個の可能性研究会
ワークショップ2004
発表全記録
 






宮永:それでは、始めます。お手元にあります資料を御覧下さい。初めに「パラダイム転換とパラドックスの時代」、これが今日の全体のテーマです。全体討論の問題提起は、この前にニュースレターとして、お送りしてありますので、1回だけ読ませて頂きます。
 「パラダイム転換とパラドックスの時代」個の可能性研究会ワークショップで今までも論じてきたように、グローバル社会の第一のベクトルは、世界の経済統合です。経済には固有の文化が伴うので、世界的な経済文化が生まれます。もっとも分かりやすい事例は、世界基準、グローバルスタンダードの普及です。1970年までは、伝統文化は消失して、世界的な近代社会が出現し(グローバルコミュニティ)、世界基準が一般化すると考えられていました。現在でも欧米発信のグローバル化論のほとんどは、この立場をとっています。伝統文化の存続は誤差として考えられていて、いずれは消滅に向かうものとされています。ほとんどのものはこれです。世界統合をリードする欧米にとっては当然のことですが、実際欧米からは非西洋の伝統文化というものは見えにくく、注目される場合にはテロのような過激な暴力活動にからんで見えてくる。そういうことが多いと思います。
 しかし非西洋世界では、1970年以降には、目に見えるかたちで、地域的伝統文化が、近代化して再登場し、全世界的に新しい伝統を創出していると私は思っています。世界全体として見れば、多元化です。日本企業を中心とするタテ型社会組織も、その一つとして認識することができます。個の可能性研究会では、すでにワークショップや出版物を通して、事実としての新しい伝統を、事例研究を通じて行っています。今回のワークショップでは、もう一歩踏み込んで、統合と多元化の同時進行の認識をさらに進め、ここから、どのようなパラダイム転換が我々にとって可能であるか、あるいはどのようなパラダイム転換が実際に進行中であるか、ということを検討、追究して行きたいと思います。
 そのためには、これから申し上げます三点が、主要な議題となります。
  • ポストモダン以降の欧米グローバル化をパラダイム転換として検討すること。西洋近代はその内部で進化しているのか。
  • 近代的伝統、あるいは新しい伝統は、グローバル社会の中でどのように機能しているのか。
  • グローバル社会の一員として、非西洋の独自の近代と言う、選択肢は可能なのか。

ということです。これが全対討論の問題提起です。
 それでは、プログラムをもう一度御覧下さい。これから分科会のリーダーの方たちより、問題提起をして頂きます。第一番目が武者小路先生なのですが、実は二回出られないということが前提で来て頂くことになっておりまして、分科会に出て頂きます。武者小路先生は、今日はタイの四日連続のシンポジウムにご出席していらっしゃいます。佐藤壮広さんに代読して頂くことに致します。では、宜しくお願いします。
佐藤:それでは代読を致します。分科会A:12月5日に予定しているものです。タイトルは「グローバル化に伴なうアイデンティティ・クライシス?個と集団的アイデンティティとの再帰的統合と矛盾的自己同一?」です。
 グローバル化は、近代西欧市民・市場社会の「自己の利害を追求して競争する「個」」の原理をグローバル・スタンダード、グローバル・ガヴァナンスの前提とし、国家・民族アイデンティティとは折り合いをつけながら、非西洋諸社会の非国家諸集団のアイデンティティを否定する経済・政治・文化的なディスォ?スに支えられた包括的な現象である。これが引き起こすアイデンティティ・クライシスは、個々人のアイデンティティ不安・血縁・地縁をはじめ共通の言語・宗教・生活をもとにする多くのアイデンティティ共同体の内部でも、その相互関係についても、深刻な紛争を引き起こしている。このようなグローバル化の危機的な側面にたいしては、個ともろもろの集団的アイデンティティを再帰的に統合する必要があるが、それには個を含むさまざまなアイデンティティ間の矛盾的自己同一の可能性を探る必要がある。本分科会はこの問題を論ずる手がかりを模索する準備作業を狙いとしている。以下、問題1、2、3と続きます。
 問題1:開発・発展論は、個の確立に支えられた進歩=近代化として、もろもろの集団的アイデンティティの共生に努力としてきた「前近代」伝統共同社会との矛盾をうみだしている。個の確立は、新自由主義的な利害計算主体としてか、内発発展論の自主性をそなえた変革主体としてか、その必要性は否定できない。しかし、集団的アイデンティティをすべて否定し、共同社会を個人に分解したのでは、開発途上社会のアイデンティティ・クライシスをいたずらに助長することになる。個と集団的アイデンティティとの再帰的統合は、極めて困難であるが、これなしには、開発・発展の矛盾はとけない。
 問題2:人間の安全保障を求める声が高まっている中で、その市民の安全を保障する近代領域国家と、これを統括してグローバルな競争する人間(実は市場経済)の安全保障一方的に推進する覇権国米国と、市民活動のグローバルな連携によって超大国・大企業にたいする市民の安全を保障しようとする動き、自分と自分の所属するアイデンティティ集団(家族・むら)の生存と安全のために、開発途上社会の貧困地域から先進工業諸国に人身売買され、密輸される移住労働者の犯罪組織に搾取されながらの安全追及の動きなどが、入り組んで、各所に安全を求めるためにかえって不安全が蔓延する傾向が一般化している。このグローバル危機を克服するためには、個をはじめアイデンティティ諸集団のアイデンティティ不安のあいだの諸矛盾を再帰的に統合する必要がある。
 問題3:グローバル化に伴なうさまざまな文化摩擦において、とくに西欧ではポストモダニズムによる近代啓蒙主義の克服が叫ばれ、非西欧諸地域では西欧近代文明がもたらした個人主義・世俗主義・商品化を否定する動きがあらわれている。しかも、これらをテロリズムの背後にある「原理主義」的反近代主義として、文明の名において断罪する覇権的な傾向がある。しかし、西欧近代啓蒙主義が闘いとった人権・民主主義・法治主義などの諸価値を否定することは、グローバル化に伴なう生態系破壊や社会の困窮化などの諸問題の解決を不可能にする。したがって、個とアイデンティティ共同体との諸矛盾の再帰的統合が不可欠である。以上です。
宮永:有難うございました。お手元にあるフォルダの真ん中を、返していただきますと、「個の可能性研究会分科会のご案内」というものがあります。その案内の後ろ側に『人間安全保障論序説?グローバル・ファシズムに抗して』という武者小路先生の新しく出版された著作からの引用があります。それを御覧になって頂いて、分科会Aの感触を探って下さい。分科会Aに御出席頂きますと、この新しい著作を50%、割り引きして販売致します。無料配布も考えたのですが、とても予算的に無理なようですので、割り引き販売とさせて頂きます。
 分科会Bの説明を、口頭で発表致します。「再帰的近代化」という言葉を『グローバル化とアイデンティティ』という本の中では使っておりますが、「再帰的近代化」と言う言葉が難しいので、「新しい伝統」と言い換えてみました。ただ、分科会では「再帰的」、あるいは「再帰性」という意味を詳しく論じていきたいと思っています。分科会Bのタイトルは「グローバル社会と新しい伝統」です。パラドックス時代のパラダイム転換には、以下の三点が主要な議題となります。
  • ポストモダン以降の欧米グローバル化のパラダイムを検討致します。西洋近代は、その内部で進化しているか。私の答えはイエスです。進化しようとしている、あるいはパラダイム転換が現在進行中です。それが世界を分かりにくくしていると思います。
  • 近代的伝統、あるいは新しい伝統は、グローバル社会の中でどのように機能しているか。
  • グローバル社会の一員として、非西洋の独自の近代という選択肢は可能か。

この三つを取り上げたいと思います。その場合に1.のポストモダンなんですけれども、ポストモダンによる社会の解体、それに続いて個の解体が起こりました。そのときに超越的な個というものが西洋では出てきたと思います。これは初めて出てきたのではないのですけれども、西洋が超越的個を創り出し、それによって新しいパラダイムを創り出すということを意識的にやり始めた、ということが新しいと思っています。ですから、社会の解体も個の解体も偶然ではなくて、皆で努力してやった、それがポストモダンだ、というふうに理解しています。その結果として新しい社会が出てきて、それはネットワーク社会だ、というふうに考えています。ネットワーク社会はどこへゆくのか、私達はそれに対してどう対応するのか、ということがテーマです。この見方では、ポストモダンや個の解体というのをアメリカ病として片付けることは全くできなくなってくると思います。それでさまざまな事例を皆様にお願いして、検討していこうと考えています。
 私の事例は『グローバル化とアイデンティティ』の中にありましたように、世界真光文明教団ですけれども、『グローバル化とアイデンティティ』をもう少し突っ込んでみたいと思います。そうしますと、この教団は、近代の中で新しい宗教の役割というものを担っている、あるいは創出してそれによって存続していると思います。それは何かというと、身体の再価値化による癒し、身体の価値をもう一度認めて、あるいは取り直してそれによって癒しを行う、ということです。そうしますと、教団コミュニティは、この目的に沿って一元化されています。第一には価値を確立すること。これが教義です。第二には価値を身体化すること。これが儀礼です。第三には結果的に信者が癒されること。これを可能にしています。憑依というような伝統的な要素は、伝統として採用されていますけれども、結局全体のシステムとしては非常に近代的なシステムを創り出している、ということなのです。
システム化に関してもっとも成功している部分というのは、教団コミュニティの全体の構造というのは全く変わらないのですが、その内部で個別化が可能だということだと思います。このような柔構造、柔らかい構造が伝統的なコミュニティに固有のものかどうかは、実際には判断しにくいのですが、もしも固有のものだとすれば、この優れた部分を教団は伝統から抜き出してきた、ということが言えると思います。もしもそうでなければ、近代化の過程で自分たちで創り出してきた、というふうに考えることができると思います。いずれの場合にしても、伝統と近代が融合する過程で新しいシステムができて、それがグローバル社会で機能を獲得しているということは、事実です。そしてこのように、伝統と近代のせめぎ合いからエネルギーを得ている、ということです。
このシステムが、宗教によるものである利点は、第一に価値を認識的に深めることができます。宗教ですからそれは使命の一つです。第二には、儀礼を手段として価値を即行為に転換することができます。こういうことは普通の学校教育ではできないわけです。このように考えますと、1960年代米国の西海岸のカウンターカルチャー運動は、その後の展開も含めて西洋社会での新しい伝統、として考えることもできるのではないでしょうか。その延長で、では米国のキリスト教の原理主義というのは、どのような位置付けができるのでしょうか。ブッシュ大統領の当選を通じて、急速に浮上してきたと思います。
 事例を通して今申し上げました三つの点を検討していきたいと思っています。『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』という論文集ですが、この論文集で今申し上げた作業は、すでに始まっております。ここではそういう事実がある、という確認をしたわけですけれども、これからのこのワークショップも含めて、個の可能性研究会ではどのように伝統と近代が融合しているのか、ただそれが事実だというだけではなくて、どのようになっているのか。その意味、構造等をもっと突き詰めてゆきたい、というふうに考えております。
 それでは、先ほどの分科会のご案内に戻って下さい。第三回分科会は樫村愛子さんと永澤護さんの会です。樫村さんは今日はお出でになって頂く予定だったのですが、お母さまの具合が急に悪くなったということで看病に行ってらっしゃるんですよね?一週間ほど看病に行かれることになりましたので、今回はこちらに来られないということです。永澤さん共々大変に心配しております。それで今日は永澤さんだけの発表、樫村さんの分もして頂けますか?如何でしょう。
