました。そのような目で会社を見たときに、会社の中で集団主義的な行動を選択しているけれども、どうもしっくり来ていないような人や、しっくりきているかしっくりしていないかさえ分からない人たちが確かにいる。そういう人たちは、丁度、就職という事象を境にしてニートと鏡合わせのような存在として浮かび上がってきた。そういう人たちを会社の中にいるニート的存在として定義しています。
病気については、玄田先生の著書では、明確な定義はないですね。労働省の白書などの定義とかを、今手元にないのですが見てみるともう少しはっきりとした解答ができるのではないかと思います。
永澤: はい、ある程度分かりました。フリーターとかそういったものも含めてかなり広範な対象を連続的にマッピングすると、コンセプトとしては、ニートとニート的存在をあまり区別せずに、今言ったニート的存在というもので捉えていくというのは非常に有効で分かったと思います。あと個別の事例はケースバイケースで会社に就職することすらできずにいるという狭義のニートみたいなものとかひきこもりとかいろいろあると思います。時間がないのでここで終わります。
あと萩原さんに一つだけなのですけど、〈security〉と〈safety〉というのは定義がなかったと思うのですが、区別してどういうふうに定義されるのかということをお願いします。
宮永: はい、ではお願いします。
萩原: 今日は残念ながら武者小路先生がいらっしゃらないのですが、武者小路先生が〈human security〉という表現を用いられる場合には、今までの国際関係論における軍事的、あるいは政治的な安全保障だけではなく、当該地域の共同体の人々が極度の不安に陥ることなく安心して生活できるような、当事者が直面する諸問題に対しても積極的に取り組めるような状況を作ること、そういうようなあり方も含めて定義されています。もともとこの〈security〉という言葉は語源に遡っても、今申し上げたような意味があるわけでして、従ってここで〈safety〉としているのは、主に制度的、技術的な意味での安全性、それから〈security〉というのは、主に精神的な側面に焦点を当てた安全です。
宮永: 他にありますか。
太田: こんにちは、太田と申します。私も村中さんと同じでIT業界で技術営業をしています。質問です。二つ確認させて下さい。まずは森さんです。発表頂いたレジュメの下から二段落めのところの最後の文章に「ネットワーキングとは、単に人と人が・・・自律した者同士が・・」とあるのですが、この「自律」のところを聞かせて下さい。これはこの中に定義が書いてあるのですよね。それが三段目の「出社連合は・・・」で始まっている段落の中で「彼らは」、これ出社だと思うのですが、出社は「教祖からの相対的自律性を保持して」と書いてあるのですが、これがそれだと思ってよろしいですか。
森: そうですね。定義というか、相対的自律性がそのまま定義ではないのですが、つまり、ここで自律している、と言ったときには、きちんと批判力を持っている、ということを言いたいと考えています。
太田: 下の方で言っている「自律した者」というのは、批判力を持っていると言っていて、その事例として出社連合の話があると思って言ったのです。
森: 例えば、先ほども少し触れましたが、ある時、「あなたは自分の教えに背いているじゃないか」と教祖を諌める出社がいるのですが、そうしたエピソードから、教祖そのものとの人間関係を大事にするだけじゃなくて、教祖の「教え」に照らして教祖自身をも批判する、さらに自分を批判する能力もある。この場合は教祖を批判しているわけですけども、もちろん自分に対してもその教えに照らして批判していく、そういうかたちで自律性を確保していた、ということを言いたいということです。
太田: この批判力と言っている自律性の条件の一つとして神号、神の号を与えられているというのを一つとして考えていいのですよね。
森: はい、そうです。そのことを保証していたということです。
太田: はい、分かりました。有難うございます。もう一つは、萩原さんにお伺いしたいのですが、一番最後のところで「パラダイム転換を」と書いていらっしゃるところで、「現状の科学技術社会論は」と始まって、「自己批判的な認識力の獲得という課題と結びついていない」とだから「当事者による的確な認識と行動がこれまで以上に不可欠である」と書いてあるのですが、ここで言っている「当事者」というのは、研究者も含むし、not 研究者、他の社会の構成員全体だと思うのですが、そう考えていいですか。
萩原: それはおっしゃる通りですが、特にここでは具体的な場面、地域などで問題に直面している人たちに焦点を当てています。それに続いて最後のところに書きましたように、意思決定の場面に研究者が参与する場合に、研究者自身も自己批判的な認識に基づく対応が求められます。この両方を含むかたちで定義していると考えて下さって結構です。
太田: 有難うございます。全員が自己批判力を持たないといけないよねというふうにおっしゃっているということですね。以上です。
宮永: それでは内容に踏み込んだ討議に移っていきたいと思うのです。内容までお聞きになって下さい。それから例えばAさんがこういうことを言っていた、Bさんがこういうことを言っていたけど、両方合わせるとこうじゃないか、Cさんどう思いますかというような質問でも結構です。どうぞ、お願いします。
伏木: 伏木です。最初にまず小井さんの「スピッツの透明感」から、言語的に定義できていない問題がたくさんあるんじゃないかと思うので、それについてまず質問をしたいと思います。まず、前半の部分、ロック音楽についての定義の部分はおそらく前回の分科会のときにかなり攻撃しましたので、それに対するお答えなのだろうと思いました。その部分は買いたいと思いますけれども、それ以降なのですが、突然水の要素と火の要素ということで、これの定義をすることなく通り過ぎてしまいました。おそらくこの発表全体を通すと、水の要素はスピッツ、火の要素はサザンということで理解したのですが、それでまずよろしかったでしょうか。
小井: ロック音楽に関してはちゃんと定義してきました。水のエロスの定義は先ほど言ったように、「生への執着を欠いた、生へのエロス」と捉えて、スピッツの作品から聴き取る意味をそういうかたちでつかんだつもりです。
伏木: その表現に関わってなのですが、その次に、ではそのエロスというものをどのように定義してここで用いたのか、ということが、突然出てきた表現であって理解しにくいというところがあります。エロスは何であるかという確実な定義をまずしてほしい。それからそこにあらわれてくるであろう「透明で」という形容詞がありますけれども、状態をあらわす形容詞がありますけれども、その「透明」という言葉はいかにして用いられたのか。それも曖昧です。さらにその後に関わってくると思うのですが、スピッツの作品について、自分自身をと出会う歓びに包まれている、と書いた前後のお話なのですが、まずその前段階として、欲望が解放された世界において、自分自身を確定することは非常に困難、という部分は確かに分かります。でもそれが、それに対する答えを求めるものがスピッツであって、それが求めているのが自分自身、つまり個だというところの理論は分かりますが、それがなぜ現代における聖なるもの、sacredなものなのかというのが分かりません。この部分についてはどうお考えなりますか。
小井: 今いくつ質問されました?
