個の可能性研究会
研究会 (2005年1月16日実施) の全記録
 





宮永:   本当に天候の悪い中を、こんなにお集まりいただきまして感激です。今日は発表者の方にできるだけ話して頂いて、その他の方には鋭い突っ込みを期待しております。私は交通整理をしながら時々ズバリと言おうかな、と思ってる訳ですけれども、私がしゃべると、話が流れなくなる可能性がありますので、皆さんにお話しいただきたいと思います。
今日のテーマを簡単に申し上げますと、グローバル社会の中の新しい伝統です。グローバル社会というのは何かと言いますと、『グローバル化とアイデンティティ』に長々と書きましたように、結局は、欧米が仕掛人になっておりまして、世界基準をもとにしてですね、世界を構造化しよう、ということです。その時に、どんなふうに、何がその力になっているかというと、経済的な統合です。で、経済には必ず経済文化、というものが伴いますので、その世界基準を中心とした世界文化、というものが、欧米から、世界の他の、非西洋世界ですね、そちらの方に、まあ、結局強制されていく訳です。受け入れれば、富むし、反発すれば、貧しくなる、というふうに、賞罰がはっきりしている訳ですね。で、それに対して、色々なかたちで、まあ、アンチテーゼと言ってしまえば簡単なんですけれども、要するに、反発が出ている。で、反発というのはもう色々な反発がありまして、要するに何が起きているかわからないから反発するっていうのもありますけれども(笑)、ここで、注目したいと思っているのは、何がやっているのかわからないじゃなくて、何が起きているか見極めた上で、ローカルなものを、グローバルな中に活かしていくことで、新しい道があるのではないか、ということです。これは日本が1970年代、80年代にグローカルという形で、まあ、やったわけですよね。で、それは成功した面も失敗した面もあると思うんですけれども、はっきりしていることは、西洋から見えない部分で、日本は、成功した、ということだと思います。世界基準をもとにして、世界経済文化を作り上げている西洋は、それ以外の可能性というものを、見ていないと思います。それから見えていないと思います。それから見ている場合も誤差の範囲内に入ってしまうと思うんですね。だから、軍事力で一掃してしまえばそれで世界がきれいになるんじゃないかっていうような(笑)発想も出てくると思うんですよね。こちらは、そうじゃなくてですね、いろんな人たちが居てですね、いろんな反発の仕方をしている。で、その中から、非常に建設的で、しかも、その世界の、世界基準の中できちんと生き延びていけるものがある。それから、もし、もしというよりも実は可能にしたい訳ですけれども、こちらから、ローカルな文化をもとにした世界基準、というものを提出したい、というふうに考えている訳ですね。で、西洋はそういうような試みを、知の力として、ずうっと歴史上やっている訳ですから、私たちももう、そろそろそこから学んでも良いんじゃないか。2回は、学んだ。2回ともどうも失敗したみたいですけれど(笑)、失敗したように見えますけれども、少なくとも、その近代の日本史の中で、2回は、あそこまで行った訳ですから、3度目は私はありだと思うし、その先もいくらでもあると思うんです。でもあの、とにかく試行錯誤ですので、右から左まで。
で、関本氏が言っているように、ほんとに自分で作ったナショナリズムもあるけれども、隣から借りてくる、コピーキャットみたいな、海賊版ナショナリズムみたいのもあって、新しい歴史の会とか、ああいうものも結局入ってくる訳ですよね。だからそれに対して、批判的な視点も持たなければ、きちんとした視点も持たなければ、なんか要するにぐちゃぐちゃして、自滅してしまう可能性は非常に高い訳です。それにくらべると、世界基準ていうのはもっともっと、なんて言うんでしょうね、原理もあるし、実際原理になっているし、普遍性があり、力強い訳です。だから、アンチテーゼだから良いとか何とか言っていると、いろんなものに巻き込まれてぐちゃぐちゃになって、ただ心情的にこうすればいいんだ、もう、やむにやまれずこうやる意外にない、というような決断の方に行きかねないですよね。ですからそれに対する批判力、というものを強く持って欲しい訳です。
今日やって頂くのは、グローバルなレベルで、まず、萩原君ですね、再帰的近代化という形で、グローバル社会と、それからローカルな社会の接点というか、せめぎ合いと言うか、何が出てくるかという事例をまずやって頂きたい訳ですね。で、その次に、森さんに、ファンダメンタリズム、政治的な面を発表して頂きたいと思います。
で、そのあとでですね、いつも興味を持っているんですが、それよりももっと日常的な場面で、融合というものが可能なのか。今言ったようなことは、世界的な視野で見ると、かっこいいですけれども、日常的な場面でそれが可能になっていなければ、それはできないと思うんですよね。だから、日常的な場面でできるということは、これから新しいカルチャーになるということですから、まあ、ちょっとかっこよく言えばですね、良心。良い心ですけど、そういうものを、日本から発信できるんだろうか?という、そういうチャレンジにまでなってくると思います。だから、言葉で言うのは簡単ですけれども、家庭生活の中でそういうことが可能なんだろうか、つまり、親子のせめぎ合いとか、夫婦とか男女関係とか、そういうものの中から、新しい、グローバルにも通用するような文化を、生み出すことができるのか、という非常に野心的な試みのつもりです。で、ここに集まって下さった方の中から、その試みに賛同して下さる方が、最後に出してくださって、職場や家庭で、どうしたらいいのか、どんなふうに振る舞っていくことで、見えてくるのかについての、事例を提出してくださいます。で、見えてきたって振る舞えないって言う所が、一番難しいと思うんですけれども、その事例にかこつけて、いつも考えている提案を、したいと思います。倫理的と言うよりは、認識論的な提案をしたいと思います。ただそれが、結果的に倫理的な決断に、個人的なレベルで結びついてくる。つまり、何が見えるか見えないかって言うことは、いつも言ってることですけれども、判断の基準になる訳ですから、それが善悪の判断の一番もとにある訳です。見えないものは判断できない訳です。ですから、やはり、見る、見えるということが重要だと思うんです。自分が何を見ているのかという、そういう所から、今日はグローバル化を論じていきたいと思います。そうしますと、必然的にアイデンティティという問題になってくる訳ですよね。で、何度も言いますけれども、言葉でかっこよく処理するのではなくて、むしろ、格好よくなくても、実践的なレベルで考えていきたい、と思います。では、最初に萩原君にお願いいたします。この前の発表のあとに、また発展があったと伺ってます。

萩原: それでは始めさせていただきます。2004年ワークショップでの発表で示しましたように、1990年代に、科学論の領域の一つとして、STS(科学技術社会論)が登場しました。それまでの科学論というのは、科学の歴史や、研究者共同体の構造などに着目したものが多かったわけですが、ここでは研究者共同体内部の問題だけではなくて、社会との関わりにおいて、科学技術をめぐる諸問題が考察されるようになりました。その背景としては、前回も申し上げましたように、研究開発が、研究機関や国家ばかりではなくて、企業など社会の様々な行動主体との関わりにおいて進められるようになったということ、それから、科学技術の影響力が極度に増大して、研究者共同体内部の問題だけでは片付けられない場面がいろいろ増えたことがあげられます。しかし、STSの観点から主に考察されてきたのは、制度や技術のあり方をめぐる問いであって、それらだけでは十分であるとは言い難いと考えています。第一に、意思決定の場面では、当事者の価値の問題も重要であって、制度、技術、価値という三つの側面と、それらの関係性において当該地域の置かれている状況や、近代化の中で伝統が変容してきた過程を捉える必要があります。これが、2003年のワークショップで言及した「ローカルなSTS」の構想です。第二に、そのようにして分析された状況を、どのような方向へと変えていくべきなのか、という問題があります。そのための参照枠として機能する、環境倫理学の観点が有効であると考えます。それは、パターナリスティックに一義的な解を示すのではなくて、各々の場面の個別性を重視しながら、環境持続性や世代間倫理など、意思決定において考慮されるべき理念として、つまり、メタレベルの普遍性として機能するものです。それから第三に、参照枠を用いることで、より望ましい意思決定を実現するには、決定に関与する主体のあり方が問題になります。自身が直面している状況を適切に捉えて、従来の問題点と、今後の方向性を検討するには、自己批判的な認識力が求められます。そういった認識が可能となる条件と、意思決定の場面で倫理が機能する条件を問うことが課題となるのであって、ここにおいて、精神分析的観点が重要な意味を持ちます。以上の点の具体例として、2003年のワークショップで取り上げた、ミクロネシア・ヤップ州の近代化に再び言及したいと思います。ヤップの急速な近代化は、所有に対する人々の認識に変化をもたらしました。例えば、島民が島の外にある学校へ行く場合に、かつては村中の人々が働いて、それを支援したといいます。しかし近年は、親が自分で払わなければいけないことが多くなって、貯金のことで心配する人々が増えてきました。そのことと表裏一体に、既存の秩序を、特に若い人々が守らなくなってきています。第一に、共同性の希薄化ということが挙げられます。従来は、子どもたちは夜にメンズハウスに集まったり、親戚の家を訪れたりしながら、年長者から様々な伝統的な技術や知恵を授かっていたのですが、電気が導入されるようになってからは、自宅でビデオを観ている者が増えた、という報告もあります。第二に、資源の乱獲が多発しています。以前は、各々が必要なだけ漁をすることが原則だったのですが、近年はモーターボートを所有する人々が増えたこともあって、容易に大量の漁獲が可能になり、そればかりか、必要以上にとっていくという傾向が見られます。連続した大量の漁獲を禁じるタブーが衰退したということも、そうした傾向に拍車をかけていると考えられます。秩序の逸脱は、一般の人々だけでなくチーフも例外ではなくて、従来チーフに期待されていたはずの、獲得物の再分配という行動がなされなくなる傾向にあって、それに伴って、チーフによる独占に対する人々の批判も強まっているといいます。これらの例は、単に「昔は良かった」ということではなくて、実際にそのような状況変化が生じたということです。このような場面で人々が直面しているのは、<safety>と<security>という二つの意味での安全の危機であると捉えることができます。<safety>とは、主に制度や技術に関する安全性であって、村の秩序の揺らぎや、技術の質の変化に伴う環境危機などが、その例にあたります。<security>というのは、主に村の人々の精神的な面での安全性であって、秩序の不安定化や環境危機は、人々に大きな不安をもたらしています。この二つの安全の危機を相互に関連させながら、意思決定の方向性を考えていくことが重要です。まず、<safety>に重点を置いて、ヤップの状況をローカルなSTSの枠組みで分析してみますと、次のように言えるかと思います。共同性やチーフの権威を中心として成立していた従来の制度、それと不可分に機能してきた資源管理システム、それらの根底に存在していた伝統的な価値は、近代化の中で勢力を弱めて周辺化されました。それに代わって近代的な要素が強まって、中心的な位置を占めるようになっていきました。つまり、グローバリゼーションがもたらしたヤップの近代化とは、伝統の完全な消滅でもなければ、全面的な近代化でもないのです。それは、近代的な要素が当該地域の伝統と相互に浸透しつつ、前者が勢力を強める中で形成された、新たな伝統のことです。次に、同じ状況を<security>との関連で、精神分析の観点から言及します。グローバリゼーションは、従来人々の自明な日常を形成してきた、伝統や自然の危機をもたらしました。それは、「想像的なもの」が反省の対象として意識化されたということです。このことは、主体が象徴的秩序へ向かうことを支えている信頼の揺らぎでもあって、こうした意味空間の不安定化は、アイデンティティ・クライシスを多くの人々に引き起こします。これらの要素は、安定した主体の維持に不可欠な「幻想」ですが、従来は近代化が現状ほど急速には進行しなかったので、徐々に新たな要素を取り入れていくことで、状況に適応していくことが可能でした。この対応は、精神分析で「移行対象」と呼ばれるものであって、ヤップでは、「独自の文化と外来の文化」という二分法がそれに当たると考えます。新しい要素は、まず外来の文化として導入されて、人々が慣れて疎遠なものと感じなくなるにつれて、自身の文化に属するものとして捉えられるようになります。キリスト教は、その一例です。ヤップにおいては、特に信託統治政府による政治の場面で、伝統的な首長制の領域と新しい民主制の領域とを区別して、前者を「ヤップのやり方」、後者を「外国のやり方」と呼んで区別してきた習慣もあります。ところが、近年のグローバリゼーションの波は、移行対象が機能する以上の速度で、新たな要素の導入や急激な発展をもたらしています。移行対象は、新たな伝統への移行が完了するとともに消えていく、「消滅する媒介者」です。あたかもそれなしに新たな伝統が成立したかのように、あるいは、古い伝統と新しい伝統が連続的であるかのように装うことで、根本的なアイデンティティ・クライシスが回避されることになります。ヤップの場合には、古い伝統から新しい伝統への移行の完了とともに、それまで外来の文化として定義されていた要素は、ヤップ独自の文化の一要素として認知されて、二分法に基づく従来の区分は消滅します。急速な近代化においては、このような過程を経て伝統を再構築する十分な時間を確保することは困難であって、現状の危機に対して即座に対応できる主体の自己批判的な認識力の獲得が重要な課題となります。その際に、ローカルな観点からのSTSや環境倫理学による分析を参照することは、自分たちが置かれている状況と今後の方向付けの検討を進めていく手がかりとなり得ると思います。アイデンティティの問題ばかりでなく、具体的な制度や技術の面での対応も不可欠なので、精神分析的観点だけではやはり十分とは言えません。