永澤:ちょっと構成として、樫村さんとのコラボレーションはある程度の打ち合わせが必要なんですけれども、準備不足なので主に二つに分けて、分科会2月20日のほうに集中してやりたいと思います。それで宜しいですか? 残念なんですけど。樫村さんと私の方は、主にラカン派臨床社会学の方に焦点を絞るので、今日のワークショップの後半くらいからそういう流れになると思うのですが、それは主に2月20日にしたいと思います。その地ならしというか導入みたいなことを今日一日でやりたいと思います。
 それで樫村さんとやるものは、以前お配りしたものに書きましたけれども、私の場合は、『ヒミズ』という古谷実氏のコミックス、これを分析したものを絡めてやるつもりなのですが、今日のメインはそれに至る以前ということになると思います。全体の流れは、以前ニュースレターでお配りしました分科会Cのところに、私のものと樫村さんのものは書いてありますので、それを読んで頂きたいと思います。今日お配りしたレジュメですが、これは分科会中心のレジュメでその後半は『ヒミズ』からの引用なのですが、一応セリフの分析が中心になるので、そのセリフというものの例を一部、レジュメの後半に載せています。まずレジュメの上の方なのですが、導入として「スーパーフラット=バブルの焼け跡」となっています。これは先の土曜日に、ポエトリー・リーディングをやっている詩人の方で、このポエトリー・リーディングは実は私もやっているのですが、死紺亭柳竹という芸名で本名松下真己氏がやっている「過渡期ナイト」と名付けたワークショップを早稲田大学でやっていまして、それに参加したときに「スーパーフラット」という今流行の言葉について彼との間でリンクしたので、それがどういうことかというのはこれから話しますが、この「スーパーフラット」に関して、ちょっと話したいと思います。彼が言ったことで非常に示唆的だったのは、80年代にあった場所、というものが今非常にきつくなっていて、集まれない、組めない、非常に場所が無くなって消え失せかけているということで、つまりネットワーク化というのはきつくなっているということを、彼は非常に厳密に跡付けています。それはサブカルチャーが変質してきたということです。それを私なりに結び付けたのですが、「スーパーフラット」というのは、美術家でフィギュアなどで有名な村上隆とか、哲学者の東浩紀などが言っているものです。大きな物語というものが、雲散霧消した後、非常に小さな物語というものが権威もなしに、階級もなしに要するに一つの平面に、もう本当に超平面という感じに等し並みにばらまかれてしまっている。そういう状態です。それで一見近代的な主体というのが無くなったというか、それはそうなのですが、今度はデータベース的なまなざしになっている。それは良いことか、悪いことか、両方あるのですけれど確かに階級とかそういう対立はなくなっているように見えるのですが、これは無限に階層になっている。どこをとっても階層序列が微細になっている。これがあるわけです。それで、相互の連携というのがつきにくくなっている。スーパーフラットの平面ということで、2ちゃんねるみたいな膨大な掲示板、あれもそうだと思います。一見権威が無くなったかに見えるのですが、一つ一つは階層化されて、値がつけられて商品化されている、ということがあります。それで一つ一つのおたく的に、いろんな階層とか、たこ壷の中に閉じているように見えるところを、つまみ食い的に資本がダイレクトに商品化できるようになっている。こういうことなのです。ですから、「おたく」というのが今カタカナの「オタク」になっていて、マーケットとして大資本に、今だに西武とかあるわけなんですけど、非常に注目されている。そこで、大規模なコンペとかシンポとかもある。それで大塚英志氏が言っていたのですが、私のところにメッセとかシンポとかの誘いがあるのだけど、私は断っていると。それはなぜかというと、それはカタカナの「オタク」であって、私がこだわっているのはあくまで、私が生きた平仮名の「おたく」であると、こう言っているわけです。彼はよく分かっているわけです。そういった大資本によるつまみ食い的な商品化について。
 ですから、横のつながりとか、そういった場所、実際に人に出会える場所、というのは非常にきつくなっていると松下氏が言っているのは、実際にそうなわけです。そこで私は、彼とかとポエトリー・リーディングなどの活動で、場の創出ということを始めているわけです。彼が言うように、「スーパーフラット」というのは「バブルの焼け跡」としてあるのだけど、依然としてそういった資本の動きというのは変わっていないどころか、ますます強化されているという、ある種目くらまし的なことですね。私も、大衆向けのキャッチコピーだと思っています。事実、それはそうで、流行の言葉で「そうなんだ」と思っていればいいという感じのものとしてある。問題は、そうなったことは確かに悪いことだけではなく、まさにそこにネットワーク化の契機もあるということです。これはいま論証する時間が無いのですが、これは要するに階級のような野太いものがなくなって、絡めとられるような微細なものになった。これはフーコーとかいろいろ言っていたわけなんですけど、フーコーは、そうなったからこそ、その関係を新たな、我々の言葉で言えばネットワーク化の営為として組み換えることができるんだと言っていたわけです。幻想かもしれませんが、私も現在そういうポジティブな立場に一応立っているわけです。こういった状況であるからこそ、新しく場を創ったりする。ネットで結びついて、それでたまには会ってみて実際につながってみるとか、そういったことが可能性としてあるだろうと思います。それで、こういう話にいろいろなことがつながっているわけですけど、時間がないのであと一つだけにします。
 私が今言っているデータベースを基体にした、無際限な階層社会、それはスーパーフラットに見えるのだけど、お金をどれだけ持っているかで階層化されます。そういう時にはどういう現象が目立ってくるか。やたらに意識するにせよしないにせよ、我々は自分自身に対する自己言及が過剰になってくるということです。要するに人とつながれないきつい状況の中で、非常にミクロな階層の中に叩き込まれると、我々は自分自身どういうふうなところに位置しているのか、自分というのを位置付けたくなるわけです。そのスケールというかメジャーというのは無数にあるので、原則として無際限に語れるわけです。ですから、そういう過剰な自己言及というのを今のトレンドとして、例えばブログとかあるわけですが、そこで何が起きるか。語れる人はまだいいと思うのですが、ただまともに語れない、まともかどうかというのは堅い基準ではないのですが、全く他者を失った独り語りになると、これはいわば統合失調症の幻聴です。リミットで言うと。これは実は『ヒミズ』とつながっているのですが、『ヒミズ』の主人公の少年というのは統合失調症ですから。あるいはそもそも語るだけの知性もないとか、語る能力も無い人はどうなるのだろう。これは単純に、短絡的に他者への攻撃的な言葉をまきちらすみたいなことになるかもしれない。一部2ちゃんねるというのは、実際そういう場なのです。どんな低レベルなゴミみたいなものでも、およそ語りと言えないようなものでも、自分自身語るものもないし、自分はどうせ下らない人間なんだと。だから他人に対するただ攻撃的なくずみたいな言葉でも、何でも投げ込めるそれこそ「スーパーフラット」な場なのです。そういうのが溢れてるわけです。それをやっているうちならまだいいかもしれないということです。怖いのは、どこかで行動化というのとリンクする回路ができてしまう、あまりに過剰な語りというのが。我々が気をつけなくてはならないと思うのは、単純に書いた人間がそのままやったと考えるのは、例えばこの間のあの事件ですね、我々みたいに知識人を気取っている人間は「馬鹿な」と一笑に付すかもしれないけど、まず大衆レベルでそう思っている人がいるかもしれない。2ちゃんねるであれだけリアルに克明に書いた人がやったのだろう、と。それは論外だとしても、別の人間だったとしたら、実際の事件と2ちゃんねるの書き込みがあまりに類似しているというのは、逆に不気味で怖いことなんですね。それは何かというとある意味先取りされてしまっているということです。あまりにも類似しているということは、実際にやらないでただ単に自分の勝手なおせっかいを膨らませて書いている人に、ここもやはり因果関係の罠に落ちてしまうのですが、その本人ではなくても見た人が触発されるということは、全くないのだろうかというとそうとも言いきれない。つまり一人誰かが書いて、それと同じようなシチュエーションの事件を誰か別な人間がやったということで、現実に起きていることが一体何なのだろうと。これは非常に現代的な問題なので、今後も追及してみたいと思うのです。
 まとめますと、今「場」が非常にきつくなって、無くなっている、分断されている。一方で非常にそういったきつい縛りがないかのような、だけどいろいろ階層化されているわけです。その中で一体どういうネットワーク化、というか新たな場の創出、あるいは人とのつながる場、これをどう創出したらいいのか、というこれは答えはないのですけど、非常に深刻な問題にもつながってくると思うので、ちょっと考えてみたいなと思います。
 後1、2分あるようなので、松下真己氏が言っていた事実の話として、資本によるつまみ食いで「笑えない」という話で一つだけ例があるので、それだけ一つ言っておきたいのです。実は、二千円札というのがどうしてできたかという話で彼が言っていて、ある意味度胆を抜かれたのですが、あれは「ビックリハウス」という雑誌の中で、そのタイトルは知っているのですが、彼が言うには、そこにあるコーナー、素人投稿の「ご教訓カレンダー」というコーナーがありまして、偽札の話で盛り上がっていて糸井重里が偽札を作ろうと企画して言っていたらしいんですよ。その偽札をもじって二千円札を作ったらどうかと言ったらしいんですね。これは断言していたし、彼は調べているので多分本当の話、でも本当だったらあまりにも凄すぎるなという。それを当時の大蔵省がそのアイデアをとって、ただその間は西武のパルコとか、西武資本というのが仲立ちしているのですけど、それで二千円札を作ったと言ってるんですよ。これが事実だとすると、松下氏も言っていたのですが、笑えないなということなんですね。本当に笑えないということで、今や糸井氏がそういう力を持ったということなのでしょうけど。そういった一見たこ壷的な、オタクみたいな、場合によってはそうなってしまうという例として言っていたということです。本当に答もないものをただ紹介しただけなので、申し訳ないんですけど。今後ともこの会ができるだけ長く続くためのネタだと思えば良かったかなと思うので、この辺で終わりにしておきたいと思います。有難うございました。
宮永:有難うございます。すごく刺激的です。それでは、第4回分科会Dは、来年の3月13日日曜日、小澤浩先生にしていただきます。テーマは『近代日本における民衆の自己確立』です。この会の参考書、教科書としては、小澤先生の最新の御著作がすでに皆様のお手元に郵送されていると思います。皆様のお手元に郵送されております先生の御著作は、全額先生からご寄付頂いたものです。小澤先生有難うございます。それでは、お願いします。
小澤:今の話が面白かったので、自分の話すことを忘れてしまいました。それで、皆さんのお話を伺っていると、私は何と言うか、非常に場違いなところへ来て、場違いなことを話そうとしているんじゃないかという思いがあって、少し不安なのですけれども、よろしくお願いします。
 他の方々からは、今度分科会が予定されているということで、その方向性を示すような問題提起があったわけですが、私のほうは、今のところ分科会で何が飛び出すかということが予想もつかないものですから、ちょっと出たとこ勝負の気持ちでおります。そこで、私自身がどういうことを考えているのかということについては、すでに分科会のための資料で書いておりますし、それは、読んで頂ければ分かることですので、今日のところは、それに少し補足をつけ加える程度に止めておきたいと思います。
私はこれまで、歴史の学会に身を置いてきたわけですけれども、その中で特に思想とか宗教に関わるようなことをやっておりますと、どうしても学会の主流的な関心事とかその方法論といったものから外れてしまう部分があって、その部分を満たしていくために、最近では宗教関係とか民俗関係、あるいは個別的なかたちで南方熊楠とか柳田国男などの研究会に、時折ですが出させてもらっております。この研究会に私が舞い込んできたのもそういった動機からですけれども、これまでの経験から感じていることを正直に申しますと、そういう研究会で話されていることの半分も、私には理解できていないことが多いのです。これまでの皆さんのお話は意外と私にも理解できたので、多分それは話をされた方の能力によるのだと思いますが、いつもそうだとは限りません。それは、もっぱら私の不勉強のせいなのですが、もう一つは歴史の学会が外に対しては、開かれているようで実はそうではないという影響が、私みたいな外野の球拾いをしている人間まで蝕んでいるからではないかという気もしております。