伏木: まずエロスの定義が一つ。「透明」ということの定義が一つ。それから最後に「聖なるもの 、sacredなもの」の定義が一つで三つです。
小井: エロスというのは、生への欲望全般という意味で使っています。「透明」というのは、さまざまな人がスピッツについて論じているものと、僕自身の印象、直観を言語化して表現したのが「透明感」です。自分自身の感覚からこの論考がスタートしていて、論の構えがそこで決まってくる。だから「透明感」という言葉は、自分の問題意識から発している言葉だろうと僕は考えています。最後の「聖」ですが、自分自身がどうして聖になるのかという・・・。
伏木: いえ、自分自身が聖になるということ自体は意味づけ的には分かりますが、私が質問しているのはそうではなくて、聖なるものと言わなくてもこれは本来欲望の対象であって、自分自身を求める、欲するという動きの中で出てきたはずなのに自分が欲したものがなぜ聖化されなくてはいけないのかという部分を問うています。
小井: そうですね、うーん・・・ここで自分自身に出会うということが一体どういうことを意味しているかというと、他者に出会うことで初めて自分が他者という超越的なものによって根拠づけられるというか、その根拠づけられた自分と出会うという歓びが、スピッツの作品にはある、というふうに思っています。解放の時代以降の私たちは、人格を構築することが非常に困難だという認識があり、そこで自分自身と出会うということは、非常に重要な意味を持つ体験ではないかと思い、そのような書き方をしました。お分かり頂けたでしょうか。
伏木: 重要なことだということは分かったのですが、ではそれがなぜsacredなものなのか、ということについては次回までに考えておいて頂ければと思います。明確なお答えではなかったのではないかと思います。それに関しまして日本語の表現力ということを、一番小井さんの発表で感じたのですが、佐藤さんにコメントがあるのですけど起承転結というのはもともと漢詩の試作文法だったわけですよね。そこから日本人が日本語の作文文法というものを学んでそれを転用してきたと思うのですが、これは基本的に佐藤さんもおっしゃったように本来のナラティブを記述する技術であって、論文的な思考、もしくは論理的な思考というものに関しては用いられるべきではないという人もいるくらいのものだと思うのですね。従って自分を表現するとか、もしくは自分が問題設定をし、それに答えを出すという現実世界で求められているものを記述する際には、この論文記述方法ではいけないと普通に思うわけです。それは、ナラティブとは全く別の文脈の技術の差であると認識するので、その辺りを混ぜないほうがいいんじゃないかという点が一つです。
それからそれに関連しましてそれでは小学校から中学校、高校にかけて国語では実際に何を指導してきたのかと考えると、それは先生たちの個人的な能力によるわけではなくて、学習指導要領という文部省が定めた法令がありまして、その中で国語教育として何をすべきかということが行われてきたはずです。そういう視点が変わらない限り、この論文構造、もしくはこのように物語を展開して考えるという考え方を強制することはできないと思うのです。ですからそういう意味でいうと今現在算数で論理問題が解けない、証明問題が解けないという子が増えているという問題点にも結びついてくると思いますが、国語教育全体、国語という言い方自体も問題で本当は日本語教育と言ったほうがいいという意見もありますけれど、その教育という全体の枠組みの中で、論理的思考を形成するという教育課程をどこかに入れるという議論にまで広めないとこのお話は全部できないじゃないかなというふうに思いました。いかがでしょうか。
宮永: 前半では批判して、後半では賛成して下さっていたような印象があるのですが。いかがでしょうか。
佐藤: いえ、賛成ではないのですが。
伏木: そうですね、全面的に賛成ではなかったと思います。
宮永: 前半は非常に批判的でしたよね。
伏木: 前半も批判的でしたが、後半はもっと大きなかたちで政治的な意図を汲めということの批判だったと捉えて欲しい発言です。
宮永: 分かりました。では前半はいかがですか。つまりこれがたった一つのスキルか、表現法かということですよね。
佐藤: そのご指摘に関しては、これも一つの表現法だというふうに言えると思うのです。ただしこの作文、文章を書くという名の元に我々が長時間をかけて教育されてきた、という点に関しては、非常にベーシックなものだというふうな指摘はできるだろうというふうな意味でここで取り上げました。そういうことです。
宮永: 後半に対しては。
佐藤: 後半はより広い文脈で捉え直す必要があるという指摘ですね。それに関しては僕が最後に述べたように、そういった射程をもった非常に大きな問題となってくるという指摘を含んだ報告と考えていただいて構いません。ただし、今回の具体的な事例はたった一つ、専門学校の論文執筆要項のみです。具体的に国が指導する学習指導要領の内容がどうであるか、それが歴史的変遷の中でどのように意味づけされ、現在どうなっているかということに関しては、個人的には調べているのですが、今日は盛り込めませんでした。
宮永: 確認なんですけど、ではこの看護学校ではレポートを書くときには、基本的にはこの一つの形式しかないわけですか。
佐藤: と、いうふうには書いていませんが。
宮永: このレポート執筆要項の中であげられているのは、基本的にこの一つの形式しかないわけですね。三つあってどれでも書いていいですよとか、それぞれに長所、短所がありますよとか、言えることもあるし、言えないこともありますという、そういう説明は一切なくて、たった一つの形式だけが説明されているわけですね。
佐藤: はい、そうです。
宮永: 分かりました。有難うございます。
村中: 私は理解が悪くて、最初の佐藤さんのプレゼンテーションと伏木さんの質問と同じことを言っているように思えたのですが、そこをもう一度伏木さんの方に教えてほしいのですけれども。佐藤さんのプレゼンでは、日本の教育では起承転結をメインの手法として書き方を教えているために、これを習った人が実社会に出て問題を解こうとしても問題が解けません、というようなことを発表されたかと思うのですが、伏木さんの質問の前半部分では、起承転結というのは漢詩からとった一つの技術であって、日本の教育では他の技術を教えていないから論理的な思考ができなくても、それは一つの技術しか教わっていないために当然であると言っています。これらの違いが分からないのですが。
伏木: この二つの差はもちろん同じことです。同じことを言っていますけれども、そこで私が言いたかったことは、小中高のコースでその論理的思考というものを形成されるべき、問答というかたちの答えの方式を習わなかったということではなくて、それを教育の枠組の中に持ちこまなかったことに問題があるという視点が欠けているということを前半は言いたかったわけなのです。ですから先ほど宮永先生が前半の事実に関して、事実確認をなさったときに論点がずれたなと私は思ったのですけれども、そういうふうに理解して頂いた上で後半のお話として、学習指導要領の歴史的変遷とかそれの文部省の中における審議委員会というものがあるはずなのですが、その中でどのようにこの問題が扱われてきたのかを捉えないと本質的な問題は解決できないのではないか、というふうに私は申し上げました。ですから本来は前半と後半に分かれている問題ではなくて、同じ一続きの問題です。お分かり頂けたでしょうか。