ただし、参照枠が存在したとしても、それを有効に活用できるかどうかが問題なのであって、従来のSTSはこの点を不問にしてきたと言わざるを得ません。ヤップの人々の対応を見てみると、それまで電気を導入していなかった島の少年は、電化によって、自分たちの伝統的な技術が失われる危険性を指摘しました。彼は、電気やコンピューターの便利さについて、他の島での学校生活やインターネットを使った環境教育プログラムに関わることを通じて知りながら、自分たちの日常生活の場では電気を導入しないことを望みました。近代化への対応が次々に求められる中で、移行対象が機能しにくくなっているので、危機をもたらす要素が流入してきた場合の適切な対処方法を見出せないならば、その一方的な拒絶が選択されることになるかもしれません。こうした選択がなされる場合に、自らが依拠する伝統というのは、安定的であり続けるものと見なされていることが多いようです。ところが、その安定的なはずの伝統が実際には危機に直面しているのであって、この矛盾が主体の危機を深刻化させていると考えられます。幻想が自明でなくなる場面では、その失墜が経験されるのであって、精神分析ではこれを「去勢」と呼びます。ヤップの人々がここで直面するであろう「現実的なもの」は、伝統的な生活を脅かす電気などではありません。ヤップの場合には、近代化に伴って環境破壊が危機的なものとなるという認識自体が、アイデンティティ・クライシスの要因の一つとなっていることは確かです。というのも、それは安定的な主体の維持を可能にしてきた周囲の自明な環境の危機であって、その危機を日常生活の一部に組み込んでしまうことを意味するからです。しかし、この危機に不安を覚える主体が受容できないのは、近代化された新たな伝統がすでに形成されつつあること、そして、当人もその一部に組み込まれてしまっていることにほかなりません。つまり、「現実的なもの」は、安定した秩序の外部から侵入してくる要素というよりは、日常の只中に存在するにもかかわらず、認識することが回避され続ける側面です。外部から到来する脅威が、現実界のトラウマ的要素であるという認識自体が、むしろ「現実的なもの」を徹底的に回避する装置として機能してしまっているのです。去勢の受容は、これまで意識化されることなく主体を支えてきた幻想を暴いて解体するだけではなくて、その機能を再度確認して受容することをも意味します。つまり、去勢の受容によって見出されるものは、固定された伝統への回帰や全面的な保守、あるいはその全面的な否定ではありません。アイデンティティ・クライシスを契機として、従来は自明だったものが意識化されることで、自らを支えてきたものを反省的に認識して、主体と社会の再配置がなされます。これこそが、自己批判的な再帰性にほかなりません。このようにして再構築される安全な生活環境は、近年の日本政府が積極的に作り出していると思われる「安全・安心ブーム」と呼ばれるものとは、正反対のものです。そうしたブームに見られるような言説において目指されているのは、去勢を回避した社会システムの構築であって、そこには自己批判的な契機が欠如しています。ここで問題になっているのは、現状を維持したまま問題解決を図るという「安全・安心ブーム」路線か、それらに対抗する反権力という路線を掲げるか、という二者択一の図式には収まらない事態です。権力に対抗する反権力という位置づけにおいても、そのような自身のあり方に対する自己批判的な観点が存在しないことも多く、それは結果として、批判の対象との相補的な対立関係そのものによって生み出される現状維持路線を支えるものとして機能してしまうことが少なくありません。そのような相補的な関係における否定の身振りでは、制度や技術、アイデンティティをめぐる今日の諸問題には十分に対応できないと思います。その意味で、自己批判的な再帰性をめぐる問いと不可分な形で、STSをはじめとする諸領域の研究のあり方を再編成することが、現状の危機に対応するための緊急課題であると考えます。以上です。
宮永: ありがとうございます。言葉、字句についてですね、確認的な質問を先にしていただきます。いかがでしょう。
島添: 不勉強なので教えていただきたいのですが、ご発表にあります「移行対象」 は誰が使っているものでしょうか。
萩原: ウィニコットがよく使っているのですが、今回は皆さんに理解を深めていただくために、この議論の言葉の使い方、あるいは方向性については、『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』の、樫村先生の論文にある程度沿って、意識的に言葉を使ってみました。もし不明な点がありましたら、それを読んでいただくと理解も深まると思います。
宮永: でも、萩原君自身の言葉で、一言で言ったら?その、移行対象を。
萩原: 質問の内容は、誰が使ったものかということでしたよね。
島添: そうです。
宮永: 誰が使ったかっていう質問は、萩原君がどこからとったかっていう質問ですか。萩原君の言葉で、一言で言ったら?移行対象を。
萩原: 媒介項です。古い伝統から新しい伝統への媒介項として、従来機能していたものです。
宮永: すると、移行っていうのは、古い伝統から新しい伝統への移行を言ってるわけですか。
萩原: そうですね。
宮永: わかりました。
永澤: ちょっと補足しますと、樫村さんの出していた例では、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるウェーバーが言う、そういった倫理自体が、資本主義という非常に大きな流れが成立していく上での一番大きな移行対象であるというのが1つと、もともとウィニコットなどによってよく使われるのは、いわゆるおしゃぶりみたいな、子どもが親から分離する移行過程における代替対象としての口にくわえるようなもの、そういったものが一般に指示されるということがあります。私の質問は、一枚目の「制度的な揺らぎ」、それから「技術の質の変化に伴う環境危機など」というのを<safety>というコンセプトで説明しているところで、もう少し具体的にお聞きしたいのですけど、この「制度」というものの具体例と、「制度的な揺らぎ」というものの具体例は、ヤップにおいてはどういうものですか。
萩原: ここの中で挙げたものですと、例えば先程の、夜に子どもが集まって伝統を継承していくシステムとか、あるいは、タブーが機能することによって実際に資源が管理されていることとか、あるいは、チーフによって獲得物の再分配が行われるとか、そういったものですね。それから技術については、モーターボートが導入されると、今までの伝統的なカヌーを使っていた漁から、モーターボートを使った短時間で大量の漁獲が可能なものに変わるといったものを、ここでは挙げています。
永澤: ということは、そういう制度が安定しているということが、ここで言う<safety>ということでしょうか。
萩原: 環境持続性だとか、社会の秩序の安定性というような意味で使っています。
永澤: わかりました。以上です。
宮永: では、品川君。
品川: 品川です。2ページ目のところで、「従来は近代化は急速ではなかった」っていう言葉と、あと「移行対象が機能する以上の速度で」というようにスピードがキーワードになってるんですが、このスピードっていうのは何を基準に測ってるのか、もしくは速度とか急速であるとかっていう言葉は、どういう定義で使ってるのかっていうのを教えていただきたいんですが。
萩原: 実際に導入される内容が、従来の伝統にとって、どれだけ衝撃度が強いかによって、影響は変わってくると思います。特に近代的なものの場合は、そのインパクトが強いということが言えます。速度に関して言えば、特に欧米からの物資が定期的に入ってくるようになると、外部に行った人が何か近代的なものを持ち帰るとか、都市に流通していたものが次第に地方にも広がっていくとか、そういう今までのパターンよりももっと速く、しかも定期的に近代的な産物が入ってきます。そういう状況をここでは言っています。
品川: そうすると、近代的なものと触れ合う、頻度のことを・・・。
萩原: 頻度もあるでしょうし、伝播する速度も速いですね。
宮永: 速度をどうやって測るか、っていうのが質問だったんですよね。
萩原: 例えば、環境教育団体がプログラムで定期的にヤップを訪れます。そうすると、前年とその次の年とでどれだけ変化しているかといった点も目安になると思います。地域の人たちがそれをどう実感しているかという問題もあるでしょうね。
品川: それと、じゃあキリスト教の受容の速度の違いは、どこで・・・。
萩原: ヤップの場合、今までもキリスト教が主な宗教だったのです。もちろん、伝統的なアニミズム的要素が混じっているわけですけれども、キリスト教は近年の急速なグローバリゼーションほどの速度ではなくて、徐々に取り入れられていったわけです。受け入れる余裕もないほど急速に、あるいは、受け入れるかどうかをゆっくり考える時間もないままに取り入れられたというわけではないのです。今までの宗教的な価値観が徐々に組みかえられていく中で、例えば、タブーが衰退したり、それらが少しずつ失われていく中で人々の認識が変わったりとか、もっと速度が遅かったということですね。
品川: それは、受け入れる期間の速い遅いであって、入ってくる速度の速い遅いではないじゃないですか。
萩原: 受け入れる側もそうかもしれないですけれど、定期的にそういう新しい情報が入ってくるかどうかという違いもあると思います。
永澤: いいでしょうか、要するに今かみ合ってない理由は・・。
宮永: どうぞ。
永澤: かみ合ってない理由は、思いきり単純化すると、受け入れる側、主観的な尺度と、それから、外部からのたとえば研究者とか観察者が、それを速いとか遅いとか記述する際の客観的な尺度の二つを、区別してそのどちらをお使いになってるのかとか、たとえばそういうような質問で、それは受け入れる側じゃないですかと聞いたにもかかわらず、最初から一貫して萩原さんは、その二つを同時に、しかも区別せずに使ってらっしゃるので、私にとってもわからないのです。つまり、客観的な尺度ではないように思えるということで、ここでの文脈では、移行対象が機能していないというような、結果としてアイデンティティ・クライシスが起きて、しかもそれを窺わせるような状況から見て、結果的にレトロスペクティブに、そういう状況では、ああ、これまでよりも移行対象の機能が弱まっているという意味でハイスピードなんだなって言えるような、たとえばですよ、そういうようなものとしてならわかるんですけど、そういうようなものとしては定義されてないし、かといってそういう強度とか頻度なのか、という、まあ強度は客観的には規定できないですけど、頻度ということなのかとか、どういう意味で使っているのかわからないということなんですよ。
品川: そうですね。はい。
宮永: 萩原君、どうです。もうちょっと時間を置いてから・・・。
永澤: ちょっと今のは、厳密というか、シビアすぎるんですけど。
宮永: いや、そんなことはないです。
永澤: 多分そういうことですよね。
品川: はい。
萩原: 先程のご質問で、尺度としてどういうものを想定されているのか、参考までに教えていただけませんか。
品川: 想定して言っているわけではないんですが、キリスト教自体が入ってきたときもそれなりの強いインパクトがあっただろうし、あるいはキリスト教が入ってきたときっていうのは、どういう状況で入ってきたのかはわからないんですが、たとえば宣教師の方が入ってきて、ずっと住みついた・・・。
萩原: 基本的には、ある程度長い期間で、ということですね。
品川: すると定期的に、教育団体が来るよりは、ずっとその人が住み着いてるほうが、頻度としては多いような気がするんですよね、接触する、外の・・・。で、その場合に、現代のほうが、近代化の波が押し寄せて来る方が、速度が速いっていう意味で、頻度で測った場合だと、おかしな話かなと思いますし、じゃあ何を基準にして測ったのかなっていうのが疑問だったんで、定義をお伺いしたんですが。
萩原: 結局、「頻度」という概念をどう考えるかということです。新しい要素の流入に定期的に触れていくことなのか、あるいはそういう要素が地域に定着して、日常の中で定期的に触れられる状態に置かれていることを頻度と呼ぶのか、ということによっても変わってくると思います。
宮永: 交通整理したいんですけど、品川君は、萩原君の発表に対して対応しているんで、品川君が答えを持ってるわけじゃないんですよね。だから、萩原君が答えを持ってなきゃいけないんで、それは無いなら無いで、それはこの次にきちんと出せばいい訳でしょ。今日全部無けりゃいけないっていうことじゃないんですから。だから、・・・。
萩原: というよりも、ちょっと質問の背景となる前提が見えていないところがあるので、何か考えるものがあるのだったら教えていただきたいと思って、伺ったということです。
宮永: 品川君が言ってるのは、萩原君が非常に立派な枠組みで発表してるんだけれども、もうひとつ何かその、基準がわからないので、納得できないっていうことですよね。
萩原: ええ、だから、質問の論点自体に理解しがたい点があったので、今こちらから質問させていただいたわけですね。
宮永: ここで答えが出なくても構わないので。
宮永: 一応ちょっと保留にしておいていいですか。
萩原: そうですね。宗教的なものと、あるいは物質的にすぐ効果が得られるものとの違いとかも考慮に入れる必要があると考えておりました。近代的な要素のように、すぐに使える便利なものとキリスト教が伝播した時の状況では、頻度の問題も受ける影響の速度や質も違うと思います。
宮永: いや、おっしゃる通りなんですよ。おっしゃる通りなんだけど、要するに、もうひとつピンと来ないんです、聞いてるほうでは。たとえば、宣教師のインパクトと、電化のインパクトの、違いをどういうふうに、定義づけていったらいいか。で、2回目の、電化の方は要するに開発ですよね。開発のものすごさですよね。それがやっぱりグローバリゼーションの基になってると思うんですよ。キリスト教の伝播じゃないと思うんですよね、今のグローバル化の、怖さっていうのは。やっぱり経済文化なんですよ。その一部にむしろキリスト教がなっちゃってる訳ですよね、この次に森さんの発表がそっちにいくと思うんですけど。だからそういうものをもっとはっきりバシッと出さないと、なんか非常に印象的な感じがするんですよね。これは、フィールドワーカーが行くとどうしても、目に見える、目の前のものだけを見るので、それがどうしてかっていう大状況を忘れちゃう訳です。で、むしろその大状況の中に、改めて位置づけたときに、そのフィールドワーカーが見ているものの、その本当のその力強さ、認識の力強さ、観察っていうことの意味があると思うんです。少なくとも見えたものは、それがどうであろうと、事実は事実、見えた、という意味での最小の事実な訳ですよね。グローバル化っていう大きな枠組みの中だけで考えていると、数字と、それから、まあ本で読んだことしかないわけですよ。だからその2つが、うまく結びついたときに、理論としての意味を持つんだと思うんです。で、どう結びつけるかっていうのは萩原君がやるんで、ね。それをみんな期待しているわけです。はい、どうぞ。