しかし、これは省みて他を言うことになりますけれど、わずかな経験ながら、他の学会とか研究会と付き合ってみると、たこ壷化しているのは必ずしも歴史の学会だけじゃないなという感じを抱くこともあります。もちろんこの研究会は一つの「分野」でまとまっているものではなくて、〈個の可能性〉という一つの「テーマ」に関心を持つものが集っているわけですから、そのような弊害は少ないはずですし、そういう弊害を打ち破っていこうというのが、そもそもこうした研究会のあり方が生れた動機だったのだろうと思います。
それにしても、見たところさまざまな背景を持ってきておられる人たちに私の話がどこまで通用するのかという不安があって、それで押し付けがましいと思いましたが、先ほどご紹介のように事前に最近書いた小著をお送りし、分科会の案内にもひとの倍以上のスペースを使ってその趣旨を書かせてもらったわけです。しかし、そういうことで私の不安が解消したのかというと、却って皆さんがああいうものを読んで何を感じられたかということが気になってきました。というのは、他の分科会の問題提起を拝見、あるいは拝聴していると、やはりそこで用いられている言語そのものが私のものとかなり違うところがある、あるいは言語は同じでも意味するところが違うらしく思われるからです。そういう意味でも今日は貴重な時間を、配られているものの繰り返しで終わらせたくないので、私の話はこれくらいにしておいて、後の質疑の時間で、そこらあたりのことを皆さんから大いに突付いて頂けたらと思います。
 ただ、一つだけつけ加えさせて頂きますと、私の方から皆さんにお願いしたいことがあるとすれば、私自身は個の可能性というものを考えるときに、歴史的な物の見方というものは必要だし、有効だという前提で物を言っているわけですが、そこのところからして得心できないという方がおられたら、是非そういうところも、つまり歴史的な物の見方が何故必要なのか、そこでの有効性とは何なのかといったところも、私の書いた拙い文章を叩き台にして、あるいはしなくても、色々指摘してもらえると、これからの道筋を立てていく上で有難いかなと思っております。
 特にグローバル化の問題との関わりで言えば(グローバル化ということ自体について私自身まだよくのみこめていない面があるのですが)、そこで「近代」とか「伝統」というものの見直しを図っていこうというときにも、歴史的な物の見方(こう言ったときにすでにそれ自体も自明のことではなく、歴史家の中でもいろいろな物の見方があるわけですが)は、一定の役割を担いうると私は考えているわけです。今までは控えめな言い方をしてきましたが、もう少し挑発的な言い方をしますと、他の方々のレジュメを拝見していて「近代」とか「伝統」という言葉が割合あっけらかんと、自明のことのように使われておりますが、それがどういう中身のものなのか、かなり不安になるところがあるのです。それについては、我々歴史研究者のなかでさえも常識の嘘のようなものがまかり通っていることがあって、それをそのままにして先にどんどん行ってしまっていいのだろうか、という不安です。そういう点で私たち民衆思想史に取り組んできた者の仕事というのは、民衆というものに視点を据えて「近代」というもの、あるいは「伝統」と呼ばれているものを捉え直してみようとする試みであった、ということはすでにご理解頂けているかと思いますが、これについては、やはり、分科会の中で深めていけたらと思います。
とりあえずは以上です。
宮永:有難うございました。各分科会のご案内は改めて、葉書で差し上げます。時間に関しましては、そのつど葉書でお知らせを差し上げます。それでは続きまして、事例発表とさらなる問題提起、質疑応答ですが、ここに上がっております順番で、発表して頂きます。一人の持ち時間が大変に少なくて申し訳ないのですが、顔見せ興行というふうに考えて頂きまして15分です。発表と事実確認の質問も含めて15分です。ご発表を15分間して頂いても構いません。分科会のリーダーの方にお願いしたいのですけれども、ここで事例発表をよくお聴きになって自分の分科会に来て欲しいと思う方々をリクルートして下さい。それで同じ方が引っ張りだこになっても全く構いません。
よろしいでしょうか?御願いいたします。
大越:私は、エンジニアで、ここはたった一人だと思いますけども、建築の仕事をしております。それで本日個の可能性という意味で、建築というものを人格的に、歴史的に見て、20世紀についての話を簡単にして、このグローバリゼーションの中の建築というもの捉えていきたいと思います。日本というのは世界で稀に建築に興味の無い国ですね。イギリスとかアメリカへ行きますと普通の人は非常に建築に興味があって、この建築は誰だとか、いろいろ書いたりしています。ところが日本では、ほとんど誰も相手にしなくて、街も汚いままに出来上がっていくという。そういう話からしていきたいと思います。
 最初に、冒頭に書いてありますように、建築の様式というのは大きく見れば文明に応じたもの、また個々に見ていくと文化に応じたもので、もっと細かく見ると個人に応じたものということを、我々は前提として仕事をしております。常識、あるいは伝統というものは非常に簡単に変わってしまう。例えば皆さんが今住んでいる木造住宅というのは、実は戦前、全くなくて、それがなぜか伝統住宅という生半可な言葉で言われるのですけど、厳密には随分違っています。それから五重塔の話をよくいたしますが、日本では現在木造の五重塔が40基あり、この中で昔は木割りなど教わったわけですが、現実に見ると全て違っています。全て一塔たりとも同じものはない。それは金堂であるとか皆そうなのです。一見同じ様式と言われていながら、実は誰もその伝統を受け継ぐ人はいなくて、ずっと変わっていきます。
そういう意味でヨーロッパを見てもやはり、例えばフランスの10世紀から15世紀にかけたカテドラルを見ても、これはゴシック様式ですけれども、これもある意味では5世紀にわたる歴史だけでも相当な史料になるぐらい、一個として同じものはありません。そういう意味でいくと、建築とは何のために作るかという問題のところまで話がいくと思います。そういう中で自分を主張するというのが建築家の仕事です。
それで私は、結婚式などでよく話しますが、どうして建築家になるかと言うときに、大きいもので言えば1千億円、小さくても数億円するそういう仕事を勝手にできる、ということです。その中に自分の勝手な思想を入れながら、例えば日本で設計したのと中国でやろうと、アメリカでやろうと自分のアイデアをどんどん入れながら作っていくという、そういう意味では、自己を残せる、非常にいい職業だと思ってこういう説明をしております。
 最初にカラーのものを見て頂きたいと思います。クリスタルパレスの話をしたいと思います。これは、第一回万博がロンドンのハイドパークで1850年に開かれたわけです。この大きさは、幅560m、奥行き125m、3階建てですね。これはたかだか3か月くらいで作っていき、全体の工期は8か月と長いですけども、それにしては地下工事入れて、出来上がるまでにたった8か月、それに地上に行って3か月で終わっている。当時、まだ明治になる20年くらい前ですけど、ガラスとか鋳鉄、錬鉄というのを非常に使っているわけですね。それで、現在、これは私たちが設計している中でいうと、ほとんどのモダニズム建築というのは、実はこのたった一つ、クリスタルパレスが、全てを作ってしまいます。現在我々が設計している超高層というのは、基本的にはこのシステムと全く変わらない。ところがこれを歴史的に見ていくと、ロンドンで同じものができるためには、125年という期間を待たないとでてきません。これは哲学ではマルクスやニーチェがいつ評価されてくるかなどを見ていると、同じような趣旨を我々は感じて唖然とする。つまり、本当にこういった古いところからちっとも出なかったわけです。当然産業革命に始まっておりますので、その中で鉄というのは橋等に使われていきます。でも実際には鉄そのものが、表に出ることはないのです。そういう中で最初に出てくるのはやはり石をまねた鉄のかたちが出てくるわけです。それは今でもオクスフォード大学なんかに現存しております。行かれた方は見て頂きたいと思います。
 それからシカゴとかマンハッタンの超高層の話を致します。シカゴは、江戸と同じで大火に何度も遭っていきます。そういう中で、あるとき突然にして、19世紀を代表するような街並というのを全く捨て去って、碁盤目の街にあっという間に変わっていきます。そういう社会でありますけれども、ただし建物個々に見ていくと、超高層でありながら外壁というのは組積造になっています。表面をスタッコ仕上げのいわゆるレンガ造りなのですね。内部は当然鉄骨です。それから機械の時代になってくる、つまりマンハッタンの時代、いわゆる20世紀に入ってからやっと超高層時代に入ってくるわけです。そこの写真に書いてありますが、1913年竣工のウールワースビルとか31年竣工のエンパイアステートビルを見ても、これはどう見ても近代超高層建築でありながら、実はゴシックの全く旧態依然とした建物そのものを残してしまったわけです。
 そんな中でいわゆる近代主義が出てきますけれども、近代主義というのはある意味ではモダニズム建築が出るまでの過渡期の建物であると言われます。例えばグロピウスであるとかライトとかル・コルビジェ、徐々に少しずつですが、モダニズム建築になろうとしていきます。第二次世界大戦が終わるまでは、圧倒的に近代主義が、日本の建物を見ても、戦前にできたものはほとんど近代主義として、この建物もそうです。これも多分すぐ壊される運命だと思うのですが、いわゆるこれが戦前の近代主義だったわけです。
 それでモダニズム建築というのは少しずつ出てきます。最初に出てきます有名なものは、1931年に竣工しているコルビジェのサブォワ邸というのがあります。向こうは全て石造の世界ですね。そういう中で細い柱がぽこっと出て、透けて見えるということは信じられない。ところが日本人から見れば、大体日本の民家は透けて見えます。グローバリゼーションが不思議だと思うのは、日本人から見ると全然近代的ではないのに、なぜ西洋人はこのようなモダニズムになったかという不思議さです。もう一つ1935年にロンドンのペンギンプールというものができます。今見ても、これは本当にもうすぐ80年経つとは思えないくらい非常に近代的で新しいものができております。日本のモダニズム建築は前川国男とか丹下健三で、ビルディングという意味ですと東京文化会館であるとか広島原爆記念館、香川県庁舎があります。これは考えると、日本人的だと思っている人が多いでしょうけど、ある意味では、モダニズム建築の流れの上で出てきている、ということになります。
 それから超高層のモダニズム建築という意味ですと、実際に、本当にガラス張りのものが出てくるのは戦後になってからです。最初に出てくるのは国連ビルですね。それからここに出てますようにレヴァハウスとかいろいろあります。それは、最初、本社ビルというかたちで出てきます。そのずっと最近になって、シカゴなんかではガラスの建築というのが出てきます。1969年にジョンハンコックタワーが出てきます。これが衝撃的であったのは、オフィスとホテルとコンドミニアムという三つの機能がはいってます。これ一つで、都市と言えるくらい、定住が1万人くらいで、昼間入っている人だけでいくと2万人くらい入っています。それから74年のシアーズタワー、これは企業です。日本に目を転じますと68年に霞ヶ関ビルができております。73年に新宿三井ビルというふうに、これは賃貸ビルです。それからニューヨークのワールド・トレード・センター、これも貸しビルでいよいよ、本社ビルから貸しビルというふうに変わってくるわけです。モダニズム建築の特徴というのは何かというと、鉄とガラスの建築とよく言われておりますが、まさにその通りです。もっと専門的に見ますとまずモジュールが作られていること。それから平らな屋根が必ずあること。カーテンウォールがあって一階はピロティで吹き抜けている、ということが見た目で分かります。もっと凄いのは、構造とか設備、防災的なものがもっとも合理的な建物なのです。現在のほとんどの建物は、実はこれでできております。そういう中で今度は、当然そこまで合理化してゆくと、今度は嫌になってくるわけです。