村中: 要するに、戦後教育を政治も含めたスケールで議論をした方がよいのではないかという問題意識ですね。
伏木: そういうことになると思います。
宮永: 今の質問に関して他にありますか。お願いします。
大越: 私、設計者と同時に実は建築構造技術者協会の会長をやっておりましていわゆる建築学会とその実務者、要するに教育の場で協会と学会が対峙している問題が、実は10年以上あります。佐藤さんと村中さんのおっしゃっていることが、15年くらい前から我々実務者側からいくと今の教育はなっていないと学会に随分非難しています。二人の意見はそういう意味ですと、ニートだって我々は十数年前に警告しているのですよね。我々企業側、エンジニアの実務者は当然そんな甘っちょろい教育を受けた大学、まあ大学院生しか採りませんけれども、大学院生とはいえ文章は書けないは、実務とは離れて全くいい加減な教育を受けてきてこんなのは入ったって意味ないよと言って学会と猛烈に闘っているわけです。そういった中でAPECやジャビー、要するにアプデートした大学の問題にやっと今踏み込んだんですね。そういう時代にはなってきたけど、我々実務者から言えばまさに15年前から十分議論していることで、そこでニートの予測もすでにしていたわけです。ご参考までに。
宮永: 一ついいですか、質問させて頂いて。15年も前からしていらっしゃったということで、提案その他もなさったと思うんですけれども、その中の代表的なご提案を一つか二つ、簡単におっしゃって頂ければ非常に有難いです。
大越: 一つは、ここ30年、20年になるか、大学の生活がある意味では僕の出た40年くらい前と比べて様変わりしている、つまり教育をしていない、それでちゃんと教育をしろというのが第一点。要するにそれは倫理教育に始まってそうなのです。まず倫理教育ができていない、先ほど言った文章の教育もしていない。そういう意味でまずちゃんと教育しなさいと。それともう一つは、実務界と教育界で今ものすごい格差が出ています。多分大学院でやっていることと、実務の場では違うことをやっている。それは非常にショックだと思うんです。それを解消するためには何をすればいいかというと、大学の先生やめなさいと。もっと実務者をどんどん入れなさいと。プロパーの大学をやめて、少なくとも実務10年やった人でないと教授になってはいけない、というシステムをずっと提案しています。
宮永: いかがでしょうか。小澤先生。(笑)振ってしまって申し訳ないのですけれど。
小澤: 私は歴史の学会に出ているときには歴史家じゃないような顔をしていて、こういうところへ来ると改めて自分が歴史家だったんだなぁと(笑)感ずるのですけど。
今のお話を聞いていて、関係するかどうか分かりませんが、現代社会で起こっていることを考えていくと、私たちが歴史の中で経験してきたことを振り返ってみるということがとても重要なことだと思います。そういう意味で、日本の近代の作文教育の歴史というものがあって、それは必ずしも文部省がずっと管轄してきたことだけではない、いろいろな試みがあったというか、それはもうすでに御存じのことかと思いますけれども、例えば大正自由主義教育なんていうのは、今の大学の教師など恥ずかしくなるようなものすごいことをやっていたと思います。特に作文教育ということでいえば、年配の方は御存じだと思いますが、無着成恭という人がいて、やまびこ学校なんていう。あの教育方法は、作文教育でありながら、もっと内容に深く関わってくるものです。つまりそれまでの作文教育というものが、課題提示型のものであって、それを全く自由作文で自分が一番書きたいことを書くということが一つです。それとここは大正自由主義教育の駄目なところでもあるわけですけど、都会の中産階級の子弟が夢のようなお話を書くというようなものもあるわけですが、そうではなくてこれは東北の方で実験的に行われていくわけですが、自分たちの生活環境というものが、『赤い鳥』とかなんだとかに書かれている夢物語とはあまりにもかけ離れているという、そういう環境を直視するところから、しかもそれを言葉として表現していくことで客観化していくというか対象化していく。そういうことと同時にその中で作文教育というものを、鋳型にはめたかたちではなく、養っていくというそういう試みがなされてきたということは、私たちは振り返ってみても良いことなのではないかと思いました。
宮永: それがどうして忘れられてしまったのでしょうか。
小澤: 今はあまり聞きませんね。
宮永: 伏木さん、どうお考えですか。どうして忘れられてしまったのでしょうか。つまり文部省は、どうして伏木さんのおっしゃるような全く当たり前で建設的なことをやろうとしていないのでしょうか。それともやっているのに現場が悪いのですか。さっき大越さんがおっしゃっていましたけれども。(笑)いかがでしょう。
伏木: 私は文部省の審議官とも何の関係ありませんので、(笑)私自身はその部分については何ともお答えし難いですけれども、現場の先生たちの質の低下、もしくは現場の先生を支えている人々の考え方の変化というところも大きくあるのが事実ではないかと思います。現場の先生方が先ほどの規範的な社会をやめる方がパラダイム転換にいいというお話が村中さんから出てきたと思うのですが、現在ほとんどが、私は国語科を知っているわけではないのですが、ほとんどの先生方というのが、マニュアル化が進んでいて、マニュアルにのっとった授業を組み立てるべく、教材を、そのマニュアルに従った教材を探しマニュアル通りに教えることを目標として、現場に立っています。ということはそのマニュアルがなかったら何もできないわけで、そのマニュアルを作る人というのと、そのマニュアルを教える人たちに責任があるんだろうなと若干感じるのですけど。お答えになったでしょうか。それ以上のことはやはり、私は一介の在野の人間ですので分かりません。
宮永: それはもちろん結構です。皆ここでは一介ですので。佐藤さんどうですか。
佐藤: 先ほど小澤先生がおっしゃったことに関連してひとこと。生活綴り方運動について少し歴史的に調べてみると、道徳教育の中で自分たちの生活を見つめ直すかたちで、現実を綴るということと道徳教育とがかなり重なった時期があったのです。それが分離した時点が一つあり、そこから文章を書くことで現実の世界を、課題を見つけてそれをもう一回見つめ直していくという作業の試みが少しずつ薄れていったということは、指摘できると思います。具体的に何年かということははっきり言えませんが、道徳教育とか文章・作文教育の歴史を調べてみると、そういったことを指摘している人もいます。
宮永: 萩原君に伺いたいのですけれども、倫理と科学を一緒に論じていらっしゃいますよね。その場合に起承転結では言えないわけですか。言えないことがあって、それを起承転結でそれを言うことができたらそれでいいわけですよね。言えないことを起承転結で言わされれば困りますよね。言えないことがあるとしたら、どういうふうに言えばよろしいのでしょうか。
萩原: 先生がこの場合おっしゃっている倫理と科学の定義というものが、よく分からないのですが。
宮永: それはもう、萩原さんが考えていらっしゃる仕方で構いません。
萩原: この今おっしゃった問題が、倫理と科学の対応とどういうふうに説明をつけたらいいのかということについて、よく見えていない部分があります。