永澤: 今のに関係して、さっきの質問にも関係するんですけど、<safety>と<security>の区別というのは、まず一番身近な典拠というか、それをまず教えていただきたいということと、それを萩原さんが自分なりに何か組み替えたり、本質的に変えているところが無いのかあるのか、つまりこういう二分法ですよね。で、今の話も全部この二分法にも関係していると思うんですよ。いわゆるその主観的な「強度」といった言い方と、ある程度その回数として測れる頻度といったその区別が二重になっているということで。それで私はその<safety>と<security>というものの典拠を聞きたいのですが。
萩原: これは、それぞれの言葉の語源も考慮した辞書的な意味です。
永澤: いや、要するに本ですね。口頭で聞いたとか、研究発表でもいいんですけど、基本的にパブリッシュされているもの。誰々の、こういう本の、この概念から来ているという。それを具体的に聞いてもいいんですけど。
萩原: 今思いつくのは論文なので、著者名や題名が出てこないのですが・・・。
永澤: 著者名というのは・・・。
萩原: 例えば、ある程度参考になると思ったのは、科学技術社会論学会の学術誌の論文などが挙げられます。
永澤: 要するにお聞きしたいのは、この定義が、萩原さんが考えたものなのか、それとも、もともとパブリッシュされたもので、それをそのまま持ってきてそれで変更ないのかということと、科学技術論の現在のトレンドにおいて、ほぼ確立されているコンセプトなのかということです。
萩原: 考えたというよりも、<safety>と<security>について、語源に遡って辞書で調べれば得られる情報です。ですから、安全や安心について議論している人たちの間では、ほぼ共有されている定義だと思います。
永澤: じゃあ、それは今のでお答えがあったと思うんですけれども、それは、それをそのまま使っていて、二分法として使われているということですね。つまりそのふたつは一応明確に区別されているということですね、こういう形で。わかりました。
萩原: はい。議論を整理する便宜上の理由ということもありますね。
永澤: でもセキュリティは辞書的な意味においては、こういう主観的な意味に限定されているわけじゃないですよね。
萩原: 確かに、いくつもある意味の中の一つです。日本語で言う「安心」と全く同義としてよいかは留保しますが、「安全」という制度的、技術的な側面が強いものよりも、ある程度主観性が強いと言ってもいいかもしれません。そういう側面を考慮しつつ、議論を整理する上で使っているということです。
永澤: わかりました。
太田: 太田です。皆さんよりも全然理解が遅れているので、簡単な質問をさせてください。えーと、要は、このペーパーの構造がわからなくて、聞きたいんですけど、自己批判的にならなきゃいけないよね、それが課題だよねって、それが言いたいことですか。
萩原: 「ならなければならない」というふうに強制するつもりはないですけれど、ただ、そうなった方が現状にはよりよく対応できるだろうと考えています。現状に適切に対応するには、こういうような方法もありますよ、という提言です。
太田: で、自己批判、それと、またこの去勢っていう概念も多分関係してると思うんですけれども、今自分がやばい、やばいよっていうのがリスクがあるっていうことなんですよね。それを認識している、で、それを避けようとしているのが、去勢を避けるって言ってます?
萩原: 必ずしも「危険」という認識だとは限らないと思います。例えば、不安を抱えているとか、あるいは、どうしたらよいか分からない状態とか、いろいろあると思います。
太田: 勝手に、本当は危険じゃないんだけど、危険だよーって思っている、ちょっと精神的に病んじゃってるのもあるし、・・・。
萩原: ここで言おうとしていることとは違います。
太田: それ全然わかんないんですけど、ごめんなさい。そこがわかりませんと言っていて、この辺にいろいろ書いてあるじゃないですか。<safety>と<security>とか。多分そういうのを説明しようとして書いてるように見えるんですけど、全体としてわかりにくいので、今のような質問をしています、と。で、自己批判的が課題だよねっていうのが、一番言いたいんですよね。
萩原: そうです。
太田: それは間違いないですね。で、自己批判の自己っていってるのは、誰なんですか。
萩原: この意思決定をする場面の、当事者のことですね。
太田: あ、それはSTSとは特に関係ない?
萩原: STSというのを、ただ学問的なものとしてだけではなく、実際にその地域に生きる人が、自分たちの生きている状況で科学技術と社会がどう関わっているかということを整理して、問題点を自ら変えていくことにつなげていきたいと思うのです。その時に、参照する枠組みを使いこなす、当人の自己批判的な認識というものが必要だということです。
太田: まあ、要は、地域で生活している人で、健全な頭脳がある人はみんな・・・。
萩原: 何を「健全」と言うかという問題はもちろんありますが、地域で問題を抱えていてなんとかそれを解決したい、良い方向へ持って行きたいと思っている人たちのことを想定しています。
太田: 問題を認識してないと駄目?
萩原: まずはやはりそれでないと、議論の方向性を探れないのではないでしょうか。
太田: じゃあ、問題を認識してない人は、自己批判しなくてもいい、もしくは、できないじゃん、ていうことですか。
萩原: 逆に言うと、そこで想定している「自己批判」とは何ですか。
太田: それを聞きたいんですよ。
萩原: それは質問の仕方として不公平だと思います。やはりご自身の定義を出して、その上でこちらの定義との違いや疑問点を示していただきたいです。
太田: 責めてるんじゃなくて、わからないから、教えてくださいと言ってるんですけど。
萩原: 質問の形式として、「自分はこう考えるけれど、それとこれとはどう関係しているのか」という問題の立て方をしていただかないと、困るわけです。
太田: 質問の仕方が悪いということですね。じゃあ、変えましょう。
宮永: ちょっと待って。萩原君のおっしゃる通りでね、質問をするときには自分も答えを持っているっていうのが非常に適正な訳なんです。だけども、答えを持っているとは限らないわけですよね。そういう質問もあるわけで、うん、まあ、いいんじゃないですか。(一同、笑)ちょっと、続けてみましょう。
太田: 全然わからないので、はじめに断ったつもりです。
宮永: いいです、いいです。
萩原: 責めていません。
太田: ええ、おたがい責めてないんで。皆さんバックグラウンド全然違うから、バックグラウンドが違うことを認識して、お互い折り合って行かないといけないと思うんで、こういう質問をしています。
宮永: そうです。それで行きましょう。
太田: テーマは自己批判です、と。それと、この去勢っていうのが何かよくわからないので。関係あると思ってます。そういうふうに読めます。じゃ、今回はそれにしましょう。自己批判と去勢の関係を教えてください。
宮永: あのー、ちょっといいですか?今のですね、質問を、私が今ちょっとわかりやすくしようと思って提案してみますけれども、もしかえって難しくなっちゃったら、やめましょう。ちょっと提案させてください。えっと今、自己批判と、去勢、ですよね。
太田: そうですね。
宮永: だったらここに出ている、一番わかりやすい事例が、電化を拒絶した少年なので、この少年には自己批判があるか無いか。無いかのように書いてありますけど、そういうふうに読めるんですけど、実際無いのかあるのか確認したいんですね。で、この少年についての去勢っていうのは具体的に何なんだろうっていうのを、教えていただくと、みんなわかるんじゃないかなーと思うんですね。
永澤: 素晴らしい・・・。
宮永: あ、そうですか(笑)。事例で、何でも難しいことは事例で考えるので。
太田: 私も頭に事例があったんですけれど、ちょっとそれは伝えられなかったんで。
宮永: じゃ、まずこの電化を拒絶した少年で行きませんか。
萩原: これについては、今回の発表のベースにした論文である程度詳しく書いているので、もうちょっと丁寧に説明させていただきます。
宮永: どうぞ。
萩原: この少年の場合は、自分たちの大切な技術などが、生活が電化されると失われてしまうのだと言います。ただし、元々は電気が入っていない島ですが、彼自身は他の電気がある島の学校生活を体験したり、インターネットに触れたりして、電気が便利らしいということは分かっています。その一方で、電化に否定的なのです。ここで電化することを否定している理由というのは、アイデンティティの問題というのが一つあるのですが、もう一つは、電気を入れた場合に、実際に自分たちの生活がどれだけうまくいくのかという不安があることも事実です。例えばこの少年が言っていることを挙げますと、日常生活が大きく変わる、空間が必要になって木が伐採される、電気に依存的になる、費用がかかる、事故が発生する可能性がある、発電施設を建設するために土地を手放さなければならなくなる、といった予測による不安を述べているわけです。ただ、実際にこの島が導入しようとしていたのは、ソーラーパネルでした。ソーラーパネルの場合には、そんなに大きな発電施設もいらないはずですが、その導入が決定された時期も考慮に入れると、ソーラーパネルの性質について、まだ十分には把握していなかったということもあって、こういうふうな発言になったという可能性もある、ということをまずお伝えしておきます。その上で、少年が一番心配しているのは伝統とか技術が失われてしまうこと、つまり、ここで自分たちが今まで全然取り入れていなかった要素を受け入れてしまったら、今までの安定しているはずの秩序が壊れてしまうと心配しているのです。けれども、そのような認識の一方で、この少年が既に都市部や学校などで見ているように、ヤップの伝統というものは、近代的な要素との関係に置かれて、その中で新しい伝統が作られているわけです。従来の伝統が完全に断絶してしまうわけでもないし、あるいはそれによって自分たちの日常生活が完全に破壊されてしまうわけでもないでしょう。けれども、新しい要素は受け入れがたいというわけですね。彼は都市部での状況を見ているけれども、実際に自分たちにとって直接関わる問題となった時に、それを受け入れることができないのでしょう。
宮永: 太田君、どうです。今の答え。
太田: つまり、去勢を回避している、だから自己批判が無い。言葉的にそれで伝わってますか。
萩原: 自己批判が「無い」というよりも、十分ではないのです。何が自分たちにとって必要かという観点を持っていること自体は評価してよいと思うのです。単に「これは伝統的ではないから駄目だ」というふうに拒絶しているわけではないですからね。問題は、新しい要素を取り入れた場合にどうなるかということについての自身による観察と、そうした要素の導入に自身が直面した時との対応のギャップでしょう。
太田: さっきよりは大分私にはクリアになってましたけれども、他の皆さんはどれだけクリアになったのか。
宮永: どういうふうにクリアになったの、私はもっとゴチャゴチャになっちゃった(笑)。ごめんなさい。
太田: たとえば、今の事例でいえば、電機の導入による自分にとってのいい結果も、悪い結果も、ある程度認識してますよ、と。そうですよね?で、その上で、自分のチョイスとして、電気やーめたっと、言っている訳ですよね。
萩原: チョイスとしては、そうですね。
太田: そうですね、だから一応去勢を完全に回避している、まあ、何か段階があって、一応わかってます、と。で、意識的にチョイスをしましたということなんで、ある程度は自己批判力はあるだろうと、っていう話に聞こえたんですね。
萩原: なぜこのことを取り上げたのかということについて、論点を付け足します。2003年のワークショップの時に多少挙げたと思いますが、実際に電化をするかどうかという問いに直面している人たちは、その情報をどのように得ているかというと、インターネットを使ったコミュニケーション・プログラムです。これからどういうふうに変化していく可能性があるか、あるいはどういう対応が可能なのかといった判断材料となるもの自体が、電気の導入によってもたらされています。実際、これからどういう方向に近代化が進んでいくか、その中で自分たちはどうすればよいかといった質問を、人々はインターネットを使ったプログラムの中で投げかけています。その意味では、現時点での日常生活にはまだ電気が入っていないとしても、認識の面で、あるいはこれからの方向性を探る様々な試みにおいては、実際には電化された生活とつながった形で、伝統やそれに対する認識は組み替えられていると言えるのではないかと考えます。
宮永: そうすると、最先端の、インターネットなんかだと受入れちゃうけれど、日常の中で天井に電球が着くかどうかっていう、あっちのほうは駄目だっていう、むしろそんな感じなんでしょうかね。そうでもない。
萩原: この島は電気そのものを拒絶してきましたから、もちろんインターネットも通常は入れられないのです。
宮永: インターネットはどこに行って。
萩原: プログラムが行われるのは、大抵は都市部や他の島の学校ですから。
宮永: 他の島に行って、情報を仕入れて、帰ってくる。
萩原: そういうことです。
宮永: ああ、そうですか。それ面白いですよ。すごく面白い。そちら、どうぞ。
村中: 村中です。今の宮永先生の質問に関連した質問があります。萩原さんは、「電気」という言葉を象徴的な意味で使っておられます。つまり、インターネットを使ったコンピューターは電気で動くので「電気」という言葉で象徴させて使っていますね。すると、たとえば自動車は…。石油という言葉は、萩原さんの話の中にはでてきませんでしたよね、ということは自動車も「電気」になりますか?