 そこで全く違う世界、例えばシドニーのオペラハウスというのは全く違う流れで出てきます。その後で、あるいは同時期にポンピドゥーセンターが71年にコンペで入選してできます。このコンペのメインテーマというのが、巨大でゆるい構造、要するに何でも対応できる構造と情報装置、要するにポンピドゥ?センターは、もともと情報装置である、という発信なんですね。ということで、ご存じのように中が、ほとんど設備とか構造というものは全くなくて、何でもできる空間となっていて、逆にいうと設備、人間でいうと血管とか臓器は全て外に出ていて、骨にしても外に出ているという世界が出てきます。同じようなものが香港上海銀行、それからロイズオブロンドンというのが出てきます。これらはハイテク建築と呼んでおります。部品はいくつかあるのですが、ヨットなどの部品がバックに入っています。
 これと同時に出てくるのがポストモダニズム建築です。これは先ほどのモダニズム建築の逆をやるわけです。まず屋根を傾斜させます。つまりフラットであるのをやめて、屋根を作るという自己主張をします。それとファサードを見ますと基壇部と中間部と頭飾り部に普通分かれます。ですから、今日ここをぱっと出て見ますと、モダニズム建築かポストモダニズム建築かは、その三つの外装を持っているかどうかで非常に良く分かります。それともう一つ専門的に見ますと、先ほど言いましたように、本来合理主義の最たるもの、構造と建築と設備、施工も含めて最も合理的だったものが、モダニズム建築になって全く逆をやっていきます。例えば都庁を見た場合には、都庁の外装からは我々は中の構造がどうなっているかは全く分かりません。それと設備も全く分かりません。というふうにしてやっとファサードが、自分たちに解放されてくるということになります。
 それからさらに進んで、多様性建築で、2001年になりますが、函館未来大学というのがありますが、いわゆる巨大なガラスキューブというのを一つ作って、その中に教室や研究室や図書館などを全部入れてしまうのですね。それを雪の日見に行くと分かりますが、真っ白の中に巨大な建物一個が、ぽこっと、浮いている。それは、考えると、砂漠の中でもどこでもいいということです。
 それから最近は、ウルトラモダニズム建築というので、ここに写真をお見せしているのは、グッゲンハイム美術館です。これはほとんどモジュールとか全くなくて、外装そのものを見てもまさに自分で発泡スチロールを削って作ったものをそのまま設計に持ってきている、ということになります。それから仙台のメヂアチークが同じく2001年竣工していますが、これも考えてみると梁とか柱というものは全くありません。一部だけコンクリートを使っていますが、全部鉄とガラスでできたある意味ではもっともモダニズムの先端をゆくけれども、残念ながらその中にはモダニズム思想というのは全く出てこないという世界になります。現在では、すぐ傍ですと、青山にありますプラダブティックなどを見てもらうと分かりますが、外装そのものが構造になっている。そういう世界が出てきます。
 ということで、20世紀から21世紀に変わって、何が大きく変わったかというと、我々が高度情報化社会の中で、全くアイデンティティを変えざるを得なくなっている、ということです。もう一つの大きなものは、産業革命の中でモダニズム建築というのが徐々に出てきたわけですけど、この21世紀に入ったときに高度情報化社会という、産業革命に伍すくらいの凄い社会変革の中で、我々建築の世界ではパラダイムの変革は起こりつつあります。その中で50年後にどうなるかというのは予測がつかない、という建築界の紹介を致しておきます。
宮永:有難うございました。よろしくお願い致します。
井上:時間はあまりありませんけれど、まず、以前に出させて頂きましたタイトルは、『集合的アイデンティティと個の相克?南インドの音楽祭をめぐるポリティクス』でしたが、本日お配りしましたレジュメの方では、「南インドの音楽祭をめぐるポリティクス」をタイトルとし、副題を「集合的アイデンティティの相克」として「個」を外させて頂いたことをお伝えします。というのも個の問題を考える前に、私がフィールドをやっております地域における集合的アイデンティティ同士、すなわち集団間の対立というものに焦点を当てる必要があると考えたので、今日は、そちらの方についてお話させて頂きたいと思います。
 今日の発表のポイントとしては三点ございまして、第一に、自律的な領域としての「芸術」という考え方が儀礼的芸能に導入された際に起こる相克、とレジュメには書かせて頂きました。芸術という領域が入ってきた過程について細かく説明している時間はないのですけれども、インドがイギリスから植民地支配を受ける中で、ヨーロッパ人によってインド音楽研究がなされ、その影響で成立した芸術観というものが儀礼を変容させることによって起こる相克ということです。次に、グローバルな動きに触発されながら勃興するローカルなアイデンティティ間の対立、これが今日のメインになってきます。そして、そのようなアイデンティティものは、グローバルな文脈での主張がローカルな文脈に再解釈されて展開されているということです。その辺りの状況を今日は事例を加えてお話したいと思います。
 本日取り上げる事例はティヤーガラージャ・アーラーダナーと呼ばれる儀礼的芸能祭です。昨年一年間、私は南インドのタンジャーヴールというところにおりました。レジュメの二枚目に地図を付けましたけれども、インドの南の方にタミルナ?ドゥ州というところがあります。タミルナードゥ州の一番北にあるのが、南インドの玄関口であるチェンナイで、そこからさらに300キロ以上南の方に下ったところにカーヴェーリ河が流れております。下流のデルタ地帯にタンジャーヴールが位置しています。このあたりは2千年以上も前からインドの穀倉地帯であったために、さまざまな王国が勃興してきたという歴史的には非常に古い地域ですが、今日では、都市の発達に乗り遅れて、いまだに農業と伝統工芸に依存している一地方都市と言っていいと思います。この地域がイギリスの支配下に入る直前の時代に、ティヤーガラ?ジャという音楽家がいました。彼は英語でコンポーザー、日本語に訳せば作曲家というふうに呼ばれますが、インド音楽の文脈でコンポーザーとは西洋音楽のように曲を作って楽譜に書く人のことではありません。コンポーザーは、詩を作って歌を歌い広める人のことです。インドでは、英語でセイント・シンガーと呼ばれているので、楽聖と訳すのがいいだろうと思います。ティヤーガラージャは19世紀末頃から、一人の音楽家として海外にも広く紹介されてきました。彼は、タミルナ?ドゥ州の北側にあるアーンドラプラデーシュ州の公用語になっているテルグ語という言葉で、ヒンドゥー教の神の一人であるラーマ神を讃える作品をたくさん作りました。彼は非常に多くの弟子を育てていたので、作品は今日のコンサートのレパートリーとして広く定着しています。弟子の伝承としては、ティッライスターナム、ウマイヤールプラム、ワーラージャーペートという弟子の出身村の名前で呼ばれる三大伝承が有名です。伝承者たちは現在でも存命で、当時から今日まで師弟伝承がつながっているということです。音楽学者は、「ティヤーガラ?ジャほど多くの伝記が書かれたインド人作曲家はいない」と述べていますが、この言葉が示す通り、インドでは最もよく知られている楽聖と考えていいと思います。
 今回取り上げるティヤーガラージャ・アーラーダナーですが、アーラーダナーとは何かというと、聖者の死にあたって催される儀礼的な礼拝のことを指しています。ティヤーガラージャは音楽家として有名なので、その礼拝のときに音楽祭が開催されます。この音楽祭は、カーヴェーリ河の河畔の遺体が埋葬されている場所で開催されています。現在のような音楽祭が始まったのは1907年頃です。資料1にティヤーガラージャ・アーラーダナーの年表を付けておきました。この儀礼的芸能祭が、どのように発展したかについては、この年表を見て頂きたいと思います。本日の課題は、ティヤーガラージャ・アーラーダナーというものを、異なる弟子の系統によって、それを挙行する「権利」や「正統性」を競い合う「場」として捉えてみたいということです。
 レジュメの3にいきますが、今日のアーラーダナーの特徴は何かというと、まず、その執行にあたる団体が三つ存在するということです。最初は、ティヤーガブラフマ大祭協会という団体です。この協会はいわゆる音楽祭の部分を挙行しています。現在ティヤーガラージャ・アーラーダナーと言えば、この協会が主催する音楽祭のことを指しています。この協会は、篤志家の寄付以外には会員制をとることによって資金調達を行っており、会長や書記などの主要な役職は選挙によって任命され、その他の委員もカーストのバランスなどに配慮した人選が行われています。いわゆる現在の我々もなじみがある「学会」に似たような非常に民主的な運営がされているといえます。すなわち「民主化」されているということが重要な視点になってきます。ただし、音楽祭の開会式には、必ず著名政治家が来賓として招待されます。現会長は、現在のインドの政権与党である国民会議派の著名政治家です。実際のところ、彼の一族は代々政治家で、親子二代にわたって30年以上も会長職をつとめています。彼の一族は、必ず対抗する政党の政治家をも来賓として招待しています。それから、著名演奏家も招聘されますが、基本的には誰でも望めば参加して演奏することができるので、子供たちが音楽の発表の場に利用したりすることもあるし、外国人である私も出演できました。会員制ですので、会員になれば誰でも出られます。もう一つの特徴は、インドでは一人で演奏するのが普通なのですが、代表作を全員で揃って唱和することです。また、音楽祭のようすはテレビとかラジオで必ず中継されています。
もう一つの団体が、尊師ティヤーガブラフマ・アーラーダナー大祭奉賛会です。この団体は、先ほど三大師弟伝承を紹介しましたが、その一つであるティッライスターナム派の師弟伝承に基づくもので、儀礼を中心に挙行しています。聖者の祖霊祭は、本来ヴェーダの儀礼に基づいて行われるものであるため、その伝統を守っているわけです。その他にもアーラーダナー当日には、サマーディと呼ばれるティヤーガラージャの埋葬地で礼拝を行います。三番目の団体がナーガラトナーンマール財団です。これは、サマーディに建立された寺院の維持管理団体です。当初、管財人が三名いましたが、現在は一名だけです。この団体は、寺院での毎日の礼拝、アーラーダナー当日の礼拝などを行います。
 重要な点は、ティヤーガラージャ・アーラーダナーの挙行に関するさまざまな「権利」をめぐって裁判が相次いでいることです。裁判は、音楽祭の部分は三つの団体の間で統合されたけれども、儀礼の部分は統合されていないことから起こっています。すなわち、儀礼に関わる部分においては、本来ならば二番目に挙げた弟子の団体にも権利があるはずですが、寺院の維持管理団体であり、その土地の所有者でもある、ナーガラトナーンマール財団に雇用されている寺院司祭が、弟子の団体による寺院での礼拝をさまざまな形で妨害しているということです。寺院礼拝の「権利」をめぐる団体間の対立の構図の背景には、どのような問題があるかということを見てみますと、まず20世紀初頭までには、ティヤーガラ?ジャの聖者としてのイメージが確立し、寺院が建立されて神の化身と見なされるようになったこと、すなわち彼は音楽家ではあるけれども、同時に宗教的な信仰の対象となったことが挙げられます。音楽雑誌の誌上でも、長期に渡ってアート対バクティと題する議論が展開されました。ティヤーガラ?ジャの作品をアート、すなわち芸術と捉えて彼を芸術家とみなすのか、あるいは、バクティとは神や聖者に対する絶対帰依を表す言葉ですが、そういう宗教的な信仰の対象として捉えるのかをめぐって議論が展開されたわけです。ここで問題となってくるのは、インドでは、従来、儀礼と芸能が不可分の存在であり、芸術は芸術、儀礼は儀礼というふうに区別をつけていなかったのですが、そこに自律的な領域としての「芸術」という概念が持ち込まれたおかげで、このような論争が交わされるようになったわけです。つまり、芸術と宗教が、英領期にもたされた芸術観のおかげで、別のカテゴリーとして成立し、それが儀礼の権利をめぐって対立を産んだということです。こうして、ティヤーガラージャ・アーラーダナーは、芸術を重視する団体、儀礼の権利を主張する団体など各団体間の集合的アイデンティティをめぐる政治的対立の場として顕現しているわけです。