宮永: 振っちゃったのは、ちょっとずるかったかもしれません。現場の人が必ずしも、大学の問題点を、現場にいるということだけで乗り越えられるかといったら、それは違うと思うのです。やっぱりそれはパラダイムと転換の問題にいくと思うのです。究極的に。それを私たちが、どのように知的に咀嚼し、飲み込み、肉と化すかという問題だと思うのです。
人類学的で私は歴史主義的な、(これを申し上げると小澤先生は驚かれるかもしれませんけれども、)歴史主義的な、流れに属しているわけです。そこでのテーマの一つは、歴史にとって時間は本質的かどうか、ということなのです。起承転結というのは、パラダイムになっているようなことでも、時間の展開を追って論理性を組み立てているわけです。これは糸屋の娘ですけれども、1、2、3、4でこれみんなばらばらで構わないわけです。パラダイム的に組み立てることもできるのですけれども、起承転結で順番に紙芝居のように論理が展開する、ということになっているわけです。さっき佐藤さんがおっしゃったのは、紙芝居で看護されちゃ困るということですよね。そうすると、飛躍を恐れず、あえて言ってしまえば、結局それでつかめないのは、事実性じゃないかなというふうに思うのですね。事実を掴む文章なり、ものの考え方というのが科学的の中心にあると思うのです。起承転結だと掴めないと思うのです。どこまで行っても天動説じゃないかなというのが、私の不安なんです。でもむしろ、起承転結の方が、先端的だと考える方もいるのですけど、それはそれで面白いと思います。ちょっと何を言っているか分からなくなったかもしれませんけれども。
今は大学も、現場も同じ問題を抱えて両方とも悩んでいると思います。事実性そのものがヴァーチャルになっちゃっている、それでいいのかなという気がしますよね。しますよね、ではなくて、します。愚痴ではありません。(笑)主張です。ですから、それを乗り越えるにはどうしたら良いかということで、どうしてもヴァーチャルな現場を超えないと、事実性は掴めないので、ビューティフル・マインドになりそうなリスクを侵してでも、個に解体しようというのが、西洋ではポストモダンだったと思います。こういう言い方をすると全面否定みたいになってしまって、そういうふうにとられるとまずいのですけれども、村中さんがおっしゃっていた集団主義、個人主義という二元論では捉えられないとおっしゃりながら、ご自分では二元論のような、私はこれは二元論だと思うのですが、二元論を持ち出してくる、というのが私にはピンときません。そういうようなところを、そうではない、もっとこのニートという本当に新しい人を掴まえることができるような、萩原君の言い方だったら参照枠を創り出すのであれば、もっと知的なリスクを負わなければいけないのではないか。偉そうなことを言って申し訳ありません。(笑)そういうふうにいつも感じております。その、リスクを負うというのが、難しいですね。今の状況では。
萩原: 一言だけコメントさせて頂きます。今おっしゃった問題について、最初のワークショップのときに多少発言させて頂いたヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学との関連で捉えられると思います。起承転結において見られるような論理というのは、歴史の連続性、つまり連続した認識のあり方です。それに対してベンヤミンが言っている「静止状態における弁証法」というのは、自己批判的な認識において、現在と過去が共時化されることです。これは、精神分析ではシニフィアンの共時性にあたります。従来の認識の枠組みには同一化することができないような認識の対象と、今の自分自身の認識とが衝突することによって、自身の知の座標軸、パースペクティブそのものが変容してしまうことです。これが現実的他者との出会いであり、自己批判的な再帰性ということではないかと思います。
宮永: 有難うございます。それでは南部君お願いします。
南部: 先ほど、宮永先生のおっしゃったニートに関してもう少し考えたいと思うのですが、永澤さんの発表で『ヒミズ』という漫画に出てくる少年を事例に使われていましたが、それは私の解釈では価値体系のなくなったフラットなネットワークの中で出来上がってきた個人の事例、という解釈をしました。それで、そのあとニートの発表を聞きまして、まっ先につながったのがこの『ヒミズ』の少年だったんですね。ということで、もしかするとこのニートという存在を永澤さんのポストモダン的な理論で補強できるのかなと、そのへんの意見を聞きたいです。
宮永: 三分お休みしてから続けましょう。それで、その後でニートの若者は透明かどうかを小井君に聞きたいと思います。準備して下さい。では3分間お休みします。
===== 休憩 =====
宮永: 再開いたします。よろしくお願いします。
永澤: 先ほどの佐藤さんのお話との絡みで、言おうと思ったことがあるのですが、書くことの大枠、フレームが決められているということが、この国に限ったことか分かりませんけれども、この国にはよくあるということだったと思うのですが、私が注目しているのは、樫村さんとのコラボレーションで、「笑い」ということについて扱おうと思っているのです。どういう場面で笑うのかという枠は決められているという傾向がかなりあって、ふりかえれば俳諧とか、いろんな可能性があったかもしれないのですが、現在何か枠を決められているということがあります。お笑いに関して私が注目したのは、テレビの画面に出てくるテロップですよね。テロップというものによって先取り的にどこで笑うか、ということが制御されているということがまずあると思うのですね。あと、背景で聞こえるスタジオでの笑い声です。あまり面白くなくてもそこで笑い声が聞こえてくる、ということでつい笑ってしまう。ですから、それは私たちの感情とかが制御されているという問題よりも、起承転結の問題だと思うのです。どういうフレームで、どういう言葉に反応するのかという言語的レベルで、コントロールされているのではないか。それを私は、テロップという言葉で呼んでいるというのが、さっきのお話の問題です。
それからもう一つは『ヒミズ』というのは、ここにちょっと例がありますけれど、まさに「ニート」なのです。簡単に言うと。中学も中退してしまうんですよね。彼は、父親がとんでもない、あえてレッテルを貼れば「反社会性人格障害」みたいな人で、母親に愛想をつかされちゃって家を出てしまっている。母親は浮気をしているけど、みんな出てしまっている。つまり彼は、父と母に去られてしまって、ぼろやに一人でいるわけです。一応ボート場の経営というのがあるので、自分はここでしっかりやっていくんだとか、俺は別に高校なんか行かなくてもいいんだとか言って、つまり自分でボートをやって一生生きていくんだということなのですが、それも続かないわけです。結局ここに書いてあるのは、分科会の話になりますけど、「お前らから見たらクソみたいな人生だろ?」という自嘲の意識もあると。やっぱりそこに階層化のまなざしが、そしてそれによる痛みがあるのではないか。要は何もしていないし、何もできない。まさに純然たるニートで、ただひきこもりと違うのは、一応友達とかもいるので、ひきこもりには分類されないで、ではどう名付けようかと言ったら、まさに村中さんが言っているニートとしか言いようがない。さらにそれが煮詰まってしまって、彼は、まさにこれは今でいう統合失調症なのですね。つまり幻覚、しばしば幻視があるし、しつこい幻聴もある。それで最終的には自殺してしまうわけで、悲惨なことになってしまうわけです。結局彼みたいな人間は別に珍しくなくて、要は我々自身も含めてざらにいるという問題が、先ほどから話題になっているということだと思うのです。つまり街中歩けばいくらでもいるということです。