萩原: はい。ヤップの人々の認識では、そういうことになるでしょう。
村中: 電気と言われていることがらが何を示すのか、もう少し明確にしたいので質問を続けさせてください。たとえば、このヤップの島にも船はあると思うのですが、人力で動くもの以外はすべて「電気」と捉えてよいのでしょうか?
萩原: 車については、島の環境を破壊する危険性が高いので、入れさせなかったという経緯もあります。「電気」というのは、近代的なものの中で、特に彼らが衝撃を受けたり、あるいは考えさせられたりするもののようなので挙げました。今おっしゃっている自動車なども、近代的な要素の一部として認識されているのです。
村中: 私はもう少しこだわってみたい。「電気」というのは、インフラストラクチャーが必要ですよね。送電線とか。もし、インフラが必要なものに個別にぶら下がっているテクノロジーを「電気」に象徴させたのだとすると、自動車も、舗装した道路が必要なテクノロジーということで、「電気」と言えると思う。逆に、同じ近代化の産物としてのテクノロジーであっても、インフラストラクチャーの整備なしでスタンドアローンで入ってくるもの、つまり「電気」でないものについては、ヤップの人たちは受け入れているのではないだろうか。それはつまり、伝統というインフラストラクチャーの上に乗るテクノロジーなら受け入れているのではないか、と、そのような考察ががここから可能なのかをちょっと確認したくて、質問しました。
萩原: 少なくとも実際にヤップの人々と話をした限りでは、そういった区別というのはしていないようでした。これまでの伝統が置かれていた状況とは異質なもの、特に欧米から入ってくるものに対する強い否定の感情があります。
村中: それは、わかります。ヤップの人たちには、自己批判がある人もいれば、無い人もいるので、そのようになるだろうと思いますけれども、萩原さんは、どのように捉えているのかなっていうのが、質問です。
萩原: どれだけ受け入れることができるかというのは、その仕組みの規模の問題もあるはずで、島ごとの差もあると思います。都市部の方では、そういったものはある程度受け入れられやすくても、離島などは伝統的な習慣が強く残っていますから、受け入れられにくいかもしれません。
宮永: それでいいですか。受入れられるか、受け入れられないかっていう話ですか。それとも、ディフィニションが欲しい?萩原君自身の、ディフィニションの話。
村中: 要するに僕が気にしているのはこういうことです。ヤップの人たちも、テクノロジーは持っているし使っていると思うんですね。船とか、多分。自転車は無くてもリヤカーみたいなものはあるでしょう。で、「電気」という言葉に代表させている、受け入れを拒否される近代的なテクノロジーと、受け入れているテクノロジーとの間の線は何を基準に引かれているのか、ということです。ヤップに歴史的文化的な断絶がないとしたら、なぜテクノロジーが、受け入れをめぐって二つに分けられるのかが疑問なのです。で、先ほど萩原さんで、自分の答えを言わない質問は不公平だという話をされたこともあって、私の仮説として、インフラストラクチャーが必要か否かによる二分法を述べたのです。「電気」という言葉が象徴的に使われている気がしたので、インフラストラクチャーが必要となるテクノロジーは「電気」という考えが根底にあるのかな、と思って質問したのです。萩原さんの「電気」の定義の根底に想定されているものは何かな、というのが私の質問です。
萩原: 今おっしゃったような定義というのは、有効だと思います。ただ、同時に、インフラストラクチャーが必要かどうかということ以上に、やはり今までの伝統的な生活と比較して違和感があるかどうかというのは、主観的な要素かもしれないけれども、受け入れる側にとっては一つの線引きの基準になるかと思います。その一例が、素材の問題でしょう。例えば、最近は特に都市部では建設素材も多様化していて近代的なものも積極的に使うようですが、離島では昔から使われているような地元にある繊維などを引き続き多用しているようです。近代的なものでは作りたくない、そういうもので作ったら自分たちの誇りは失われるのだ、という認識でしょう。
村中: で、そこの、受入れる、受け入れないのもとになる違和感という内面の反応の、そのトリガーは何なんだろうというのがどうしても気になるわけです。たとえば、伝統的な素材であれば受入れられるのだとしたら、意匠は問わないのか、とか。また、その伝統的な素材をたとえば近代的な工場で作った場合は受入れるのか受入れないのか、とか。その辺が、受け入れられるテクノロジーと受け入れられないテクノロジーとが完全な二項対立にはならないと思うので、何らかの線引きをしなくちゃいけないんだけれども、その線引きっていうのが、何で線を引くのかというところを示していただけると、それに対して同意したり、あるいは新しい疑問が出てきたり、あるいは新しい考えを提出したり出来るんですけれども、その線引きが今ひとつわからないので・・・。
萩原: こちらが勝手に線引きをして、それを一方的に持ち込んで「これはどう思いますか」とやるのは、実際に深刻な問題に直面している人たちにとって、どれだけ受け入れられるものなのかと思います。
宮永: ちょっといいですか。そうすると、今おっしゃっていることっていうのは、要するに現地の当人の人達の意識の問題になるのであって、萩原君自身がそれを踏み越えて、ひとつの、なんていうんでしょうね、一貫性を見出すというのは、むしろその現地の人達にとっては、フェアでないという立場ですか。
萩原: それは、過剰な介入となる場合もあると思います。
宮永: それは、ある場合はあります。でも、それがポストモダンの前後を分ける一番大きなポイントなんです。つまりあの、えーとですね、まあこういう言い方をすれば確かに過剰だと思うのを、つまり語弊を恐れずに言ってしまえば、日常生活をしている人達っていうのは、線引きなんかやっていないし、常に漠然とした印象と直感によって判断するわけですよね。それは恋愛だって同じことですが、いちいち数えて、リストをつくって、チェックリストがあるのよって、言った人がいるんですけれども、何か20かなんかあって、一番上が「3高」になってて、で20あってそのチェックリストが多いほうからって言うんですよね。でもそういうことをやる人のほうが珍しいんじゃないですか。その人は大学院生だったから、そういうシステムを考え出したんだと思うんですよね。で、そうじゃない人のほうが、やっぱり私は普通だと思うんですよ、生活してるっていうのはね。その場のベストは尽くすけど、チェックリストは作らないと思うんです。だけれども、じゃ私たち(研究者)はチェックリスト作らないかっていうと、作るわけですよね。そのギャップを、どう埋めるかっていうのが、ポストモダンの前後で、一番大きなポイントになってる。それをさっきから、聞いてるんだけど、どうもなんかその辺りの答えがピンと来ない。ちなみに、村中氏はNTTですので、電気関係について、特にうるさいです(笑)。電線に関しては、三入氏のほうにどうぞ。そういう意味で現場の人の発想なんですよね。結局。現場の人こそ、やっぱりなんていうんでしょうね、現地の人に聞けばですね、言葉にならない、非常にこう、印象的な漠然としたものの中から、たとえばの話ですけど、これが売れるぞ、とかこういう電線を設置しなきゃ、とかっていう判断をするわけで、これは非常に僭越で踏み越えたものなんですよね。で、僭越で踏み越えたものがどんどん入ってくるっていう話をしてるわけでしょ、グローバル化っていうのは。だから、それに対して、観察者である我々は、どこに視点を取ることができるのか。できないんだったら、もう言うこと自体に意味が無いんじゃないか。人類学はそこまで来てるし、大体落ち目なのはそれが理由なんですよ(笑)。取ることができないんです、ポストモダンの人類学っていうのは。はっきり言って。いろんな人がいろんな視点を取ってますけど、要するに人類学というひとつのコンセンサスができないんです、どうしても。今日はだからそこに来ちゃいます、結局ね。でも一応自分はこう思うっていう、それが間違っててもいい、仮説でもいいけれど、やっぱり、無きゃまずいんじゃないですか。だから、萩原君の話を聞いてると、何かあの人達が、要するに現地の人達が、みんな印象的な漠然としたものを持ってるんだから、僕は最大公約数的なものしか出せません、っていうふうに聞こえるんですけれど、それじゃやっぱり一応他者とか研究者としての位置が・・・。
萩原: 最大公約数を認識するということと、その上で実際どういうふうに取り組めばいいと考えている人達の認識について、その人達と議論して、ある程度の線引きをしていくことっていうのは違うと思うんですね。
宮永: 言ってることは、どういうふうに取り組もうかと考えている人達っていうのは、現地のインテリですよね。表現が出来る人ですよね。
萩原: 主にそうでしょう。
宮永: じゃあその人達のコンセンサスをくみ上げてくるっていうことですか。
萩原: ですから、問題意識の強い人たちと、そういう認識を持っていない人たちとの両方を観察して分析しないと、今置かれている全体の状況というのは把握できないと思っています。
宮永: だから両方を取り上げなければならない、という、その萩原君の根拠はどこにあるかって、さっきから村中さんは聞いているんだと、私は思ったんですよね。
萩原: 実際に人々が全体としてどういう状況に置かれているのかということを、まずは正確に把握しようとしないと、それに対して、こちらから何かを言う場合にも不十分になる危険性が高いからです。
宮永: いや、その通りですけど、要するにそれを萩原君は調査者として、両方を理解できていると私たちは思っているわけです。だからその調査者が、両方を理解するために、持たざるを得なかった、あるいは持とうとした積極的な視点って、何かっていうことなんです。だからさっきから言葉の定義とか、そういうものが問題になってるんで、本から取ってきました、っていうのでは、ちょっとまずいですよね。はい、お願いします。
永澤: インフラっていう非常に素晴らしい表現が出たので、<safety>の方、主に制度や技術に関する安全性ですよね、そこでこの制度というのは、インフラストラクチャーというさっきの言葉と、かなり置き換えられる、というか接点が強いので、もうちょっと押さえられると思うんですよ。これは要するに、送電線も含むし、それからもっと生の、植物とかそういった木材とか自然の素材を使った、ヤップならヤップという別の世界のカルチャーの基盤となるようなインフラも、両方を含めることが出来るような意味での、まあ制度ですよね。生活空間の骨格みたいな。そこで、<security>というのは、そういった、カルチャーの基盤となるような素材がたとえば光ファイバーとかそこまで行かなくても、スチールとか送電線とかの形に置き換えられてしまうことで、要するに伝承されたヘリテージがそういうふうに置き換えられてしまうことで、人々のSAFETYに関わる精神的なものにおいて、非常に不安感が高まってしまうとか、つまりSAFETYの危機が起こるというようなことが、実際に起きてくるかもしれない、と。そこで、少年たちはそういったことを漠然と、この二つを区別した上でそういうふうな相関を認識してるわけではないという意味で、自己批判力とか、ひょっとして去勢として定義されたものも不十分というふうに一応理解できるんですけど、村の中の一部の、ある意味で一定の認識力のある人達は、先ほどからおっしゃってるので萩原さんが相手をするというか議論をするという先ほどの人達かもしれませんけど、一応この萩原さんとほぼ同じ枠組みで<safety>と<security>というコンセプトを分けて頭の中に入れた上で、さっき私が言ったような相関ですよね。今までこういうような素材を使っていたのが、この送電線とかに置き換えられてしまうと、たとえば村の少年たちは非常に不安が高まってしまって、いろんな問題が生じているかもしれないと。そういった認識まで到達している人が、ここで言われている、自己批判力があるというか、そういった人なのかなというふうに私は一応考えた上で、ようやくある程度、この二分法、この二つを分けた意味というのが、村中さんの先ほどのと絡めて見えてきたんですけど。たとえばそういう見方はどうでしょうかね。
萩原: はい。そのあたりをうまく表現できていなかったところもあると思いますが、確かにここで扱った少年の認識と、環境教育プログラムに中心的に参加してそれを運営している関係者の人たちの認識では、議論の整理の状況がかなり違います。<safety>とか<security>といった言葉を使うわけではなく、そういう議論をしたことがあるわけでもないですが、やはり彼らの論点は明確です。制度的にはどういうふうに対応するか、現実に直面している問題をどのように捉えられるかといったことと、自分たちが抱える不安などの主観性が強い要素とを、きっちり分けて論じています。
宮永: いかがですか。
永澤: いや、それで少しはわかってきたっていう・・・。
宮永: 問題性というか、萩原さんが何をね、おっしゃりたいというのかが、だんだん見えてきましたよね。萩原君はいつもね、レジュメを作るとき、あんまりに手際が良いので、かえって問題性が埋没しちゃうようなところがあるんですよ。だからすごくわかっちゃうような気がしちゃうんですよね、言われると。えー、あの、そうじゃないっていう人も(笑)。