 あと三分しかなくなってしまったのですが、実は、ここにもう一つ別の団体が加わってきます。それはタミル人民音楽祭を挙行している人民文芸協会なのですが、この音楽祭はティヤーガラ?ジャ・アーラーダナーに対抗する音楽祭として行われているものです。これは1994年からタンジャーヴールで開催されている新しい時代の、いわゆる冷戦崩壊後の社会変動のなかで起こった現象だと考えて頂いていいと思います。主催している人民文芸協会とは、毛沢東主義を奉じ、武装闘争による農民革命をめざすゲリラを支援し、革命文化の育成を目的とする急進的な団体で、国内でたびたび示威行動を行っています。対外的には反米・反帝国主義・反グローバル化、ここでいうグローバル化というのは、新自由主義のグローバル化に反対しているということです。国内的には反政府・反経済開放、タミルナードゥ州では反バラモン・反州政府・タミル至上主義的な団体です。この団体は、ティヤーガラージャ・アーラーダナーがバラモンによるタミル支配の象徴であるとみなしてアーラーダナーに乱入し、警官隊と衝突を起こしました。タミル人民音楽祭は、カルナータカ音楽をバラモンによるタミル人の文化的・宗教的支配の象徴とみなして退け、ダリット(不可触民)の太鼓の音楽をシンボルとしています。このほかに、毛沢東主義を奉じる政治家の演説や、反米的な、例えばイラク戦争やコカコーラ工場が環境汚染を垂れ流している様子といったドキュメンタリー映画の上映、赤いスカーフや赤い旗を振りながら革命歌を歌うといった内容です。資料2には、インド共産党の毛沢東主義グループについてまとめておきました。
さて、タミル人民音楽祭をどのように解釈するかという問題なのですが、実はインド共産党の毛沢東主義グループは、今年の一月にボンベイで開催された世界社会フォーラムという、反新自由主義グローバル化に反対する世界的なNGOネットワークの催しが開催されたときに、ムンバイレジスタンスという対抗フォーラムを開催しました。さらに、その主張さえも生ぬるいとして、三つ目のフォーラムとして開催されたのがこのタミル人民文芸協会を中心とするフォーラムでした。グローバル化の中では、彼らの運動は、グローバルな毛沢東主義グループのネットワークにつながっていますが、ローカルな場面では反バラモン、タミル至上主義という20世紀の初頭以来のカースト間闘争として再解釈され、現在その活動が活発化しているという現状があります。その現状を考えたいということで、この事例を挙げさせて頂きました。
宮永:有難うございました。分かりにくい状況をよく整理して頂きました。15分しかなくて申し訳ありません。では、次に進みます。
島添:はい、島添です。私の方からは資料は11月23日個人発表資料ということで、井上さんの下にある部分、これが要旨です。私の発表はこの要旨に基づいたものでして、これに対して補足する資料をもう一枚、A4で配布資料(島添)と書いてある資料を二枚出しております。
私の発表は、『奄美シマウタにおける伝統の再帰と創造』です。奄美におけるシマウタは、シマ(集落)社会の成員のアイデンティティです。シマウタは、数百の歌詞と数十のフシや踊りを、その場にあわせて適切に組み合わせて引き出して歌い踊られます。配布資料の資料1をご覧ください。まず歌詞ですが、八八八六調という琉歌調という詞型が基本です。俳句でしたら五・七・五調、和歌でしたら、五・七・五・七・七ですが、沖縄系のものは八八八六という詞型をとります。例えば、「シマがおそがなし シマを見守てぃたぼれ 七日七夜 踊てぃうえすろ」という歌詞があります。八八八六で一つの歌詞で、これが数百あるわけです。次はフシです。フシは、声と太鼓と三味線の組み合わせです。組み合わせとしては、声と太鼓を組み合わせた「太鼓歌」、声と三味線を組み合わせた「三味線歌」、そして、声と太鼓と三味線を組み合わせた「踊り歌」があります。資料2をご覧ください。これは声による旋律です。簡単に説明いたしますとこの五線譜に書きました旋律に対して先ほどの八八八六の言葉を当てはめて歌います。Aという旋律に対して、最初の8文字。Bに対して次の8文字。Cに対して次の8文字。そしてDに対して最後の6文字をあてます。この場合の曲は、後半に旋律が反復されます。Eは3番目の8文字、C’はCの変形のフシなのですけれども、最後の8文字を当てます。そして最後にDの旋律という具合に、反復します。
 次に配布資料を裏返して頂きまして、資料3は、太鼓の例です。太鼓歌を例に太鼓のリズムパターンをいくつか上げておきました。これは、声によるフシに応じて、太鼓のリズムパターンを使い分けます。これに踊りが入るわけです。踊りは、周期があるものと周期のないものがあります。資料3に踊りの型の一部だけを載せておきました。これは、いずれも周期のある踊りの例です。周期のある踊りは、それぞれステップの踏む順番や手の振りが決まっています。
 シマウタを歌い踊るためには、これらの要素を暗記して、その場にあわせて適切に組み合わせて引き出してくる必要があります。そういう意味で、シマウタは、データベースのようなものです。このデータベースは、シマごとに保有されています。例えば、私が調査した嘉鉄というシマにおいて、声と太鼓を組み合わせた「太鼓歌」は、歌詞が約200、声の旋律が21、太鼓のリズムパターンが8、踊りが21を組み合わせて、23曲が伝承されています。シマの成員は、自分のシマのデータベースを共有することでシマの人間としてのアイデンティティを得るわけです。それとともに、シマの成員は、データベースを使って自分の歌を作り出します。
歌の作り方は、二人以上の人との掛け合いです。歌詞を歌う順番はきまっておらず、相手の歌に応えて、当意即妙にデータベースから歌詞を取り出して歌うため、ストーリーの展開は一回ごとに異なります。配布資料4をご覧ください。これは、実際に行われた掛け合いの一部です。一番左側にある10、11、12、13・・・16という数字は、掛け合いをやっていて十番目から十六番目に歌われた歌詞という意味です。これを見ますと最初の10、11、12に出てくる言葉は、「縁」、ご縁です。ご縁という言葉から連想して歌詞を出していきます。ここの部分のテーマは恋です。最初に「こういう愛しい状態というのは、恥をかくようなご縁かもしれないが、いろいろいってどうする、それが運命じゃないか」というふうに歌いかけます。それに対して答えで出てきた歌詞というのは、「天と地のあいだでも露が降りて馴染んでいるのに、愛しい人と私のご縁というのは、なかなか馴染みません」というふうに応えるわけです。それに対して、また相手の人が「私とあなたのご縁というのはどのようなご縁なのか、離れたと思えば近くなる」と語りかけます。ここからまた「近い」、「遠い」というところから連想して、「切れるのなら遠く切れればよい、寄るのなら近く寄ればよい、ほっておいて波風に揉まれるのは非常に辛い」と応えます。そこから「波」とか「船」といった連想ができるような歌詞を出してきます。そして「船を押し出すのは波風にまかせましょう、愛しい人を出すのは他人に任せます」と応える。そうすると今度は、「行ってしまう船」、ここでは「死」を連想することがあるのですが、「行ってしまう船は止めても止められません、行って下さい愛しい人よ、私は朝夕あなたのために拝んでいます」と応えていく。こういうかたちでストーリーを展開させていくわけです。
こうしてシマウタを歌うことは、行事や普段の遊びの中でカミや先祖と対話し、シマ人として生きる教訓を得ることです。例えば、お盆の時に、ご先祖さまを墓まで見送った後、太鼓歌を歌い踊る習慣があります。そのときの太鼓歌は、ご先祖さまとの踊り比べといわれています。以前は、死者を火葬せず、一旦、土に埋めて、骨にしてから、その骨を洗って、お墓に埋めるという洗骨が一般的でした。その時代には、洗骨前の仮の墓であるヤギョウという木造の小さな家のような形のお墓を燃やした灯りで踊っていたといいます。また、「歌は半学問」といわれ、教訓的な内容の歌も多々あります。例えば「親の言うことと茄子の花は千に一つも仇がない」と。親の言うことと茄子の花は、全て無駄が無い、無駄なく皆咲きます、つまり、「親の言うことはちゃんと聞きなさい」という教訓です。その一方で歌遊びというかたちで夜から一番鶏が鳴くまで、歌で遊ぶというような習慣もありました。そのため、歌の数を多く知っており、歌のつなぎ方を熟知している人はウタシャと呼ばれ、遊び人と言われると同時に尊敬もされる人でもあります。
シマウタの再帰性は、シマを超えてデータベースを再構築したことです。シマの中に留まっている人たちばかりではなく、出稼ぎなどでシマの外へ出て行ったウタシャたちは、シマの外の歌を積極的に自分のレパートリーに取り入れ、シマのデータベースではなく、自分のデータベースをつくりました。そして、ウタシャは、自分のデータベースを自分の民謡教室のお弟子さんたちに教えることで、一種の流派をつくって、その中で自分のデータベースを共有します。この民謡教室で歌われるシマウタは、舞台で歌われる歌であり、レコード化することで、シマの外にも流通するようになります。このような歌には、信仰や呪術性はなくなって、「音楽」に変換されてしまいます。「音楽」として聞かれる歌は、シマの中にいる人々のみならず、シマを越えて癒しの歌として受け入れられています。以上、私の報告はここまでです。
宮永:それでは続いて、お願い致します。
森:はい、森葉月です。私の資料は今日お配りしましたファイルの中に入っております、『個の自律とネットワーキング?金光教「出社連合」に学ぶ』というものです。先ほど「ネットワークがきつくなっている」というご指摘がありましたけれども、例えば金光教の歴史に学ぶことからネットワーキングの可能性と希望を得られるのではないかということを、この事例を通して発表させて頂きたいと思います。
 ここでいう出社というものが何なのかということが、まず金光教の方以外の方には分かりにくいかと思うのですけれども、それにつきましては資料の裏側で、金光教教典の付録を引用して説明しています。私自身は、これが初期の布教者本人であり、布教の場そのものを指すものだという風に理解しております。こういう人たちが作った信仰集団、それとその信仰集団同士が緩やかにつながっていたもの、それを出社連合と呼びたいと思うのですけれども、そういったものを核として成立期の金光教は、教勢を広げ発展していったと言えると思います。そして、出社連合体とここで私が呼んでいるものの特徴が、かなり今日ネットワーキングと呼ばれているものの集団とイメージが重なり合うのではないかと考えています。ネットワーキングという言葉は、かなり現在では周知のものであるのではないかと思うのですけれども、一応ここで私が言いたい意味を確認させて頂きますと、同じ目的と手段を果たすために連携することというのがまず一つあります。その場合、原理主義者だってそうじゃないかというふうになると思うのですが、そういう連携の中でも特にヨコ型の権力分散、あるいは個人の自発性を重視する、そういった組織を持っているということ。あるいは、告発型ではなくて、代案提示型の行動原理をもっていること。あともう一つは、目的を絶対化するわけではなくて、批判力を持った思想原理があること。そういったものをネットワーキングと呼びたいと思っています。
 先ほどのお話でいきますと、大きな物語をもう一度どのように取り戻していくか、あるいはどんな大きな物語を取り戻していくかということにも、この事例はつながると思うのですが、大きな物語としての独自の原理、それはすなわち結論を先取りすれば、ここでは、金光教では、金光大神の教えなのですけれども、そうした「原理」の特性を明らかにし、我々が我々自身のネットワーキング論を構築していくための示唆を提供する材料にしたいと考えております。そのことが社会を変える基盤になるとともに、個人としても自己実現の可能性を高めるという点で、パラドックスの時代に対応していくための有益な手段の一つになると考えております。