先ほど、なぜニートとニート的存在の違いにこだわったのかというと、大枠としてニート的存在として捉える方が有効だから、私も一応その立場を共有しているわけです。そうしないと、ひきこもりとフリーターとかとパラサイトとかと共通に見えている問題が見えてこないから、ということがあるのです。ただ、会社に入ることができている人間はかなりエリートではないか、という気も一方でするわけです。ヒミズの主人公みたいな人が結構いっぱいいて、我々の社会を揺るがし始めているという「問題」があって、これが文部科学省とか政府とかからいうと「我々の社会は危機なんだ、何とかしなくちゃいけないんだ」という脅し文句につながっちゃうかもしれないから、あまり言いたくないのですが、要は当たり前の、別に不思議でも何でもない事象として、そういうものを見ていかなくちゃいけないというのが基本的な私のスタンスなのです。そこにおいて、今までタブー視されていたようなことも取り扱わなくちゃならない、タブー視されているというのは、ここがまさに『ヒミズ』という作品のすごいところだと思うのですが、セリフとして「世の中には頭の悪い奴がたくさんいるんだ、そういう連中はいくら考えたってどうにもならない、じゃあどうする?」、教育とかも不可能だと。「全ての答えを行動でだしていくしかないだろう?」とか「バカがバカを殺す、それでいいじゃないか」とかこういうレベルで過激に見えるのですが、実はステレオタイプだと批判的なことを言うような人もいますけど、これをステレオタイプで片付けては今までのレベルから一歩も進まないというふうに私は思っていて、まさにこういう事態を現実のケースとして見つめていき、考えていかざるを得ない状況になっていると。本人たちは、どうすることもできないと思っているし、自分の父親はどうせあんなろくでなしで、「死んだら笑える人」No.1の男でクズなんだから自分もどうせひどいとか、こういうふうに思って絶望して生きているわけです。若者がそういうふうになっている。ですから、答はないにしろ、どこかでそういうところも拾い上げるようなかたちでやっていかなくちゃならないなと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、古谷実は『稲中卓球部』を書いた方です。『稲中卓球部』の少年たちは、隣の質問した方も同意してくれましたが、『ヒミズ』に登場する少年たちと、実はキャラとしては同じなのではないかと思います。つまり、いわゆる「外れている人」が増えているのは当たり前という話をした上で、なおかつ笑いをとれている奇妙なキャラは外れている中学生たちの暴走みたいな笑いなのですが、あれはギャグに純化しているのでそれを裏返すとほとんど同じような奴なんじゃないかと。明るさのカケラもない『ヒミズ』の方に出てくる中学生は。要するに同じ中学生が別様に描かれたのではないのかというふうに彼も同意してくれたのですけど。これは一つの見方にすぎないのですが、私もなるほどなと思いました。以上です。
宮永: 他に今のご意見に対して、何でもご意見おありの方、どうぞ。
井上: ニートの議論をずっと聞いてきて、思い出すことがあります。それは何かというとルイ・デュモンという人類学者が書いた『ホモ・ヒエラルキクス』というインドのカースト社会について分析した本なのですけど、その内容はインドのカースト社会を集団対個人あるいは社会対個人という関係性で描いていて、集団の側にカースト社会を位置づけ、西洋的な考え方を個人の側に位置づけています。ところが、もう一つそこからはみ出る集団があって、それは出家者です。デュモンは、出家者の存在をインドのカースト社会の中に個人の存在を許容する部分として位置づけており、インド社会をよく見ていると思います。そういう意味で、インドでは、カースト社会と出家者、集団と個人が一つの統合された中で生きることができる、ということなのです。
それで、なぜそれがニートに関係するかというと、村中さんの発表は、個人主義、集団主義の規範というかたちで分析されていたので、出家者のことを思い出したのです。いわゆるカースト社会一般においては、人間の生涯は、お勉強する時期、働いて子供を育て家族と共に暮らす時期、それから引退して好き勝手なことをやる時期に分かれています。好き勝手なことをやるのは歳をとってからにして下さいということですね。それは、責任を果たして動きが鈍くなってからやるべきものであって、若い内はやるべきものではないということ、それはカースト社会の掟でもあるわけです。ところが、それ以外にインドでは、出家主義というのを認めているわけです。若くして、それこそ十代でももっと若くても自分の意志で出家することができます。出家者は何をやっているのかというと、はっきり言って何もしていない。すなわち、社会に巣食って生きているだけなのです。簡単に言えば食わしもらっている。例えば、ちょっと身体に灰かなにかを塗って、町を歩けばその存在が認められる。居場所があるわけです。日本のニートならば、漫画を読んでみたり、おたく的なことに熱中したりする代わりに、インドの出家者では、30年間左手を上げたまますごすとか、直接的にカースト社会の生産構造の中に役立っているとは思えないことをずっとやっている人たちが生きることのできる居場所があるということです。すなわち、現在の日本の社会を考える限りにおいて、おそらく、そういう人たちが生活できる居場所がなくなっているのではないかということが、ニートの問題につながっていると思います。今ではインドでもそういう場所はほとんどなくなりつつあるかも知れませんけど、居場所の問題として捉えることが重要だと非常に強く感じました。
そういう意味で、ニートの問題は新しい問題ということではなく、本来ならば、ニート的な人たちというのはいて当然であって、さっき永澤さんもいて当然と言われましたが、そういう人たちの居場所がなくなったこと自体が問題になっているのではないかと感じたわけです。この話題が続くのであれば他の人への質問はあとでしますけれど、一つは小井さん、もう一つは森さんへの質問です。
宮永: では、森さんにして頂けますか。
井上: では森さんの方を先に。森さんは、ネットワーキングということを前面にだして分析されていますが、私が考えるネットワークのイメージというのは、森さんが出された例とはかなり違うものです。この中にはIT関係の方もいらっしゃるようなので、間違っていたらご指摘いただきたいのですが、ネットワークの特性とは、第一に中心がないことだと思います。例えばここから情報を発信すると、別に中心を経由しなくても別のところに届くから、ネットワークなのであるというふうに考えるわけです。そういうネットワークのイメージから先ほどの出社の例というのはかなり離れているような気がします。なぜならば、中心はあくまで教祖にあるのであって、各出社に自律的な判断の領域があるとしたら、全体がかなり民主化された代議制の原型みたいなものだと考えた方がよいと思います。発表では、後に組織化されてネットワーク性が薄れたというふうに言われましたが、組織化される前の段階としても、中心があって、その下に各指導者グループがあって、その下に一般の信者がいるわけですから、当初から少なくとも三層構造になっていたと考えられるわけです。それが強化されれば組織的原理が出てくるのは当たり前なのであって、いわゆるネットワークという考え方とかなりイメージが違うような気がします。そういう意味ではプレ組織と言いますか、組織のプロトタイプ的な構造のことを言っているように思われます。ネットワークとは、あくまでもインターネットのような、中心を想定しないものをさしているのではないか。ただし、インターネットだって、実はドメインはアメリカが包括的に管理しているので、アメリカの考え方次第で、全部システムがダウンしてしまうこともある。すなわち、実は影に隠された中心が存在するのだという話も聞いていますが。ですけれども、ふつうは、我々が考えるネットワークとは、そういうものじゃないかというふうに思います。