太田: 全然私のいる伝統とは違うっていう。課題はこれですって書いてくれないと、何だ、課題はどこにあるんだっていうふうに見ちゃうんで、私は。
宮永: それは確かにその通りですよね、課題はこうですって最初におっしゃっていただいた方が分かりやすいかもしれませんよね。それはやっぱり、課題はこうです、って最初に言うと、わかんなくなっちゃう人が多いんで、私はバリッジ先生から、学者を相手にしたらそろーっと課題を出さないといけないんで、あなたみたいに最初から課題をぶつけられたら、みんな面食らっちゃうだけだよって(笑)、散々いわれたんです。ですから、お客さんが違うと、提示の仕方も違ってくるっていう、そこは今、この個の可能性研究会の分科会で一番面白いところだと思うんですよ。 このあたりまで来て、問題性が見えてきたと思います。それで、問題性はもっと他の方の発表のあとで、全体的に討論したいと思いますので、2、3分休んで、今この時計で2時14分ですので、2時18分に戻ってきてください。森さんお願いしますね。 <<休憩>>
宮永: 森さんお願いします。
森: はい。課題を先に言う方が分かりやすい、ということで、先ず、ここで私が申し上げたいと思っていることを言っておきます。この会のテーマの一つは、これからの「認識論」についてどう考えるか、ということだと思っています。そこで、今回は、そのことに関して、反面教師的に、と言いますか、そうした認識論では個の確立が難しいのではないか、という例として、ファンダメンタリズムを取り上げたいと思います。 ファンダメンタリズムは、レジメに書きましたように、その認識論的な特徴として、二元論を示す、と私は考えています。彼らの参照する、「原典」と称されるものが示している教えは、本来一元論的なものであると思います。それは、あらゆる矛盾・対立を克服したものという意味で、一元論的、と言っているのですが、本来説かれている教えが一元論的であるのに対して、ファンダメンタリズムは、多元主義がもたらしたと彼らが考える社会の危機的状況を、二元論によって克服しようとして登場している、と言えるのではないかと考えます。ファンダメンタリストたちは、原典のある部分を恣意的に選択、解釈し、それを固定化して自らの「教義」とし、その実践として、それを受容れないもの、それに対立する(と彼らが考える)ものを攻撃、殲滅すれば、それが救済となる、と考えます。ファンダメンタリズムが、戦闘的、政治的にならざるを得ないのは、そのためです。これまでのファンダメンタリズムの歴史や現状を見れば、このことは明らかではないでしょうか。 この「対立する物」、「対立項」については、グループによって様々なものが設定されています。例えば、私がフィールドワークを行っている浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)という浄土真宗系の新宗教グループに見られる二元論的な対立項としてはまず、彼らが常に強調する、「地獄と極楽」、「正と邪」などが挙げられます。彼らは布教のことを「破邪顕正」という言い方をするのですけれども、これはまさに、「自分たちのみが正しい。その正しさを顕らかにして=弘宣して、邪まなものは破る=攻撃しなければならない」、という言い方で説かれ、闘争原理とされています。あるいは、親鸞会の他にも、「正義と邪悪」「文明と野蛮」などの二元論を掲げて戦争をする国家なども想起されることでしょう。イスラムにおいてしばしば見られる、「近代と反近代」という考え方も二元論的です。その他に、「エスタブリッシュメント(既成宗教)とファンダメンタリズム」という二元論も根強いと思われますが、これは親鸞会にも非常に顕著に見られます。開祖親鸞の教えに背く本願寺教団(エスタブリッシュメント)に対して、親鸞に忠実な親鸞会、という位置づけを行っています。 さきほど、原典に説かれている教えは、本来一元論的なものであるのではないか、と述べました。これは、今幾つか挙げてきましたような対立を、いわゆる「真実」や超越的な存在の、絶対的な救済と言いますか「愛」と言いますか、そういうものを信じることによって克服できる、という可能性を説くのが原典だと考えていますが、それに対して、この一元論を、もう一度ファンダメンタリズムは二元論に引き戻すというようなことをしているのではないか、と考えています。だから仮に「対立物」を殲滅することができたとしても、認識の原理として二元論は残るので、一元論的には、「救済」されたとは言えず、何度も同じ形で蘇っていくであろうと考えています。 最後に、こうしたファンダメンタリズムは、ご存知のように一定の支持を得ています。親鸞会も会員は公称10万人、日本全国に支部を持ち、海外にも幾つか支部を持っています。ただ、これまで述べてきましたように、止揚の契機を持たない二元論の性格を持っているがゆえに、それは個の確立−これは先ほどの自己批判という話にもつながると思うのですけれども―の決め手にはならず、むしろそれを阻害する可能性があるのではないだろうかと考えています。以上です。
宮永: 質問いかがでしょう。はい、どうぞ。
太田: 太田です。この書いてある中で、「その止揚の契機を欠いた二元論の性格故に」っていうのは、どこを読めばそれがわかりますか。止揚の契機を欠いた二元論と、止揚の契機のある二元論っていうのがあって、きっと。ファンダメンタリズムの二元論は、止揚の契機を欠いています、と。それはどこに。「以上言ったように」って言われて、以上ってどこだっけ、とか思って探したらなかったんで。(笑)
森: レジメの3つ目の*印のところに書いたつもりです。先ほど述べましたように、ファンダメンタリズムは、「対立物」を殲滅することによってのみ救済は得られる、と説いていると言えると思います。このように、自分の正しさを証しするために、対立するもの=「悪」であるものを潰してしまおうとすることは、本人たちにとっては、ある種の救いを得ているような実感につながるかもしれないとは思うのですが、客観的には、本当に救われていると考えていいのだろうか、という疑問が私にはあるのです。「原典」に説かれている教え=一元論的なものと私が言ったようなものにおいては、「悪」とか「敵」−対立するもの―と思われるようなものでさえも救う可能性を示していると思います。そうした形で二元論を超えていく可能性を、ファンダメンタリストは持っていないのではないか、ということが言いたかったことです。伝わりましたでしょうか。
太田: はい。書いてある内容はわかりました。
宮永: はい、いかがですか。
永澤: 今の質問とまったく同じ確認なんですけれど、「止揚の契機を欠いた」というここの部分は、二元論の本質的な定義なのか、それとも止揚の契機を持っている二元論を想定してるのかということで、どちらかというと、どっちなのかということと、それから二元論を「恣意的な選択、解釈によって固定化し」と書いているところも同じ問題だと思うんですが、固定化される以前の二元論というものがあって、それは止揚の契機を持っているというような全体の一貫性を持っているのかどうかという定義の問題なんですけれど。
森: ひとの認識、ということに関して、論理的には、一元論と二元論と多元論があるというふうに考えます。そして、基本的には、多元論から二元論へ、そして一元論へと展開していく、と言えるのではないかと思っています。多元論は、二元論も多元論の一つなのですが、二元論とは違って、例えば「善と悪」とか「正と邪」とかという風に二分して固定化してものを見るのではなくて、沢山の多様なものがあるということを、認める立場です。だから、それは、何かを固定化するのではなくて、相対化する。あれもこれもあると考えて、何かに深入りする、ということをしない。沢山あるそうした多様なものについて、一つ一つ吟味し始めるようになると、こうした状態から、何かを固定化して考えるようになり、それから、「分かりやすさ」ということから考えて、「あれかこれか」という見方をするようになりやすいのではないか、と思います。そしてそうなると二元論的なものの見方をする、ということになる。そして、この矛盾、対立を克服していこうとすると、一元論になるのではないか、と考えています。こうしたプロセスを通して、一元論へ向かっていく、そこには、止揚の契機がある二元論もある、と考えます。
宮永: はいどうぞ。
星: 星といいます。先ほどの太田さん、でしたっけ、と同じように、アカデミックなバックグラウンドが無いので、ちょっと、すごい基本的なところを質問をさせていただくかもしれないのであらかじめご承知置きください。大体、何ていうんですか、私の理解になるんですけれども、ファンダメンタリズムだと、個の確立を阻害する可能性があるっていうことがおっしゃりたいっていうふうに・・・。
森: はい。
星: 聞こえたんですけれど、何となく聞いていて、確かに私もその考えに同意するところがあるんですが、反対に多元論、多元主義、だと、かえって個の確立が難しいんじゃないかなって感じる側面があるような気がします。例えば道徳的なことをサンプルにさせていただきたいんですけれども、これは正しい、これは正しくないっていうことって、割とキリスト教だと明確に十戒っていうのが、これはしちゃいけないっていうふうにあるんですけど、もしそれがすごく多元論だったとして、この場合は正しい、これも正しいあれも正しい、これも間違ってる、あれも間違ってる。正しい、の方がいいサンプルですかね。これも正しいあれも正しいってなったときに、私がまだ全然子どもだったとして、そういう環境におかれたら、すごく、その自分っていうのを作って行くのが難しいような気がするんですけれども、そのへん多元、多元主義っていう中での個の確立っていうのは、どういうことを契機にして行われるのか、っていうところをどう考えていらっしゃるのか、ちょっとお聞かせ願いたいなと思います。
森: はい。多元主義的な状況において個の確立が難しいというのは私もそうだと思います。今も述べましたように、これもある、あれもある、というような形で全てを相対化して、何についても深く考えてみることをしない状態では―その中に可能性や契機が全くない、とは言い切れないのかもしれないのですけれども―、個について考えることも難しいと思います。ですから、沢山あるものを、ひとつひとつ吟味していくことが、そうした状態から一歩踏み出すことになると思いますが、そうして吟味したものを固定化したり、対立させたりするだけでは、これもまた、個について考えることは難しいのではないか、もう一歩進んで、対立を超えるものを考えられれば、個の確立によりつながるのではないか、と考えています。ただ、私は、多元論とか二元論とかが良いとか駄目とか、そういったことを申し上げたかったのではありません。それぞれがうまく機能する場合も多くあると思います。しかし、個の問題を考えるときには、一元論的に考えてみるということが、より有効なのではないか、と思います。そして、そうしたことが、おそらく「原典」には、人間にはそういう可能性が与えられているという希望とともに、説かれているのではないかと思います。「原典」そのものを用いるという意味では、ファンダメンタリストたち、例えば親鸞会にしても、非常に親鸞そのものの教えに学ぼうとしているという点では、私は可能性を持っていると思うのですが、でもやはり、その解釈を二元論的に固定化しては、個の確立を促すことにはならないのではないか、と思います。今回はその点を指摘したかったのです。お答えになったでしょうか。
星: ありがとうございます。
宮永: どうですか、いいですか。
星: 私、実は普通に働いているんですけれども、普通に働いていると、今の答えじゃ多分だめなんですよ。で、だからあなたは、どうしたいの、どうするの、何を提案するのっていうところが、結構問われませんか、例えば会社のプレゼンとか、企画発表とか、そういうときだと。なので、そこがちょっとピンと来ない気もしたんですけど。
宮永: あの、森さんの頭の中ではがっちりした事例があると思うんですけれども、私たちには、一元論、二元論、多元論の事例がひとつも無いわけですよね、頭の中に。だからピンと来ないんです。さっき萩原君のはね、なんかすごく分かりやすい事例がひとつあったんで、それを使っちゃったんですけど、ここには全然無いので。じゃあ、一元論って、ズバリと言って何かあります?これですってみんなが納得できるような一元論。独断で構わないので、パッと言っていただければ。
森: はい。それでは、「聖書」を一つの例として挙げたいと思います。
宮永: それで、戻ります。
星: 聖書は、確かに原典としては、ひとつの何でしょう、ひとつの価値、意味を提案しているものだと思うんですけれど、実際解釈がすごいたくさんあるじゃないですか、で実際出てきてますよね。そういうふうに解釈が多様化してきちゃったものは一元論って言えるんですか。その解釈それぞれが自分は正統だって言っちゃったらどうなっちゃうんですか。
森: すみません、「聖書」と言うよりも、それに表されているキリスト教の教え、と訂正させていただきたいのですが、でもそれだとしても、やっぱりそれについての解釈が色々出てくるので、その場合はどうなるのか、というご質問は同じですね。もちろん解釈は色々出てくると思うんですけれども、ここで言いたいのは、教えそのものは一元論として示されているのではないか、ということです。
高崎: ファンダメンタリストは聖書の教えは二元論的であるというふうに言ってるんですよね。ごめんなさい、高崎です。