 まず出社連合の形成の歴史というところからお話ししたいのですが、形態的には伝統的な講集団による教勢の発展から形成されました。この際に出社は教祖から相対的な自律性を保持しておりまして、その一つの例としましては、個々の出社が、教祖があまり用いないように言った、代受苦的な、信者の身代わりになって、自分がその病気を受けて病気を直すというようなかたちの代受苦的呪術などの伝統的な手法を、現場の状況に合わせて、布教活動の一部に使っていたことが挙げられます。また、教祖が自らの教えに背いていると、教祖を諌める出社さえいたという例からも、彼らが自律性を保持していたということが言えると思います。その場合に、彼らは「神号」というものを授与されていたのですが、そうしたことが彼らの自律性を支える基盤の一つとなったのではないかと考えています。こうした出社は教祖に倣って、自分のところに来ている信者たちにも神号を与えるのですが、そのことによって出社の出社、出社の出社の出社というふうに次々に出社ができていきます。そこで誕生した出社たちというのが、互いに神号を頂いている「神の子」という立場で、平等な関係を保ちながら緩やかに結びついていく。教祖の教えの実践という同じ目的に向かって、「取次」という手段を共有しながら互いに支えあっていたと言えると思います。「取次」ということに関しましても、資料の裏側で説明をさせて頂いております。神はここでは<天地金乃神>という神様ですけれども、その意思を氏子(信者)に伝え、氏子の願いを神に取次ぐということを「取次」と言っております。
 このようにしてできた出社連合体なんですけれども、その後直信という指導層が現れてくるのですが、これについても裏側で説明してあります。直信というのは、そこに書いてありますが、教祖がある時点で、今後は「出社」などの神号を排しますということを言います。これは当時官権の圧力によってそのようにしたことで、教祖に信仰的な必然性はなかったということは、一言つけ加えさせて頂きたいと思います。ただ、その後担った役割、直信が出社連合体がヨコ型の組織だったものをタテ型のカッコつきの近代的な教団に変えていく、ということをしたという意味では、かなり出社と初期の直信、両方とも初期の教祖の直弟子ではありますけれども、担った役割が教団形成史上違うという意味では、名称を変えられているということにも意味があると思います。このように直信が出社連合体を教団に再編したことにより、出社連合体は変質し、制度上は姿を消します。組織はヨコ型からタテ型になり、先ほど申し上げましたようなネットワーキング論という観点から見れば、一歩後退したことになると言えると思います。しかしそれによって、個々の出社の機能そのものが失われたわけではないと考えます。むしろ教団が経営主体を担うことで、出社という信仰主体は近代国家の抑圧から保護されたと考えられるのです。
 そこで温存された出社のエネルギーが「噴出」したと考えられるのが、「昭和九年・十年事件」というのがあるのですが、それについても裏側に説明があるのでご覧下さい。この際に各地の教師たちが「有志盟約」を結成しまして、信者達の方は各地に信徒団というのを結成します。これらの全ての集団がやがて全国的運動として結集していきます。このことはその信心を侵そうとするものには激しく抵抗して止まなかった出社連合体の信仰の系譜というものが、水脈となって、基層として信徒達を支え続けてこなければ、起こり得ないものであったろうと考えています。ですから、講から発展して出社連合体となり、教団というかたちで組織化されて、近代的な組織に再編されていきますけれども、基層としてあった出社連合体というものがここで浮上というか、再浮上したのではないかと考えられると思います。
 このような金光教出社連合体の変遷に、我々はネットワーキングの生きた事例の一つを見ることができるのではないかと私は思っています。出社連合体の復活を支えたのは、出社の信仰的なエネルギーであり、自律する力です。ネットワーキングとは、単に人と人とがつながっていくことではなくて、自律した者同士が、その集団に固有の思想原理を核としてまとまっていくことである、ということです。
 この場合、金光教にとっての思想原理というのは、言うまでもなく金光大神の教えです。この際の要点の一つは、「あいよかけよ」という教祖の言葉によって凝縮される、神と人、人と人との協働のことであると思います。この神は先ず、垂直的な視点から人間を見守る普遍的な存在として把握されます。しかし他方で、「おかげはわがこころにあり」という金光大神の言葉が示すように、この神は排他的なものではなくて、あらゆるひとのこころに内在し得るものとされています。金光教における「生き神」とは、このような神のはたらきを指しています。ひとは、人間を救いたいというこの神の願いに耳を傾け、神との「対話」を通した絶えざる内省を行うことによって、自己解放へと導かれるのです。
 こうした思想原理は、金光教だけではなく、相前後する民衆宗教教団に共通して見られるものです。それは、当時の人々にとって有効であっただけではなく、今日の我々が、我々のものとしてのネットワーキング論を構築する上でも、一つの智慧と希望を与えるものになるのではないか、と考えております。以上です。
宮永:有難うございました。時間が迫っておりますので、次の方に進みます。お願いします。
萩原:本日レジュメを配布させて頂きましたので、ご覧下さい。題名は「社会の再帰化と『科学論の』パラダイム転換――『安全』という概念をめぐる意思決定について――」という題名です。
 パラダイムという概念を科学哲学における厳密な定義から離れて、認識の枠組み、という広義の意味で用いるとしますと、パラダイム転換というのは、科学論そのものにおいても生じてきたと言えます。科学論は、誕生したばかりの近代科学の権威づけを行うこと、科学の研究に携わる人々のアイデンティティを確立して、他の領域との明確な区別をたてることをその当初の課題としました。科学の権威づけを行うために都合が良いのは、その土台となっているはずの研究業績が、過去から現在に至るまで連続的に存在して、そうした知識の連続的な進歩の上に今日の科学が位置づけられている、という歴史認識です。このような歴史観をつくることが、科学史の出発点でした。同時に人間の主観からは完全に独立した科学的知識の客観性を確保することも、科学を他の領域から区別する特権性として機能します。その作業を遂行するための手段が、科学哲学でした。草創期の科学史と科学哲学によってつくられた科学の特権性というのは、その後も多くの科学者たちにとって、自明な前提として機能していくことになります。
 この自明性をゆさぶったのがクーンのパラダイム論でした。換言すれば、科学論における最初のパラダイム転換をもたらしたのは、パラダイム論の登場そのものであった、と言えます。パラダイム論の主な特徴を挙げますと、知識の連続的な進歩の否定や事実の理論負荷性などです。ただし、当時の科学者共同体に対する位置づけというのは、現在のものとは異なっていました。科学社会学を掲げたマートンによると、科学的知識というのは特定の人間の所有物ではなくて、普遍的であって研究者は自分の利益にこだわることはない、と言います。そして物事を簡単に信じてしまうことはないけれども、方法論に基づいて吟味した結果、それでも疑い得ないものに関しては暫定的に認めるという研究態度を持つ、と論じられました。
 このマートンの見解に対するザイマンの批判が、科学論における第二のパラダイム転換をもたらす一つのきっかけとなった、と考えられます。ザイマンによると、今や科学的知識は知的財産権の対象であって、研究開発の対象が当面の課題の解決と結びついている以上は、恒久的で普遍的である必要などはなく、そうした営みは権威とも結びついていると言います。そして科学研究は、自らの好奇心に駆られてというよりは、外部から委託されてなされることが多い専門性の高いものである、と定義されます。つまり、科学者共同体内部に閉じた研究ではなくて、その外側の社会との関わりにおいても研究活動が展開されていく、ということを意味しています。それは歴史的に見れば、科学とは別の系譜にあった技術が科学と融合して「科学技術」となったということ、研究と開発が一体になった「研究開発」がすすめられるようになったということです。そうであるならば、科学技術の研究は社会との関わりにおいて捉えられるべきであって、同時に研究者は自らの営みに関して社会に対する責任があることになります。20世紀には科学者の研究成果は、国家との関わりのみならず企業などとの関わりにおいても、すすめられていくようになっていきました。つまり、研究者共同体外部の行動主体の利害関係と不可分なかたちで研究活動が展開されていくようになった、ということです。そうした中で科学技術の影響力は、拡大し続けるとともにグローバリゼーションの進展にも拍車をかけてきました。その結果、知的にも、物質的にも、時間と空間が圧縮されて短期間に遠距離間で科学技術が共有されていくようになりました。
 そうなりますと、科学技術に対する学問的な認識も、科学者共同体内部に対する考察だけでは不十分となって、科学論は必然的に、科学技術と社会の関係に目を向けなければならなくなりました。そこに登場したのが、科学技術社会論であり、この第二のパラダイム転換は、社会の再帰化に対する科学論の応答として捉えることもできます。科学技術の影響力が増大して、もはや人為によっては完全な制御が不可能な危機をもたらすようになったことで、科学技術の研究に携わる人々が負うべき責任の質にも変化が生じました。それは、研究者の倫理に関する問いの変化でもありました。かつての研究者の倫理とは、研究者共同体における行動様式であって、研究活動や論文作成において守られるべき事柄を主に指していました。しかし研究者が社会に対する責任を負う必要が出てくるならば、研究者の倫理においても社会との関わり方、という点が重要な意味を持つようになります。
 こうした時代状況の変化の影響というのは、倫理学の領域にも当然現れました。それは同世代間の共時的意思決定だけではなく、異なる世代間の関係をも考慮した通時的意思決定も主題となった、ということです。共時的な意思決定の中心的概念は、自己決定権です。その中核にあるのは、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を典拠として述べられることの多い「他者危害の原則」というものです。これは、判断能力のある成人の場合、たとえ当人に不利益をもたらすような内容の決定でも、その決定を容認する、というものです。ところが遺伝子組み換え技術や科学物質の生態系への影響など、その影響が現在世代のみならず、未来世代にまで及ぶもの、あるいはその影響が現時点では不明な部分が多く、未来世代だけが被害を受ける可能性があるものといった共時的な倫理だけでは扱えない問題が出現してきました。かつて近代化によって、それまでの伝統的な共同体が近代社会へと再編成されて進歩史観が普及していた状況では、民主主義に基づく同世代間の関係が意思決定における重要な関心事項となっていました。しかし、社会の再帰化が進行して進歩史観の自明性が揺らいだとき、再び通時的な意思決定が重要な意味を持ちます。
 この変化は、科学研究における「安全」という概念の変化でもあります。科学者共同体の内部にのみ科学論の関心が集中していた時代には、科学における安全性とは、研究者共同体の研究活動で研究者が危機にさらされないことや、危険な状況に陥ることを回避するための手法などをめぐるものでした。それは科学だけでなく技術にも言えることであって、技術の開発や製品の生産がなされる場面で、それに携わる技術者の身体の安全やそれを実現するための工夫が課題でした。ところが科学と技術が一体となって科学技術が出現すると、安全は社会や未来世代との関わりにおいても問われることになり、誰にとっての安全なのか、ということが重要な意味を持ちます。
 共時的な観点で見れば、医療における「インタクト・サバイバル」を挙げることができます。治療の結果として完全な治癒を目指すことが最善であると医者はみなすとしても、治療の副作用によって患者の特定の機能が失われるという場合には、患者はその選択を望まないかもしれません。たとえ、完全な治癒には至らないとしても、現状の身体機能を維持できることのほうが当人にとっては望ましいと考える可能性があります。この場合、医者と患者のあいだで「安全」という言葉の示す内容が異なっているのであって、科学技術を行使する主体は、その行使の対象の安全を一義的には決めることはできません。すなわち複数の主体間での安全をめぐる意思決定では、パラドクスがもたらされうる、ということです。通時的な観点の問いとしては、世代間倫理の問題があります。未来世代に対してのみ影響が現れる行為の場合、現在世代にとっては十分に安全であるからといって、危害が及ぶ可能性のある未来世代の安全を無視して良いということにはなりません。しかし、現在世代にとってより安全で快適な環境を実現しようとすると、未来世代の安全が脅かされるというパラドクスが生じることもあります。通時的な意思決定は、安全という概念をどのように捉えるのか、という問いと不可分なわけです。