宮永: 難しい点がいくつか入っていますけど、森さんどうですか。
森: はい、先ほどのお話について本当は意見があるのですが、最初に井上さんに頂いたご質問から答えさせていただきます。確かにネットワーキングというのは、網の目状のものだからこそネットなのであって、中心を設定しないということは仰る通りだと思います。そういう意味で、金光教の出社連合については、私の言葉が足りなかったと思うのですけど、確かに勿論教祖は一番大事な存在なのですが、それが必ずしも「中心」というわけではなく、ネットワーキングをしているときに信者たちは「教え」を核として、そこにつながるかたちでネットワークしていたというふうに考えたいのです。その時に一つ、教祖の言葉として大事だと思うのは、教祖が、「わたしがおかげのうけはじめ」という言葉を使うのですけど、つまりたまたま私は最初に神から声を聞いたけれども、みんなが神になる可能性があると言ったということです。神の号、神号を与えていたことが重要だ、というのはそういうことなんですけれども。だから、全ての人が平等で、神の教えから等距離にある可能性がある、という意味で必ずしも教祖が中心的な権威を持った存在ではないということを言いたかったのです。ご質問については以上です。
もう一点、先ほどの、フレームから外れていく人たちを受け容れる場があるかどうか、というお話のところで思ったことがあるのでお話したいのですけれど、まずフレームから外れたときに個人としてはどう対応するかというと、ニート的な存在で何もしない、何もできない、絶望して生きているというふうに仰っていた、まさにそういう対応の仕方が一つあると思います。村中さんのおっしゃっている玄田さんの本からの引用でも、特に何もしていないと「答えた」人々、というふうに定義されていますよね。ですから数量的にそういうかたちで、例えば何歳以上何歳未満で、というふうに数量的に捉えただけじゃなくて、本人たちが主観的にそう思っている人をカタカナのニートと言っているわけで、だから絶望したかたちで対応していくというかたちが一つと、受け容れる場がある、先ほどのインドの出家者たちの例のような場があるのでしたら、そこに入っていくというチョイスもあると思います。そしてもう一つ、これは我田引水なのですが、ネットワーキング、例えば出社的なものを作っていく、金光教的なものを作っていく、金光教的なものというよりもその組織原理に基づいてネットワーキングを作っていく、というチョイスもあるのではないか、というところにつなげたかったわけです。今のお話につなげて言わせて頂きました。以上です。
宮永: 一つちょっと質問なんですけど、ニートと呼ばれる人たちはネットワークをしているのですか。
村中: していません。
宮永: でも友達もいるわけでしょ。そういうのはネットワークと言わないのですか。私はネットワークの定義はいろいろあると思うのですけど、小さなネットワークというのはあると思うのですよね。5、6人のネットワークとか。
村中: 今の宮永先生の質問に答える前に、先ほどの宮永先生の質問に答えたいと思うのですがいいですか。二元論を否定するのになぜ二元論を持ち出すのかという。で、その前に、今の井上さんの話しで非常に興味深く聞いていたのが二点あるのでコメントさせて下さい。すみません。えーと、一点目はネットワークの定義の問題です。私はIT系の仕事をしていますが、ITの世界で言うネットワークは、1964年にポール・バランという人が、当時の冷戦時代のソビエトの核攻撃に対して、どんなコンピュータのネットワーク構造が一番攻撃に対して強いのかという分析をする時に考えたことが元祖のように言われています。バランは、アルゴリズムで考えてネットワークにはセントラライズド、デセントラライズド、それからディスティリビューティドという三つの型があると整理しています。セントラライズドというのは中心が一つ、デセントラライズドというのは中心がいくつかあるもの、ディスティリビューティドというのは中心がないメッシュ構造のネットワークです。この3つにネットワークはアルゴリズムとして分類できるのだけれど、中心がないのが一番強いと書いています。つまり中心を攻撃されても迂回できるので全体として情報の流通が断たれないので大丈夫だというわけです。いわゆるネットワーク型というと、このディスティリビューティド型ネットワーク構造を指します。それから情報科学的には、自律かどうかというのは自ら情報を発信するかどうかが重要です。自ら情報を出したり受けたりするような点と点が相互に接続されていて、中心を持たない存在というのが、ディスティリビューティド型のネットワーク、自律分散型のネットワークです。ネットワーク型の定義を一つにしろといわれた場合には、これになるかと思います。ポール・バランとグーグルで引いて頂ければ、この論文を無料で読むことができると思います。これは補足です。
二つ目に興味深く思ったのは、井上さんのニート的な存在というのは古いのか新しいのかという質問です。先ほど大越さんとお呼びしていいですか、大先輩なのでどうしようかと思っているのですが(笑)。「さん」ですいません。大越さんの方から、15年くらい前から大卒で役に立たない人はいたので新しい問題ではないよというお話がありました。その後、宮永先生の方からニートという全く新しい存在を定義づけするのに古くさい二元論を持ち出してくるというのは、使う道具が違うのではないかというご指摘がありました。これに関しての私の答えは、宮永先生のご指摘は私の表現の問題なのではないか、と。どういうことかというと、これは言い訳ではなくて問題提起として聞いて頂きたいのですが、確かに、ニート的な存在自体は、何もしない存在というのは、昔からいたと思います。それはその通りなのでしょうが、一方、それが今、急増しているという定量的なデータがあります。急増しているというのはなぜか、ということを量の問題としてだけではなく、質の問題としても考えなければならないと思います。私は、これまで集団主義が良いのだというふうに一方向に動機づけされていたのが、いや個人主義でなければグローバル化時代を闘い抜けないと急に変わったことによって、立ち往生している存在が急激に増えた、これがニート的存在が急増した大きな要因だというふうに捉えています。そういう精神状態にあるいわばニートらしいニートというか、そういう存在というのは、宮永先生のおっしゃる通り新しい存在だと思います。これを記述するためには、確かに新しい表現が要るんじゃないかと私もその問題意識は感じています。二元論の時代からパラダイムが変わったのになぜ二元論を使い続けるのかという批判はよくわかります。ただ、今のパラダイムは何かというと、いわゆる量子力学からの転用が社会科学の中でも流行っていますけれど、不確定性原理ではないですども、存在そのものを観測者が、時で特定できない、というのが現在のパラダイム的な思考になると思うのです。