森: ファンダメンタリストがやっているのは、実際には聖書の解釈なのですが、彼らの主観では、それを二元論とは思っていなくて、一元論と思っていると私は思います。ファンダメンタリストにとっては、それは当然絶対的なもので、一元的なものなのですが、客観的にみると、「善悪」とか「正邪」とか「敵」を措定して攻撃することで自らを証するというような形=二元論になっているのではないかと考えます。
太田: 太田です。一元論か二元論か多元論かってあまり大事、大事ですか。要は、個の確立を、していないんですよね、ファンダメンタリストは。
森: と思っています。
太田: 森さんの中では。その事例が出ると、分かりやすい。あと、個の確立をしている人。この事例が出ると、見える。で、それと多分、何とか、n元論みたいのは、どう関係あるか、ていうのは次の話だと思うんですよ。
森: はい。親鸞会の例で述べたいのですが、私は、彼らを見ていて、彼らの個の確立は難しいのではないか、と感じています。それは、先ず、彼らにとっては、会の創始者で現会長の、高森さんという人の権威が非常に大きくて、会では、彼の言うことがすべて正しいと考えられているからです。そして高森さんは、「善悪」とか「正邪」、「間違っているか正しくないか」、ということを単純化して説く。親鸞の教えを分かりやすく説くので、そこに惹かれる人達も多いとは思います。でも、高森さんは、同時に、自分の解釈のみが絶対に正しくて、それ以外は絶対許さない、というようなことを言います。それで、会員は、それを鵜呑みにすることで救いを得るような幻想―私は幻想だと思っているのですが―を得ています。こんな風に、これだけが正しくて他は正しくない、という言葉を簡単に受容れるのではなくて、例えば高森さんが説いたことについて批判的に考えてみるとか、親鸞の著作を読んで自分なりに解釈してみるとか、そういう行為をもしすれば、個の確立の可能性に、契機に、なるのではないかと思うのですけれども、そうしたことはこの団体には見られないので、そのような事例が頭にあったわけです。
永澤: その場合に、高森さんは、個を確立してるのかということと・・・。
宮永: あ、何ですか。
永澤: ファンダメンタリストの高森さんみたいな人は、個を確立してるのかということと、まあそれを鵜呑みにしてる人は確立してないっていうことなんでしょうけど(一同笑)高森さんはどうなんですか。
森: 難しいですね。そうですね、でもそこはすごく重要で面白い指摘をしていただいて・・・。
宮永: 外山君が手を挙げてますけど、いいですか。
森: それでは先にご質問ください。
外山: いいですか。外山です。森さんのお話を聞いてると、その話ってバリッジさんの本の中に出てきたような気がするんですよね。バリッジさんのどこかっていうのは忘れてしまったんですが、授業で私が一生懸命読んでレポートを書いたとこなんで、まあよく覚えてるんですけど、カリスマ的指導者のところで、カリスマ的指導者っていうのは信者を率いて、新しい考えを出そうとするんですが、そこで弁証法が起こると、まあバリッジは書いていて、何か、カリスマ的指導者は、修行なり何なりをして、新しい考えを得て、それをコミュニティの中で、しゃべったりする。それは新しいわけですよ。新しい解釈。その中で、その共同体の中で、あれこれ議論して、それがだんだん固まっていくと。固まっていって、ひとつの教義になる。で、ひとつの教義になるともう固まっちゃうじゃないですか。でも固まったものっていうのは結局、人間が作ったものであって、真実とはまだギャップがあったりするわけですよね、当然。なので、また再び修行なり、何なりを通して、その教義を壊すけれども、さらに正しいようなものを、着想を得たり、それはカリスマ的指導者であったり、弟子たちであったり。で、またそれを壊して、訳のわからない状況になっていく。で、またそれが固まって、教義になるっていう、そういうサイクルを繰り返すって書いてあったんですよ。まあ、少なくとも私が解釈するに、そう書いてあったんです。で、森さんが言っていることは二元論か一元論かということではなくて、むしろ協議を固定化するか、そうではないのかっていうことなのではないのかな。で、バリッジの例では、とにかく教義を固まらせようとする人達を、まあその、何て言うのかな、オウム真理教みたいなセクトの人達と言っていて、とにかく固まらせないで、構造化を避けるような運動をしているのが、ラスタファリ運動。でもどっちでも、どっちも困りますよね。固まったまま動かないというのも困るし、固まらないまま動き続けるというのも、答えが出ないわけだから困る。その、私が考えるに、いいバランスを取っているのがキリスト教なのかなーと思う。なので、ちょうど森さんがおっしゃっていることが、バリッジさんの本に書いてあったんで、話してみたんですが、どうでしょうか。
森: そうですね、外山さんは、教義を固定化することと、それを創造的に破壊していくことを繰り返していくことの重要性ということを仰っていると思うのですけれど、その点については賛成です。ファンダメンタリストは、固定化の方に強調、重点を置いてしまうというのにも賛成です。そう考えると、先ほどの永澤さんのご質問の、高森さんの個は確立しているか、というご質問にもつながると思います。固定化したものを創造的に破壊する、そうした循環ができる主体を個、という言い方ができると思うのですが、そういう意味では高森さんは、一旦は「個的」になったけれど、現在は「個的」ではない、という風に言ってもよいかもしれないとも思います。彼はもともと本願寺教団の末寺の生まれの人で、一旦僧侶にもなるのですが、本願寺教団のあり方に疑問を持って、親鸞についての解釈を、自分で批判的に創造しました。でも一旦それを確立してしまうと、結局自分で自分を固定してしまって、自己批判しない上に、他からの批判も許さない。果たしてそうした状態が個として本当に確立しているのだろうか・・・もう少し考えたいので、宿題にさせて頂きたいのですけれども・・・貴重なご意見ありがとうございました。
萩原: 外山君に確認させていただきたいのですが、キリスト教がバランスを取れているじゃないかというご指摘があったのですが、それは具体的にどのようなものを想定して言っているのですか。
外山: そうですね、具体的にと言うか、キリスト教のことをよく知らないので、あまり簡潔に述べられないんですが、キリスト教って言うのは昔からあれですよね、一方で宗教会議などを開いて、何が異端で何が異端でないのかを議論して、公式見解みたいなのを定めていきましたよね。そういう歴史がありつつも、同時にルターとかカルバンていう破壊者が出て。で、またその破壊者は破壊者、それがより真理に近づくための、森さんが言われた創造的破壊の方だと思うんです。そういう流れもある。で、またルターやカルバンの流れでは、またそれが教義としてだんだん固まっていく。しかしまた揺り動かしがあって、そうですね、例えば次の揺り動かしは、何があるかな。
宮永: ちょっと待って。萩原君は、それでいいんですか。
萩原: 要するに、特定の宗派などを想定しているのか、キリスト教と言った時に漠然とその宗教の全体のことを指しているのか、どちらなのか分からなかったので、そこを確認したかったのです。
宮永: はい。確認できました?
萩原: はい。全体としてですよね。
外山: はい。
宮永: バランスがいいっていうことに対する質問でしたよね。
萩原: そうですね。バランスのよさという時に、誰のどのような行為をイメージして、そのように言えるのかということが気になっていました。
宮永: バリッジはキリスト教がバランスがいいなんて言ってない、むしろ反対のことを言ってる。バランスが良ければ釣り合っちゃう訳です。何も、破壊の契機を含んでいないものを、彼らはバランスが良いと言うんです。
外山: あの、そういう意味でバランスがよいという言葉を使ったんではなくて、
外山: キリスト教がバランスが良いというのは、それは私の考えです。
宮永: バリッジがそう言ってないんだったら構いません。サイクルとか、それを繰り返すっていうのは非キリスト教的な社会がそれを行うのであって、それを打ち破る力をキリスト教っていうのは持っている。要するに破壊力を内に秘めているということを、バリッジは言っている。
池松: 池松です。ちょっと冒頭を聞き逃してしまったので、もしそのお話があったら申し訳ないです。もしサンプルがおありでしたらお伺いしたいなと思ってご質問させていただきました。タイトル自体が「戦うファンダメンタリズムの陥穽」ということで、そこから個についての話題に出ていたかと思います。そこで、森さんが「循環をする主体を個」として認識したいというお話をされていて、それと二元論っていうものの、何て言うか、つながりがちょっと見えにくくなっているように感じてしまいました。星さんのご指摘にもあったかと思うんですけれども、本来二元論っていうのは、萩原さんの方の発表にありましたけれども、アイデンティティ・クライシスが非常に起きにくい中身になってるんじゃないかなと思うんですね。というのは、自分に反対する存在っていうのを決めることができれば、逆に自分の定義っていうのが非常にはっきりするので。何となくお話を伺っていると、レジュメのタイトルもそうなのですが、森さんの中で前提条件が何かおありなんじゃないかなと思いました。止揚の契機、とか個の確立、が必要になってくる状況を何か想定されて森さんがお話をされているのかなと…。その親鸞会の信者の方も、教えを鵜呑みにされて、それでは心配になるっていうお話があったかと思うんですけれども、その理由は何なのでしょうか。やっぱりどういった局面で、個の確立であったり、止揚をする必要っていうのが出てくると思われているのかなというのが気になるのですが…。
宮永: そうですよね。たしかに個の確立が、どうして重要なのかっていう話をしていただかないと、重要なのにこの人たちはやってないっていう話じゃあ、ちょっと違うと思うんですよね。
池松: ファンダメンタリズムの方が幸せなんじゃないかなあと、思ったりもするんですよね。
宮永: 選挙にも勝つし。
村中: 村中です。すいません、その前に、「個の確立」とここに書いてあるんですけれども、個が確立された状態というのは、どのような状態であるか、というところについて、認識を合わせたいので、森さんの定義を教えてください。
宮永: ワーキングディフィニションで構わないと思うので、大胆に、こうだっていうような、ひとつイメージでもいいですから、与えていただけるとわかりやすくなります。
森: 自己批判力を持っている状態、あるいは、自己相対化ができるという状態、と言ってよいと考えています。
宮永: はい、お願いします。
矢野: 矢野です。今の質問と今のお答えに、意見を加えるというか、それをより明らかにするという形での質問です。もし今のお答えが、個の確立のあり方を示しているのだとすると、進化する犯罪や犯罪者、より周到に騙すために、より多くのお金を取るために、あるいはさらなる暴力を振うために、相手のことを深く読んで、今まで自分が想定していなかったことをその行為の中に組み込んでいく、そういう自己批判や自己相対化も個の確立につながるように思えます。これも個の確立であるとお考えでしょうか?なぜこのような質問をするかといいますと、先ほど「力強い教祖とか、宗教的な指導者が、ファンダメンタリストである場合、そのような教祖や指導者は個ですか?」と聞かれたときに、森さんはお答えを躊躇されましたよね。そのとき私には、個の確立の中に、善い個の確立と承認しがたい悪い個の確立という分類を、森さんが漠然と想定されたのではないかと、思えたのです。そうだとすると、何かの止揚と個の確立がつながるというお考えは、何を止揚するのが善い個の確立なのか、という問いに行き着くと思うのですよ。まあこの推論が当たっていればの話ですけれども。
宮永: ちょっと待ってくださいね、森さんにちょっと時間を。でも考えてる間に萩原君に質問してもらえますか。今のところで問題性が見えてきて、萩原君のところに繋がって来ますよね。はい。じゃあ萩原君お願いします。
萩原: 自己批判力と自己相対化ということを並べて森さんが言われたと思うのですけれども、これはちょっと違うのではないかと思います。自己相対化することだけが、ここで言われている個の自己批判力なのでしょうか。つまり、相対化するだけでは問題解決にならないのです。実際に置かれた状況を適切に認識することは必要ですけれど、その上で、現状をどういうふうに変えられるのか、何を作り上げられるのかといった点を含めて考えないと、相対化だけでは足りないのです。そのことと関連して、前に『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』に書かれていた森さんの論文などでも、個の確立が重要だという主張がいつも出てきますが、それが消極的に取り出されているような気がします。例えばファンダメンタリズムが、個の確立という点で問題があるということを言われていますが、その上で何ができるのかということが重要です。そこまで含めた自己批判力という点が見えてこないので、どうお考えなのか伺いたいです。
宮永: 森さんにお答えいただいてもいいですし、代わりに、これだけは是非言っておきたいって思う方はどうぞ、おっしゃってください。はい、どうぞ。