 社会の再帰化によって権威の解体が進行しつつある状況では、研究開発を行う側から、画一的な基準によってパターナリスティックに安全性をめぐる最適解を提示することは困難になっています。一方でどのような決定であっても認めるという極度な多元主義も問題であって、そうなりますとそれぞれの場面に応じてより望ましいと思われるものを暫定的に採用していかざるを得ません。その意味では意思決定のプロセスにおいて、当事者たちの自己批判的な認識力が求められる時代になった、と言えるかと思います。今や安定的な秩序の維持と再生産が可能であるという自明性は失われています。そこでは社会だけではなく、主体の再帰化も進行しています。それゆえ、安全という概念が意味するものは、〈safety〉だけでは不十分であり、〈security〉をも考慮の対象にいれた意志決定が重要となります。
 どのような治療を選択するか、という先ほどの問題は〈security〉をも含む安全の問題です。世代間倫理の問題も同様であって、しかも、たとえ現在世代には影響が出ないと考えられている場合であっても、人々は不安を抱えて生き続けているということも少なくありません。このような状況では、第一に「社会との関係」、つまり安全という概念によって考察されるべき範囲の拡張が問われます。第二に〈security〉をも考慮に入れること。すなわち、安全という概念の意味する範囲の拡張が重要となります。ただし〈safety〉を実現することと〈security〉の実現が一致するとは限らず、両者のあいだでもパラドクスが生じる可能性があります。一例を挙げますと、国家の安全保障や優生政策によって〈safety〉を高めようとすることが、かえって人々の〈security〉の低下をもたらして、結果として、社会はさらに不安定化するということもあり得るかと思います。
 以上の考察で明らかになったのは、科学論のパラダイム転換が生じた現代社会は、安全をめぐるパラドクスの時代である、ということです。このような時代においては、人々は自身が置かれた状況を的確に判断して行動することがこれまで以上に求められます。その意味で科学技術社会論の研究の現状が、自己批判的な認識力の獲得という課題と十分に結びついていないことは問題であると考えます。昨年発表させて頂きましたように、地域の制度、技術、価値、そしてそれらの関係性を当事者たちが自己批判的に分析可能な意思決定の参照枠として機能しうるようなものへと、科学技術社会論はさらに展開されなければなりません。そのためには参照枠を提示する研究者自身も、現状の理論的枠組みを自己批判的に認識して組み替えていく実践者とならなければならないのです。以上です。
宮永:有難うございました。多様な切り口が、提示されてきました。また多様な概念、それから多様な定義が提出されましたが、それらについては休憩後に、質疑応答しながら整理していきたいと思います。ではお願いします。
小井:はい、『スピッツの透明感』というテーマでお話したいと思います。スピッツは1987年に結成されて今も活動中のロックバンドです。想像力豊かな独特の詞の世界と美しいメロディを持ち、多くのファンを魅きつけてやまない作品を産み出してきました。ここではその作品の響きが一体どういう意味を持ち、どういう意義を持っているのか、ということを考えていきたいと思います。まだ形成段階ですので、私自身も分からないところが多々あるのですが、今回はこういう構想を持っているということをお話しして、次の人にバトンタッチしたいと思います。
佐藤:すいません。資料をまだ探しきれない人がいるんですけど。
小井:はい、すみません。島添さんの先ほどの資料の裏側にあります、、、はい、島添さんと井上さんのものが書かれた資料の裏側に載っています。もし興味があったらご覧下さい。
 それで、その作品にただよう気配を私自身はすごく独特である、というふうに考えます。この論考では、その響きというのが一体何かということを考えていきたいと思います。私はスピッツの作品の特徴を「水のエロス」というかたちで捉えたいと思います。それは新しい時代の生命力の表現として捉え、解放の時代のあとの保守化の流れに対応する最初の先触れというかたちで捉えてみたいというふうに思っています。例えば、スピッツの作品がこれまでどういうふうに受けとめられてきたかというと、「懐かしさ」とか「浮遊感」あるいは「不思議さ」というようなかたちでさまざまな論者によって受けとめられてきました。中でも特徴的なものとして、山の手緑さんとか矢部史郎さんがスピッツの作品について発言をしています。この中で、彼らによれば、「衰弱している」とか「薄い」「脱力系」、「生命力を感じさせない」にも関わらず、僕たちはそれに共感してしまうと言っています。その共感の理由については、ここでは男性性(マスキュリニティ)に疲れてしまった後に出てきたもう一つの男性性に魅かれているからではないかと述べています。彼らは、スピッツの作品から受ける印象を、ネガティブなかたちで捉えたように思うのですが、ここではネガティブなかたちではなく、ポジティブなかたちでこの生命性を捉え直してみたいと思っています。私は、この印象の希薄な透明な感じには、私たち自身が迎えた新しい時代の生命力というのが、顔を覗かせているように思えます。そういうさらさらと流れる水のような印象をもつ彼らの作品の特徴を「水のエロス」というかたちで捉えておきます。それは、「生への執着を欠いた、生へのエロス」というかたちで定義づけておきたいと思います。
 ここで、対比して考えてみると、日本で一番大きな意味を持っているのは、サザンオールスターズだと思います。サザンがスピッツが出てくる前に果たした意義がどういうものであったかというと、例えば村上龍さんはサザンについてエッセーを書いていて、その中で彼は「喉が渇いた、ビールを飲む、うまい!」「すてきなワンピース、買った、うれしい!」、そういうシンプルな気持ちを率直に表現することの中にポップスの本質がある、と言っています。日本においてこういったことを初めて表現できるロックバンドがサザンだったというふうに村上龍氏は言っています。そういう作品の響きは、スピッツの作品のような透明な感じと違い、魂をドライブさせるようなうきうきさせるような感じがあります。村上氏はポップスの本質をサザンを通して論じましたが、スピッツはその村上氏が定義づけたようなポップス以後のポップスとしてあると思います。違いをはっきりさせるためにも、サザンのような音楽的特徴を持つものには「火のエロス」、スピッツのような音楽的特徴を持つものには「水のエロス」として特徴づけて、そこで時代的な意義を確認していきたいと思っています。
 最後にロック音楽というのは解放の時代の音楽だったと思います。解放の時代の音楽を象徴するものとしてサザンがあり、その後にくる保守化の時代の先触れの音楽としてスピッツを捉えたいということで、僕の発表はこれで終わります。
宮永:有難うございました。去年も小井君の発表はメインテーマとどう結びつくのか分からないという人が多かったのですが、今年は是非質疑応答の中で結びつけて頂きたいと思います。
村中:村中です。こんにちは。私は某電話会社でインターネット系のシステムの技術営業
をやっております。いわゆるサラリーマンなのですが、ご縁がありまして、この場で発表
させて頂くことになりました。皆さんの熱のこもった発表が長く続きましたので、飛行機
ではないですけど、エコノミー症候群になってしまうんじゃないかとちょっと心配ですの
で、首をまわしたり、肩をゆすったり、少しリラックスしてもらえますか? 本当は自分
がしたかったのですけれど(笑)。
 私の発表は、『会社の中のニート的存在』ということで、お手元にペーパーがあるのですが、勘違いして今日のためにうっかり十六ページのものを作ってしまい、その内の一ページと二ページを宮永先生のご配慮でお配りさせて頂いたものです。そういう事情ですので、ペーパーは全体の要約でもなんでもなくてさわりにすぎませんので、あまり参考にならないかもしれません。タイトルが『会社の中のニート的存在』と分かるためだけに手元にあるとお考え下さい。
 ニートとは最近雑誌とか新聞とかテレビとかでも取り上げられているので、皆さん耳に
したこともあるかと思うのですが、「Not in Education, Employment or Training」の頭文字、notのN、educationのE、employmentのE、trainingのTでNEETという頭文字の造語です。もともとはイギリス政府の調査機関から出ているのですが、日本では御存じの通り、東京大学で労働経済学を教えていらっしゃる玄田先生が『ニート』という本を出していまして、それによって少しブームのようになって今いろんなメディアで取り上げられています。玄田先生の定義では、「18歳以上35歳未満で」「進学準備も求職活動もしておらず、ケガや病気で療養・休養中のわけでもなく「特になにもしていない」と答えた人々」のことを指します。よく似た概念でフリーターというのがあるのですが、フリーターというのはとりあえずアルバイトなどで仕事をしています。ニートというのは、文字どおり学校にも行っていなくて仕事もしていない、何もしていない人たちです。社会的引きこもりとも違いまして、どこが違うかというと、病気でもなくて、身体も健康でやる気がある人もない人もいますが、何もしていない人がニートだと。社会的ひきこもりの人も含んでいますけれども、ひきこもりは昔からいた。ニートは最近になって急激に増えています。玄田先生の本では、このニートというものを、将来年金を支えるべき若者が働かないのはけしからんというだけの単調な論調になることを危ぶんでいます。どういうことかというと、何もしていないということの裏返しには何かになりなさいという社会のプレッシャーがあって、それに耐えきれなくなることはニートと呼ばれる人たちだけじゃなくて、我々にもあるのではないか。サラリーマンになった人たちだって、サラリーマンにしかなれなくてサラリーマンになった人はたくさんいるのではないか。つまり、何もしていないぶらぶらしている若者たちを特殊だと決めつけて、けしからんというふうに処理しないで、自分たちにもある問題としてこの問題を引き受けて、この問題を解決していこうじゃないかという問題提起がなされています。
 ニートがどのくらいいるかというと、労働白書で2004年度で52万人という統計がでています。昨年から4万人増しということで、爆発的に増えています。メディアが取り上げているということは、それだけ現象として周りに何もしていない人が目立ってきているということと、先ほど言った年金の問題、異質な若者に対する問題という世間の興味があるからです。
 会社を見ていると新しく入ってきた社員の中にも何もしていない人がいたりします。私もサラリーマンをして十何年経っているので、毎年新入社員をいろいろと見てきたわけですが、最近、新入社員の悩みや新人の仕事の出来なさの質が変わってきているように思います。昔は、配属されてきた新人には、徒弟制のように先輩が自分のやり方を教え込む、そしてその先輩が教え込むやり方も自分が先輩に教え込まれたことだったわけで、このようなことがずっと続いてきました。徒弟制ですから、新入社員の悩みというのは、大学で優等生だったのに仕事に行ったら馬鹿だ阿呆だと言われるので自信喪失してしまうとか、あるいは先輩との人間関係で、頭ごなしにできない奴だなと言われるのでむかついた、とかそういうものが多かった。5、6年前までの新入社員の悩みはほとんどそうだったような気がします。ところが最近違うのですね。既に会社では、こういった徒弟制はほとんど崩壊しました。能力制社会ということになって、中途採用の人が多く入ってくる、そして新入社員といっても大学の教育で一般教養とかではなく、コンピューターだったら情報科学を学んでいる学生とか、専門学校的なある種社会で即通じるような技術を持っている人たちが多く入ってきます。そんな中で悩んでいる人というのはどういう人が多いかというと、私の事例では典型的なパターンとして一つ上げたのは、こういう能力制社会になっても相変わらず、可能性で採られている学生がいるのですね。徒弟制社会のときは、こいつ何かやってくれそうだという学生を採るので、実績ははないのです。だけど大物になるかもしれない、というのを先輩たちで寄ってたかって大物にしていくわけですけども、今の時代大物になるかもしれないというだけの人が職場に入ってきても邪魔なだけなんですね。能力制で、賃金査定の中にどれだけ新人を育てたかが考慮されることはほとんどない。で、教育したって別に給料上がるわけじゃなければ、自分の仕事をがんがんやるのに、大物風な奴がいると目障りでしょうがなくなる。可能性だけの存在は邪魔なんです。そういう新人が、会社で何もしないことを悩んでいる。一方、同い年であっても、派遣社員、男ですと派遣という言葉はあまり使いませんが、アライアンスで入って来る人たちに対しては、やっぱり正社員ですから特権的ではあります。ぼうっとしてて大物風な派遣社員はすぐ首になる、というか契約が解除されます。ところが、正社員の大物くんは、その横でぼうっとしているんです。ただ、本人もぼうっとしたくてしているわけじゃないので悩むわけです。こういう人たちというのが、ニート的な存在として会社の中にいます。