個人主義者と集団主義者をなぜ行動とアイデンティティの問題に分けたかというと、存在がどれかのパターン一つに特定し分類されるわけではなくて、その人その人が、例えば会社にいるときには自分の給料を最大化するために、特に妻子がいる人は経済合理的に動くわけです。奥さんも子供もいない独身貴族の場合は、会社の仕事であっても自分の趣味的な興味を最大化するように動くこともあるでしょうし、その人が会社帰りにクラブで踊っていくとなると、そのクラブでの人付き合いというのは、自分が格好良く見られるために、異性をゲットするために適した行動をとるでしょう。これは会社にいる時の行動様式とは違う。主義が違うわけです。場合によっていろいろ振る舞いが変わる。それを個人と集団、組織というものに照らし合わせてみると、ある特定の存在として、表現で固定することによって、逆に存在が固定されたものではないということを浮かび上がらせたかったのです。固定化するとニートらしいニートというのは捉えられなくなるのではないかというふうに自分では思っていて、捉えられなくなるよということを言うために、二元論の限界を示すために敢えて二元論を持ち出してきてるところがあります。もちろん、二元論を超えた存在を記述するのに二元論を用いる矛盾は先生のご指摘のとおりだとも思います。では捉えられないものを記述するには、どうすればいいのか、というところで実は表現に悩んでいまして、ネットワーク論の延長線上で、集団主義、個人主義の要素というのをパラメーターにして人工生命でプログラミングして、ソースコードで説明しようとかいろいろ考えているのですけど、まだ表現しきれていないという状態です。
宮永: 池松さんどうぞ。
池松: はい、池松と申します。出版社の方に勤務しております。今お話を伺っていて非常に感じたのは、先ほど南部君が言っていたことと非常に似てまして、村中さんがおっしゃっているなぜニートが今問題になっているのか、ということに対する説明として伺っている限りで非常にしっくりくるのは、個人主義と集団主義の対比ではなくて価値づけの問題なのではないかと非常に感じました。その意味で永澤さんが説明されている仕方が非常にしっくりくるのではないかと思っております。ニート自身の定義というのが、自身がニートであることを認めているという、自身の価値づけをきちんと自分で自覚しているというところにあるんじゃないかなと思っておりまして、永澤さんも先ほどおっしゃっていましたけれども、ニートの存在というのは非常に当たり前になってきていて、2ちゃんねるとかはまさにニートがネットワーク化できる場所になっているのではないかと思っています。その意味で考えますと、個人主義、集団主義というよりも自分自身の価値づけの問題として今浮上してきているのではないかなというふうに非常に感じています。やはりその意味では永澤先生の説明というのが、何かしらの後押しになっている感想を持っているのですけれども。
宮永: 大越さん、お願いします。大越さんを「さん」と言うのは高校の同級生だからです。
大越: 私も宮永さんと言います。(笑)先ほど15年前から議論しているという話の中で、何を展開したかというと、我々エンジニアの社会で、ヨーロッパもアメリカも同じエンジニアの仲間で議論するのですが、その中で一つネットワーキングという言葉は、普通はアイデンティティが同じ人がネットワークを築くのはネットワーキングと呼んでいるのですね。ですから、例えば協会に入って下さいとか学会に入って下さいという冒頭に何を書くかというと、ネットワーキングと書くのです。大体ヨーロッパでもアメリカでも、パンフレットを見て下さい。そう書いてあります。
そういう中でアイデンティティに入り込んでいくのですけど、我々80年以降何を議論したかというと、実は我々の世界だけじゃなくて、音楽とか文化も皆そうだと思うのですが非常に高度化しました。細分化したんですね。物凄い細分化してしまったわけです。これは何を意味しているかというと、実はアイデンティティそのものが多様化しているだけなのです。あるぼやっとしたアイデンティティそのものが、自分の周りに10個くらいしかなかったのが、今多分100個くらいになってしまった。それで自分で付き合えなくて、自分のアイデンティティはいっぱいあるけれども、多分選ばなくちゃいけないという中でまごまごしてくるのではないか。それと同時に、小さい社会だと、それが決められていますね。人生というのは。
例えばフランス行ったってドイツ行ったって、我々議論していると人生ってあんまり選択の余地はないのですね。つまりアイデンティティが決められていて、ほとんど人生、その村を出られない、職業は何だ。そういうのがみんな決められていく。
そういう中で戦後日本はあまりにも解放されすぎちゃって、つまり小さなグローバルの中であった、それがもうグローバリゼーションの中に入っちゃったんですよ。仕方なく。本当は、人生は決まっていた方が楽なのです。僕の中学時代ですと、半分の人が就職しています。50%は就職なのです。今50%は大学へ行くのです。だけどそんなにアイデンティティを持った人間ばかりが行っているとは思わない。周りに食べるものがいっぱいあると、あれも食べたい、これも食べたいと気が狂って死んじゃうのかなという感じがするのです。
そういう中でエンジニアという生き方を例えば欧米と日本で見たときに、非常に違いがあります。普通学生時代にエンジニア協会に入ります。全てそこに行かないと職業が成り立ちません。オーストラリア行こうとみんなどこでも同じです。学生が自分の職業的アイデンティティを持つのです。それはだから、自分の生き様というアイデンティティをまず持たされる。そして社会に出ていくわけです。ところが日本というのはまず会社に入るわけです。全部倫理なんか会社ですよ。だから職業人として大事なのではなく、企業人なのです。そういう中でパラダイム転換してしまったわけです。つまり、バブルが弾けて全部リストラして、教育も止めだと、我々はそれをやっているわけです。それが十年前に始まっていく。それまで我々は大学に対しても、いや基礎ができればいいよ、なんてあまりはっきり言わなかったわけです。入社の一番の条件は、一に体力、二に気力なんて平気で言っていたのです。ところが今企業はあっという間にパラダイム転換してしまった。能力がなければ駄目と、たった十年ですよ。そういう中でアイデンティティというのは、いかに多様化したかという中で先ほど言いましたように、実は我々はアイデンティティがこんなになっちゃってどうするの、そういう中でもうちょっと自由度を小さくした方がいいのではないか。そういう意味で僕は大学生に我が協会に入りなさいと。(笑)そうすれば会社なんかどうでもいいと、人生うまく行くよという宣伝、キャンぺーンを、今しております。以上です。
宮永: それをもっと早く知っていれば良かったのですけどね。(笑)他にどなたかありますか。南部君どうぞ。
南部: まず、先ほどから論じられているようにニートが何故今注目されてきているか、という点についてですが、集団主義と個人主義に関しては僕はあまり変わっていないのではないかなと思います。まず日本人の自己の一貫性を求めるのが、帰属意識に基づいているというのが集団主義だと思うのですが、それはまだ変わっていない。ニートが注目されている理由としては、グローバル化で今まで日本の会社のシステムがうまくいかなくなってきた。今までの労働力ではない、もっと流動的で好きなときに確保できる労働力としてフリーター、もしくは派遣で派遣される能力のある人が必要とされるようになってきた。その時に必要とされていない人、もしくはそういうシステムの中の一部になるのを拒否する人がニートなのではないかなと考えました。