村中: 村中です。今の萩原さんの質問の中で、私が理解できなかった点がありまして、今、自己相対化だけでは問題解決にならない、それだけでは足りない、と言われましたが、個の確立というのは、問題解決するための十分条件になるわけですか? 個の確立と問題解決とがどのように結びついてるのかが、理解できなかったんですけれども。
萩原: それは、自分の問題意識において、どのようにつながっているのかという意味ですか。
村中: なぜ個の確立の定義の話しをするときに、問題解決という言葉が出てくるのかが、分からなかったんですけれども。
宮永: 答えてください。
萩原: はい。これは、まさにアイデンティティの問題と関連することだと思います。自分が置かれている状況で、アイデンティティ・クライシスなどに陥ってしまっていて、その困難な状況に直面している。しかし、そこでどうしたらよいか分からない。同時に、アイデンティティに関する問題に囚われてしまっていて、制度や技術といった面での解決策も見えてこない。そういうような悪循環に入ってしまうと、実際に今置かれている状況ばかりか、その次にある課題や対応策も見えてこなくなりがちです。だから、自身が置かれている危機的な状況を冷静に認識することがまずは必要であり、その時に自己批判的な認識を支える一貫性が個だと思います。
宮永: あの、ちょっといいですか?さっきの矢野さんの質問に帰りたいんです。矢野さんのおっしゃってたことはね、非常に面白いことだった、興味深いことだったと思うんです。それは矢野さんの御自身の事例から出てきてると思うんです。で、それは何かって言ったらば、結局グローバル化の中で、相手を読むことで力を得る、これは欧米の要するに基本的な知の力ですよね。で、それをやっていくと、究極的には確信犯になる訳ですよね。で、確信犯になることが究極の知の力だとすれば、一番その知の力を持っているのは、さっき矢野さんがおっしゃったように、犯罪者じゃないか。そうすると、何でしょうね、漠然とした印象と直感を生きている善人はみんな、束になってかかっても負けてしまう。で、これが、現実じゃないかってことですよね。そうすると、矢野さんの事例のタンマカーイ寺。あれは結局、それに対して、もっと内面的な観想とか、それから、この前矢野さんいらっしゃってなかったんで残念だったんですけれども、慈悲心ですよね。そういうものを実践的に行うことで、そういう確信犯たちに対応できるか、っていう、そういうひとつの挑戦だと思うんですよ、今のコンテクストで私が勝手に読み込めばで、ということですけれど。だから、それで考えてみて、この一元論、二元論っていうのより、そっちの方が面白いんじゃないかなっていう感じがするんです。確信犯になることばっかり、西洋から学ぶ私たちは考えてますけれども、そうじゃないっていうところもあるんじゃないか、っていうことなんです。矢野さんの事例は、ほんとに言葉の次元じゃなくて、実践してるわけですよね。国際的なビジネスマンが、信者さんたちです。で、そのネットワーキング形成に実践してるわけだから、そこから出てくるのは善い確信犯です。ある意味ではね。だからそれは人類学がずっとやってきたような確信犯とは、違うかもしれない。まあ、勝手に読み込んでるんで、何というか、インスピレーションのきっかけとして、使ってください。全然違うものの方が全然違うところに出てくるっていう、それがその、非西洋の伝統からの新しい試みですよね。それはひとつまちがってしまえば、すぐ妙な方向に行ってグローバル、世界基準とぶつかってしまうというだけで、レッテル貼られる可能性もあるわけです、もうそれだけで。
永澤: いいですか。永澤なんですけど、どこまでも相手を読み続けるためには、もちろん頭が柔らかい、もう一番柔らかいっていうことで、ここで書いているようなファンダメンタリストでは、無理ですよね、まず。そこで、犯罪者で、今一番強力だと思われているのは、たとえばビン=ラディンですよね。で、ビン=ラディンという人は、我々には全くどういう人かわからない未知のエックスなんですけど、一応仮定の話として、彼はファンダメンタリストなのかどうかっていうことですよね。つまり、彼は、本当に本気に、アメリカ的な価値観と、西洋的な価値観と、イスラム的な価値観という、そういう意味でのここでの二元論的なファンダメンタリズムに基づいてやっているのか、それとも、究極的には自分の利益というか、そういうのもまあ、ブッシュと裏取引とか色々な話がありますけど、どこまでも柔軟であり続ける、究極的に個が確立した人なのかというのは、ひとつあると思うんですよ。で、結局討論になったことというのは、個の確立と言ってもビン=ラディンみたいに究極的に柔軟なファンダメンタリストみたいな個の確立をする人もいて、たとえばそういったあり方とそうではないあり方、その区別、境界線の問題ですね、どっちなのかとか、そもそもクリアな境界線などあり得るのかとか、そういうふうに思う人もいると思うんですよ。宮永先生に質問なんですけれども、どうでしょうか、今のテーマは。テーマが、ちょっと見えなくなっているというような気もするのですけれど、どうなんでしょう。
宮永: どこのテーマですか。全体の、分科会のテーマが見えない。あるいは、・・・。
永澤: この事例のテーマでの個の確立というので、皆さんが色々な、今いったいどういう意味で個の確立と言っているのかという話に限定していると思います。
宮永: 私はそれよりも、森さんがここで何を提議、提出してくださっているのか、提示してくださっているかまだ掴めないので、実際その一元論、二元論、多元論っていうのか重要なのか、個の確立なのか、批判主義なのか、それともこういうふうに、要するにとてつもなく勝手なことを言う人にリーダーシップがあるときに、みんながくっついていくってのが問題なのか。そこのあたり、全然分からないんですけれども。今までの議論の中では、私には見えてこなかったんですよね。こうだって言ってくだされば構わないので、間違えてるって言われても、この場ではいくら間違ったって構わないわけだから、いや、私は正しいんだっていうふうに言って、うんとそれに対する反論を引き出して、それを書くときには乗り越えて頂きたい訳です。書く前に反論は全部吸収しておいた方がいい訳です。今日は何か、パースペクティブが見えてこないなあっていう感じが。
森: 今回申し上げたようなことをここで発表させていただいた理由の一つは、二元論的なものの考え方に私自身が危機感を感じているからです。「敵か味方か」という風に全てを分けて考えてしまっていては、異質なもの同士の間に「対話」が生まれないのではないか、と思うのです。もう一つは、池松さんが仰って下さった、実は何かがその先に想定されている、前提があるのではないか、ということとも繋がるのですが、それは今のところまだ漠然としているのですが、もうちょっと伝統宗教が頑張るべきじゃないか、という気持ちです。いわゆる伝統宗教は、せっかく一元論的な、人間にとっての「救済」を説いた教えを、これまで支えてきたのに、現在はきちんと示してはいないのではないだろうか、今こそもっと自信を持って、その教えを伝えていくべきではないのか、と思うのです。この点は、何を止揚するのが「善い」個の確立なのだろうか、という矢野さんの、ご質問、ご指摘とも繋がる部分があると思うのですけれども、これもまだ漠然としたイメージなのですが、確かに私には「悪い」個と「善い」個、というイメージがあったと思います。そして私は、「善い」個の方を確立していくことを考えたいのですが、その「善い」個を確立するために、何が止揚されていけばいいのか、と言うと、今申し上げたように、伝統宗教の中にある、伝統宗教というか、教祖の教えの中にある、「善い」もの―またこれも漠然とした言い方なのですけれども―、取るべき点と、こだわらなくても良い点とについて、批判的に検討したり、時には他の思想と比較して差異だけではなく共通点を見出したり、する、そうした中から自分自身で自分独特の考えを創り上げていくことの大切さ、と言いますか、そうしたことを考えたい、ということが問題意識としてありました。何となくまとまらなくなってしまったのですが、今回の意図はそうしたところにありました。
宮永: はい。それでは、ええと、ここでまた5分くらい休んで、そして、この後は現場からの発言、・・・。
太田: ちょっと質問していいですか。ちょっと最後の、今の。
宮永: 個別には、・・・。
太田: あ、個別でもいいですよ。
宮永: それで、もしこの次の、現場からの発信が二つあるんですけど、ひとりお休みなので必要なら私がまとめてやりますけど、やらせていただきますけど代わりに、で、それが終わってからじゃ駄目ですか。
太田: それでもいいです。
宮永: じゃ終わってから、やって、それで、そのほうが事例が出ると思うんですね。例えば二元論だって、これからやる話の中に、出てくる可能性があるので。じゃ、あの時計で15分に戻ってきてください、早くて申し訳ないんですけど。それから資料は数が足りなかったら、隣の人と共有する形にしてください。後でもってお配りしますので、お願いします。    <休憩>
宮永: 数が足りなくてもいいので、ちょっと回してください。
小井: 簡潔に。
宮永:  そこが論点だっていうのを、先のことは考えずに言ってください。それでは最後のセッションを始めます。グローバル化っていうことを、例えばこういう本で読んでもです、自分では実感がわかないわけです。で、こういうような本は、グローバル化っていうのはあなたの日常性の中で起こっているんだっていうことを一生懸命言うわけですけれども、そういうものを読んでも、言われても、何かピンと来ない。で、それを、どういうふうに?まえるかっていうことを考えてる。 これは実は非常に長い話で、その長い話の一部がこの本なんです。でもそれを結論だけ、簡単に今日は申し上げます。西洋が持っている知の力を、私たちは持っていないために、結局さっきどなたかおっしゃったように、読まれてしまって負けてしまう。それも、個人的なレベルでも読まれてしまう、つまり、西洋人と日本人がネゴシエーションすると、読まれて、みんな読まれて負けてしまう。もう大体ネゴシエーションで勝てないんです。集団的にやっても、結局は負けてしまう。だから、政府同士やっても、結局こっちが次に何やるかっていうのは、向こうが読んでしまってる。 じゃあ、それをどうするかってことなんですけれど、そのときにですね、西洋の知の力っていうのはですね、簡単に言ってしまいますと、非常に分かりやすいんですが、何か理解されて無いんです。これはもう、西洋は昔からやっていることで、これは具体と抽象の間を、行ったり来たりできる力なんですよ。で、ただね、この、具体と抽象の間を行ったり来たりするっていう言い方自体が比喩的なんです。実際にどう、具体と抽象というものを?まえるかというところに、科学の認識論の基本があるんです。で、まあだから、何か最近の最先端は、抽象、アブストラクションの次に、アブダクションというのがあるんだという話になってきている。 要するに何がグローバル化かと言ったら、そっちの最先端をマスターしているチャンピオンが、集団的な指導者にもなっているし、それから個人的なネゴシエーションにも出てくる訳ですね。で、こちらは、そこまで理解していないわけです。身に付いていない訳です。 日本文化の場合はですね、抽象から具体へ、っていうのは、これは割合に感覚があるんです。具体から抽象へ、っていうのがうまく行かないんです。だから、抽象を買ってくる。西洋の理論を買ってきてですね、製品化して儲ける。これは、散々やったわけです。これはイメージで考える日本人、しかも非常に美的な才能があるので、できてきた物がなかなかユニークで面白いのでどんどん売れた、時代がありますね。これももう読まれてしまっているので、そんなに簡単には勝てないかもしれない。 それと反対に、具体から抽象へっていうのは、要するに原理を読む力ですよね。まあだから、これ人類学じゃないですか、パッと来て、この人たち、何やってんだろうっていう、そういうことですよね。原理を読む力なんです。で、それをですね、両方とも日常的な場で、実践することによって、利益が得られるのか。その利益っていうのは、じゃあ、自分が善く生きること、個人的にも集団的にも、善く生きる、ということに結びつけることができるのだろうか、というのが、私の昔からのテーマな訳です。 西洋に学ぶのはいいことです。それと、自分の伝統を融合させるのも、私はいいことだと思っています。だけれども、それをした結果として私たちが、あるいは私がですね、何を望んでいるかというのは、これは一番大きなテーマだと思うんです。価値としてパッと言うことは、できると思うんです。でも、それを実践するとしたら、一体どういうふうにすれば、それを実践したことになるのか、何を実践しているのか、ということです。だから行為と言葉との間の関わりでもあるし、結局それを最後の方々に、最後のグループの方々に発表していただきたい訳です。 発表される前にですね、一言付け加えておきますと、以前ハーバード大学の中国の専門家とお話したときに、日本人は駄目だねと、こうおっしゃるわけです。彼は中国の専門家ですからやっぱり、中国ひいきかもしれないけれども(笑)、中国は違う、中国は、アメリカ人と、「我々と同じ」っていう表現を取ったんですよ。中国人は、我々と同じである、と。でも、日本人は違う。コミュニケーションが取れない。というふうに言う訳です。圧倒的なグローバル化の中心には何があるかっていったらば、知の力の戦いで、それで西洋は、ずば抜けた知の力を持っている。で、西洋の人達はアジアにも、それから他のところにも、自分たちに近いと思う文化もあるし、遠いと思う文化もある。でも彼らから見ると、どうも何か日本は、一番遠い。前回の分科会にお出になった方は、武者小路先生の事例があって、武者小路先生のフランス人のお友達が、とにかく一番分からない他者は日本人だ(笑)、って言っているってことだったんで。私たちはそういうところにあるわけです。だから、一番遠いかもしれない。それを、どうするか。 私たちの日常性っていうのを、非常に身体的な、ボディ・ランゲージ的なところで考えていったときに、果たして世界基準にうまく適合していくことができるのか、できないんだったらもうそれはそれでいいのか、というところから始めたいんです。そのための事例を、今日は、じゃあ、まず小井君、親子の関係の中に倫理的なものを持ち込もうとすると、できるかできないかっていう、むしろ問題が難しくなっちゃうっていう話のように聞こえましたけど、今日はどうぞ、お好きなようになさってください。