 このとき、前を振り返って徒弟制だったときとの対比で彼らを見てみたいと思うのですが、こういうぼうっとしている人たちはちょっと前までだったら、個人主義者だといって糾弾されていたであろう人たちによく似ているのですね。今でこそ個人主義、集団主義というのは言われなくなりましたけれども、ほんの2,3年くらい前まで日本は集団主義で、アメリカは個人主義でと言われていました。日本は集団主義なのでグローバル化に対応できていない、だから個人主義化しなくてはいけないとさかんに言われていたわけです。では、この個人主義、集団主義というのは何だろうと。これを考えたのが、皆さんにも郵送されていたかと思うのですが、去年の私の論文です。間人というのを考えた浜口恵俊さんが、当時の最新作の『「間の文化」と「独の文化」』の中で個人主義者と集団主義者についての定義を出されている。ただ、それを読むと、個人主義者というのが行動のパターンなのか、アイデンティティの問題なのか、倫理の問題なのか、思いが強すぎるのか、それがいっしょくたになっています。そこで、これをアイデンティティの問題としての個人主義と個人主義的な行動とに私の方で分けて、マトリックスにして書いてみたのです。そうすると、アイデンティティ的には個人主義者でありながら、集団的な行動を取る人もいるし、アイデンティティ的には集団主義者、つまり自己のアイデンティティが集団のそれに一致した状態でないと精神的な安定が得られない人ですが、こういう集団主義者が個人主義的な行動をとることもあるということが非常にはっきり捉えられます。集団主義的であったり個人主義的であったりといった行動は、利己的な選択ですので、時と場合によって同じ個人でもどっちもとれるということがあります。つまり、個人主義と集団主義はアイデンティティの問題であって行動から見いだせるものではない、ということです。このことについて書きました。ところが、私のその論文のあとに話題になったこのニートとか、会社のニート的存在というのは、よく見てみると個人主義でもなくて、集団主義でもなくて、そもそもどっちになろうかという前に頭の中で行動をやめてしまっている人たちなのですね。
 どうしてそういう存在がでてきたかというと、先ほどの話ですけれども、これまでは皆と一緒に協調してやっていきましょうという集団主義を規範とする社会だった日本が、それで行き詰まってしまったという認識になった。そこで、急に能力社会が指向されはじめる。能力社会は個人主義がいいということをスケール、規範にしている社会ですから、いきなり集団主義を規範としてきた社会を個人主義を規範とする社会に転換しようという、これが構造改革の中身だと思うのですが、そうなってしまったので、ちょうど人格を形成する時期の若者が個人主義者にも集団主義者にもなれない状態になってしまった。ところが、周りの先輩や大人たちは自分のことで精一杯なので、構ってもらえない。そういう個人主義者と集団主義者の手前で立ち往生している存在というのが、ニートだったり会社のニート的存在だったりするのだと思います。
 当然こういう人たちがいっぱいいると、経済合理的に考えれば非常にもったいない。サラリーマンとしては、何もしていない人が会社にいると困るわけです。私もそういう人たちが解消してくれないと、自分の給料の足を引っ張られていると思います。では、どうすればいいかというとやっぱり規範社会をやめることだと思います。集団主義がいいとか個人主義がいいとかある特定のパターンを規範としてそれに合わせようと頑張るんじゃなくて、個人主義的な行動をとる集団主義者も、集団主義的な行動をとる個人主義者も、もちろん個人主義的な行動をとる個人主義者も、誰だっていいじゃないかと、どういうパターンだっていいじゃないかと、ありのままどういうパターンの人たちの利益も最大化するような社会に変えていく。これが構造改革の次のステップになるべきじゃないかという問題提起、これが私の発表です。詳しくは次のどこかの分科会でやっていければなと思っています。
宮永:有難うございます。武者小路先生の分科会ですよね。
村中:あいにくその日は仕事が入っておりまして…。
宮永:じゃ他の分科会ですね。分かりました。では、お願いします。この後で休憩に致します。
佐藤:佐藤と申します。よろしくお願いします。ファイルに挟みこんだ一番最後のA3版の資料をご参照ください。題目は『グローバル社会における日本語表現?作文教育の再検討』というものです。再検討と書いてあるのですが、再検討せずに言いっぱなしで終わっているところがあります。しかし、これまでの議論と重なる部分がありますので、是非お聞き頂ければと思います。
 報告の趣旨を申しあげます。「起承転結」を基本とした初等教育における日本語の文章形式は、現実をストーリーとして把握するのに適しています。長年にわたり、これが文章力習得の雛形とされてきました。我々の経験してきたことですが、小、中、高のいわゆる文章を書かせる訓練や科目など、作文、感想文コンクールを含めた小中高の作文教育のことを思い浮かべて頂ければ宜しいかと思います。しかしこの文章形式は、現実に対峙し問題を解決していく力を生み出すとは言えません。なぜなら、この形式には現実を客体化し対象化する契機が薄く、それゆえ現実を分析する作業へと結びつきにくいからです。1998年に出た森田良行さんが書いている『日本人の発想、日本語の表現』というテキストには、そうした指摘が載っています。また古くは、外山滋比古や別宮貞徳など日本語の表現についていろいろ研究なさった方々が、日本語のユニークな特徴を指摘しています。そこでは、日本語が成りゆきを中心に記述する言語であり、自分なら自分、状況なら状況を外化、外在化してそれを対象的に批判してそこから何かを産み出していくという記述言語としての特徴を持ち合わせてはいないのではないか、という指摘も行っております。こうした議論はこれまでに何度も聞いている、とお思いの方がいるかもしれません。ただ、1998年刊行の新書版でなおこうした指摘が出ているということは、現状が今だにそうであるということの裏返しであるというふうに考えてよいと思います。
 一般的には、高等教育(高校・大学)においてようやく、問いと答えをセットとする「序論・本論・結論」という文章形式を学ぶことになるかと思います。しかし、この形式とその基盤となる発想が、実際にどのように現実対応型の行動に結びついていくか。つまり文章として何かを表現することとが、実際の我々の生活どのように地続きであるかという点は、明らかにされません。つまり、日常生活に根をおろした「序論・本論・結論」という文章形式を学ぶ機会が少ないのです。現在の多くの学生らがおかれている環境も、多かれ少なかれそんなところです。その結果、先ほどの村中さんのお話にも関係してきますが、社会人になってから実務上であらためて「分かりやすい説明」や「報告書の書き方」「現状分析のレポート作成法」などを習得しなければならなくなります。また何を今さら、と思われるかもしれません。しかし、この藤沢さんが2002年に出した『「分かりやすい説明」の技術』は、出版されてから2年ほど経っているのですが爆発的に売れていまして、今どの書店にいきましても、『分かりやすいプレゼンテーションの技術』や、『分かりやすい話し方の技術』などが、これまでにない勢いで出てきています。
 本論に戻りますけれども、実際にどのように現実対応型の行動に、この文章形式、序論・本論・結論が結びついていくかということを学習する教育の機会がないものですから、社会に出てからこういったことを慌てて学び直さなければいけない。先ほどの村中さんの話では、そういう学びに足るような環境さえなくなってしまっているというご指摘がありました。これでは遅すぎる、と言えます。統合と反統合のベクトルがせめぎ合うグローバル化の時代の中では、これは宮永先生がご著書の中であげているグローバル化の定義ですけれども、そういった状況の中では自分に関わる問題を掬い上げて分析し状況に対応できなければ、アイデンティティ・クライシスにならざるをえない。もちろんその際、種々のセラピーも用意されていますが、このクライシスの状況を対象化し、いったんは突き放して叙述する視点と文章作法が、いまだからこそ求められているのです。またこうした対応力を養うには、より早い時期からの訓練が必要です。
 実際に我々が訓練してきたのは、起承転結という文章形式です。資料の右に「糸屋の娘」の話を載せてあります。最後の4「結」の部分は、「 糸屋の娘は 目で殺す」というオチです。これを言いたいがために、1、2とやって3で視点を転換するという文章構成になっています。この文章構成は、3の「転」の部分に状況を転じる希望があるではないかと考えることもできます。しかし、「転の」部分は「結」を導きだすための視点の転換でありまして、何か問題を発見してそれを解決して新たな自分なら自分、状況なら状況を切り開いていくという構成にはなりにくいのです。つまりここには、問題発見と解決の論理といったものは特に必要ではなく、視点の転換があればいい、面白いオチがあればいいと評価される文章構成になっています。
 資料のAは、私が小学校二年生のときに書いた作文です。これも読みません。皆さんは、こんな疑問を感じたことはないでしょうか。1、2は分かるのですが、3のところでなぜ起承転結の「転」を作らなければいけないのかと。転を探すことに、作文を書く上で非常に大きなエネルギーを使ったという記憶が僕自身はあります。その、転を探しださなければならないという状況自体が、非常に抑圧的だと言えます。紹介した作文例を作りまして、4でやれやれということで、よく書けたなという評価がもらえるわけです。ただし、新しい問題を発見して切り開いていく力を、この文章形式の習得によって得られたかというとそうではない。大学に入ってからようやく、課題を発見してそれから分析、結論を導いていくという論文・レポートの作業にささやかながら触れることができ、そこではじめて、「あの作文の起承転結の訓練って、いったい何だったのだろう」と思うのがせいぜいのところです。
 資料Bは、ある看護専門学校の「レポート執筆要項」に書いてあったものです。読ませて頂きます。「レポートの価値はその内容にあることが言うまでもありません。書かれた内容を人に正確に伝達するためには、分かりやすい形式で記述することが大切です。この要項は、皆さんの勉学の便宜を図るための一つの方法として作成されたものです」と書いてあります。続いて、「レポートの構成は次の通りである」とあります。「表紙 1枚」、これはまだいいです。問題は次です。「本文 「起・承・転・結」または「起・承・転・叙・結」の論展開に従って書き進める」と。これは、看護の専門教育のレポート執筆要項ですが、この形式を習得して現場に出ていった看護士が患者の症状を把握する際、起承転結の「転」でオチをつけるレポートを心がけるとしたら、どうでしょうか。危篤状態を「転」で落とされたら、などと考えると怖くなります。
 伝統的な形式だとされる「起承転結」の良い部分は残しつつ、同時に問題発見と解決のための文章形式とその訓練を、初等教育から見直していく必要があると考えます。これはひとつの提言であると同時に、私自身も実践していこうと思うことです。報告は以上です。
宮永:有難うございます。いろいろと伺いたいこともありますけれども、このまま休憩に入ります。それで4時5分過ぎにはもう一度席に着いていて下さい。お願い致します。お茶とお菓子がでております。
===== 休憩 =====





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