宮永: そうしますとシステムを積極的に拒否する人がなのですか。積極性がそれだけあるんだったら絶望してはいないわけですか。先ほどから絶望しているという、絶望ってどういうことなのかよく分からない。でもこれ一言だけ言わせて頂くと、クラシックな社会学ではアノミーと言っていたと思うんですよね。こういうのって。
永澤: 私がさっき絶望しているって言ったのは、意識されている必要は毛頭なくて、特に希望という言葉と無縁というか、肌が合わないとか何かそれなんで、とか全部含めて言っているわけで、むしろ希望をポジティブに持っている方が意識されていないといけないので、よほど何か目標がある人とか珍しいのではないか。比較的幸運なんじゃないかというのがあって、さっきちょっと印象として絶望しているという側面が強く伝わり過ぎたので、それはそうではないのだということです。
宮永: 絶望という価値を持っていないのですね。
永澤: それは価値じゃないですから。
宮永: いや、絶望だって価値になりえると思うんですよね。
永澤: それは物語ですからニートは違うんですね。
宮永: そう、だからニートはそういうものは持っていない。アノミーの場合は、持っていないんですよね。そういうものをね。だからそれをアノミーと言ったと思うんですが、そうすると社会科学的には、クラシックな状況のように思えてきたんですけれど。
永澤: 十年前どころか、60年代からひきこもりの第一世代と言われている人たちは出てきているわけです。問題になり始めているのは、不登校とかそういったことは70年代に目に見えるような形で出現し始めて、60年代初頭くらいに、私もその世代ですけれど産まれた人が学校に行かなくなったり、脱落していったりする頃からです。「落ちこぼれ」ということで、問題として、はっきり社会問題としてターゲットにできるのはすでに70年代の初頭ですから、そういう意味では30年、40年くらい前ですけど、私の用語では昔ながらの問題ではないわけです。70年代以降というのは。
大越: まあ我々の時代が悪いことをしたといえば、(笑)本当は、ここまで言及したくなかったのだけど、実は60年代後半で学生運動やりましたよね。あれは何かというと、知性を壊したのですよ。知性を壊すことは何かというと、学ということの根本を叩き割ってしまったのです。つまり価値観を全く無にしたところで、それ以後はずっとおかしな問題が出てきて、と僕は思っております。
宮永: あの頃、日本は裕福になったので、学生運動も丁度裕福になる、貧しかった日本から裕福になる、あの頃に出てきたのだと思うんです。高度成長の結果、周辺的なところにもお金が回りだした。60年代までは脱サラしても成功しなかった。本当に会社がいやで、脱サラした人たちというのは、結局は挫折してしまった。ところが、70年代から80年代になると、脱サラしても生きていけるようになったわけですね。90年代に入ると、経済は右肩上がりではなくなったかもしれませんけれども、周辺に結構お金があるので、会社に必ず属さなければ食べていかれないということはなくなったわけです。
だからこそ、今このニートという言葉が出てきているのだと思うのです。村中さんから電話で話しただけの内容で、原書に当たって確認しておりませんが、あえて印象だけで申し上げれば、これは頭文字が、スペリングは違うのですけれど、耳から聞いたときに“neat”なんではないかと思います。この人たちは、イギリスでさえ、階級に属していないのです。そこがすごくニートなんですよ。それは、アメリカ語で言ったら、アメリカ人だったら、クール“cool”というところだと思います。それをイギリス人は“cool”とは言わないから、ニート(neet=neat)なんでしょう?すごくニート(neet=neat)だと思うのです。階級に属さないで、どこかよく分からない社会空間のあいだを浮遊している。それが、どんどんプランクトンのように、増えていくというのは、すごくニートだと思うんです、ある見方をすれば。
その人たちは、学生運動とも似たところがあります。その人たちに本当に階級を解体する力があるかといったら、無いと思うのです。この人たちはどこかに定着すると、すごくスノビッシュで、元から何代か上の階級でいる人たちなんかよりは、ずっとひどい階級主義者になることがあるし、下に人を使う時には容赦なく使うようになったりすることもあると思うのです。ところで、それを日本に輸入してきたときには、そういう新しい状況よりも、ニートという言葉を借りてきて、村中さんの言うように、換骨奪胎して、階級の話はどこかに飛んでしまって、古い議論を新しくして、面白いというところにきたんじゃないかな、という感じがするのですけれども。
15年前に、そういう周辺部ができてきたという本を書いたんですけれど、日本では誰も興味を持ってくれなくて、それで英語で書いてアメリカで出版されたのですけれど、日本に帰ってきて発表したら仲間からは総すかんを食ってしまいました。宮永さんはそう言うけど、そんなものはないとか言われました。そのうちに、孫正義氏とかいろんな人が周辺から出てきたわけです。私の理論というのは、周辺が、グローバル化ではむしろ真ん中の親方日の丸の護送船団なんかよりも、ずっと外の世界、つまりアメリカとかアジアの国とかにリンクできるということを言っているわけです。それで孫正義氏は、まさにそうだと思うんです。アメリカに留学して、そこで力をつけて日本に帰ってきて、大成功した。成功する社会空間はあるけれども、人を育てる社会空間はないのですよね、日本には。これは大至急、作って行く必要があります。
パラダイム転換をするというのは、すごく難しいと思います。パラダイム転換は必要です。それで、見るとか、見えるという話になってくるわけです。つまり中心の親方日の丸の人たちからは、周辺がどんなにできてきても、それはやっぱり誤差であって見えないのです。存在しないのです。だから・・・ここからは愚痴になるのでやめます。(笑)では小澤先生よろしくお願いします。ここから先。
だからこそ、パラダイム転換をどのように私達自身一人一人の問題として、扱うことができるのかということなんですよね。誰かのために、パラダイムを論じてあげたり、それから定義をしてあげたりするんじゃなくて、要するにだから今どうするか、ということなんです。簡単に言っちゃうと、大越さんの学会に入るか入らないかとか、そういうどうでもいいような(?)決断が、その一つ一つが重要なわけです。結局。それをするのに何かグローバル社会とか、パラダイム転換とか、パラドックスとか、聞きなれない話をしなければいけないのが、今の状況です。そんなもの、つまんないなあと思うと、アノミー状態になってもういいや、考えなくてもいいからニートに生きよう、ということになります。
そうなるとますます難しいですね。でも、それをこの研究会で、個の問題として論じたいと思います。
約20分後に懇親会が始まります。すぐここを懇親会用に作り変えて頂きます。お開きにする前に自分はこれだけはどうしても一言言っておきたいと言う方はどうぞ。なければ、終わりに致します。どうも有難うございました。
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