小井: 小井です。今日は、僕自身の体験から親子関係の事例をお話します。僕が仕事を探していたとき帰省する用事があったのですが、仕事のことを母に話したときに、ちょっと問題があるということになって、結局その仕事はしなかったのです。そのとき決まっていた僕の仕事というのが、テレコミュニケーターという触れ込みでよくバイト雑誌に載っているものなのですが、実際には、その仕事というのは債権回収の仕事だということが分かったのでやめました。そういう経緯の中で現れてきた自分の、親への対応の仕方に何か問題があるように思い、一度しっかりしたかたちで考え直してみようと思いました。      それで僕自身の問題性というのが、親子関係の中にパターン化して出てきているということが分かってきたので、そのことについてお話します。どういうパターンが見られるかということを、自分なりに観察して記述したり、話し合ったりして考えたのですが、いつも雰囲気と流れに任せた情緒的な会話をしてしまって、結局徐々に不快になって話を打ち切っちゃうというような、感情的な依存関係をつくるということです。またそれは単に親子の問題だけでなくて、ほかの自分のあらゆる関係の場面でパターン化して生じてきているものであるという、そういう認識があります。それで、レジュメを見て頂きますと、左側に書いたのが記述で、どういう状況でどのように両親と関わったかということを自分なりに観察して記述したものです。右側の部分では、観察の結果からパターンを取り出して、原理を抽出し、どのように行動をそこから改変するかということをまとめたものです。      例えば僕と母親との会話の場面を考えてみると、親戚の人とか地域の人に相談するということで、親子関係の中におちこんで何も分からなくなっている自分自身を相対化することができたと思うのです。そういう地域や親類との関わりが希薄になる中で、そのとき果たされていた相対化の機能というのが今は無くなって来ているのではないかと思います。自分がこれまでの自分と親との関わりを相対化して改善しようという契機として、こういう地域の人や親類の人との関わりは、非常に重要なものだと思うのですが、ここではパターンを読むという行為を自分で行うことで、同じ機能を取り戻すことを試みています。ただ、僕自身に関しては、この母親との関係の中から取り出せるパターンというのは、先生や、池松さんなどに指摘されなければ結局分からなかったんですけれども、パターンを読んで原理を抽出するという行為を、自分で行うことができるようになれば、これらのことは一人でできるようになって、自分の行動というのを改変することができるようになる、というふうに思っています。      それで、こういう関係性に陥らないためには、相手の意思と自分の意思というのを両立させるということが重要になってくると思います。これまでは母親との情緒的な関係の中にいて、相手と一体化していたところがあります。そこで自己呈示をして、自分を制限して、両親を他者として、親として、認めて相手の意思と自分の意思をきちんと両立させるということを原理として取り出す。そして、その原理が実際に具体的な自己呈示の場面でどのように現れるかというと、例えば次に親に向き合うとき、何か決定事があるときには、自分はこうしたいが、母はどう思うかという形で関わることにする。あるいは仕事の問題だったら、単に不快になって話を打ち切るというような形に終わってしまうのではなくて、やっと決まった仕事だから、一回試してみて、それで駄目ならやめる、父や母はそれでも駄目と思うかというふうに聞いてみて、不快になったからといって話は打ち切らない。その上で、父や母の言い分が正しいと思えば、別の仕事を探す。対話をする、という方向に自分の行動を変えてくことにする。こういう仕方で自分を実践的に変えていくことができるのではないかと思い、この事例を発表いたしました。以上です。
宮永: 補足させていただきますと、この事例は、(個の可能性研究会特別)ゼミの中で出てきたものです。それで、今日やっていることと、直接的に結びつくのは、伝統的な、この、「シナリオを変更する」の2のところですね、右側のページの「パターンを読む」の下の段落のところです。「母親との会話のパターン」から数えて、3行目から5行目、6行目までです。この中の「親類の人とか地域の人(第三者)に相談することで、親子関係は相対化し得る」、これが伝統的な制度としてあったわけです、昔はね、おばさんとかね。親戚の中に、おじさんとか、親に言うとこじれてしまう話を、打ち明けっことかできて、で上手に親に言い直してくれる、とりなしてくれるっていうような人が昔はいました。でもこれが核家族になってから、全然機能してないわけです。そうするとね、その代わりに、あの、身につまされるでしょ(笑)。それが、私の世代ですとね、こういうおじさんやおばさんが、子どものときは介入してくれたのに、少し、そうですね、年取ってきたら、時代が変わってしまったので、こっちから頼んでも介入してくれなくなってきました。そんなことをすると、あとが危ない。あとであんたの親とどんな関係になるかわかんない、兄弟関係っても難しいのよ、みたいな話になっちゃう(笑)。そういう時代になりました。だから、そうするとじゃあ何ができるのかと言ったらば、さっき言ってたような自己批判、自己対象化で対応しろっていうことです。そうすると、この自己批判、自己対象化をしろっていう人は誰かっていうと、おじさんおばさんじゃなくて、学校の先生なんで。特に大学の先生。私のような人がですね、「それはあなた、自己批判が十分じゃないのよ、自己対象化をもっと私のクラスで勉強しなさい、ちゃんと教えてるでしょう、バリッジさんの本は読んだの」とか、こう来る訳ですよね(笑)。じゃあそれを読んでね、すぐできるかというと、できない訳です。で、それに対して、私もこういうバーチャルな指導をすることに対して非常に悩みまして、長い間。 もうお分かりだと思うんですけど、パターンを読むというのは、エヴァンス・プリチャードなんです。で、このパターンを読むという形でですね、自己批判、自己対象化ができるか。これが、具体的な方法として提示できるのではないか、という実験的なゼミです、この方々は。それで、パターンを読むという形で、自己批判、自己対象化するということで親に対応できるか、つまりこれを見ることで、つまり、情緒的に流されてしまうパターンを読むことで、情緒的に流されないようになる訳です。そうするとじゃあ、小井君が言ってたように次に出てくるのは何かっていうと、自分の意思と相手の意思ですよね。自分がどこに立つか。相手はどこに立ってるかっていうことが重要になります。  まだそこは、抜け出てないですよね。そこへ来たとこです。だから、最初の問題提起がとにかくなされて、とにかく何て言うか、大学にいたときは、言葉だけだった自己批判、自己対象化っていうものが、曲がりなりにも実践的になってきたっていうことです。で、これを小井君よりも前に実践したのが、池松さんなんです。で、池松さんが、パターンを読むという、そちらの方を実際に職場の人間関係に応用してみたら、それがなかなかうまく行ったので、それじゃあ小井君もやってみない、という話だったんです。小井君のほうがちょっと後にいるので先に発表してもらいました。ということで、池松さんお願いします。
池松: 先ほどちょっと森さんの発表のときに、最後の方に、相手を読むということが話題として上がったと思うんですけれども、相手を読むっていうのを、もう少し焦点を絞って、相手のパターンを読むということで、考えて今まで、問題に検討してきました。で、ここは仮設になるんですけれども、相手のパターンを読むために必要になるのは以下の手順ではないか。@は相手の観察、A推理、B推理に基づく仮説の立案、C仮説の検証、DCの繰り返しに基づく、相手に応じた対応マニュアルの作成。Dに成功することができれば、相手から自分の望む行為を引き出すことが可能となり得る。っていうのが、私自身の持っている仮説です。ちょっと実験観察記録のように感じられるかもしれないんですけど、今回パターンを読むサンプルとして、私自身が働いている会社組織という場においての事例をご紹介したいと思っております。今年で働き始めて3年目になりまして、今まで観察してきて、会社という上下関係で構成された場に起きまして、物事を進行させる方法は主に2つあるのではないかなあと思っています。もし会社勤めされている方に、もっと違うパターンがあったら聞いておきたいんですけれど、もっといい職場があれば(笑)。一番目は、部署をまたいだ横同士の交渉。で、2番目っていうのは、上下のやりとりですね。同じ部署間での上から下への決定内容の伝達。これに対して下から上への意思の伝達手段として与えられているのは、よく上司が好きで言う「報・連・相」。報告、連絡、相談はかならずしてくれ、という、この流れで物事が進行していく気がしています。こういった流れが存在する組織の中で、私はそのサンプルでは入社して1年半でしたので、一番下の立場でした。そういう立場の私がパターンを読むことでいかに他部署の上の立場にある人を動かすことができたのかということを、ちょっとご紹介したいなあと思っています。以下が、状況の説明になります。私は先ほど言ったとおり、入社して一年半の状態でした。で、そのときにちょうど直属の上司が異動になりまして、その相手部署、部署Xとの直接のやり取りが必要になりました。先ほど会社の流れと会社の物事が進む流れと関係させて言いますと、本来であればその直属の上司というのが相手の部署のトップとやり取りをするという、部署をまたいだ横同士の交渉というのが非常に、まあ通常の流れでした。 で、コミュニケーションの相手として、異動によって出てきたのが、Aという人で、この方は30代後半の男性で、関連部署Xのトップでした。で、その下にいたのがですね、関連部署Xの担当者、BとC。この方たちは20代後半と30代後半の男性でした。私の部署について言いますと、直属の上司はいなくなったんですけれども、さらに上にいた上司がおりまして、一番トップでして、その人は50代前半でした。私自身がそのときに感じていた課題というのがですね、主に何かイレギュラーな企画を提案する際に、私はXに働きかける必要があるんですけれども、本来横同士の交渉ということで、話し合わなければならない部署Xの担当B、Cに話をしても、どうしたわけか仕事がまったく進まない。で、何で進まないんですかっていうお話をBとCにすると、BとCの上ですね、Aへ話をしても頭ごなしに反対されてしまう。それだから進まないんだ、という話だったんですね。私はとにかく仕事を進めなければならないっていうのがありましたので、この状況を打開するためにいろいろと試みをしてみました。それが下の「課題解決のための試み1」です。各担当を動かす権力っていうのは持っていないので、まあ一番下でしたので、少しでも話を進めるために、各担当者に話を持ちかけると同時に、相手部署のトップに直接話を持ちかけるようにする。これもまあ、会社の通常の流れから言ってイレギュラーなものです。で、そうした結果どうなったか、本当にB、Cが言うとおり頭ごなしに否定されるのかっていうのを見てみたんですけれども、聞いていた話とは全く違う。対応も非常に早く、各担当者が言うように全てを頭ごなしに否定するといったことは全くないということが判明しました。一方で、場合によっては、難色を示すケースがあるっていうことも判明してきました。ただですね、難色を示した場合でも、私の一番上の上司が働きかけを行った場合は、殆どが進行していました。ここまで見えた段階で次にやっていこうかなと試みたのがですね、難色を示しそうなケースを持ちかける場合には、事前に私の一番上の上司の意思を必ず確認して、相手部署XのトップAにその話をする際には、上司の意向であることを匂わせるようにしました。ここまで行ってですね、殆どの仕事が非常にうまく行くようになってきました。こういった関係性が見えていたところに出来事がひとつありまして、私の一番上の上司からですね、異動になった直属の上司がいたときには経験したことのない、非常にイレギュラーな企画を実行してくれという依頼が私にありました。それは部署Xへの働きかけが不可欠な内容だったんですけれども、その当時私自身が非常に戸惑ったこともあって、企画案の固まっていない全く初期の状態で部署Xのトップに、まあ心情を吐露したんですね(笑)。非常に困っている、と。こういったことを言われたんですけれど、どうしていいかわからないので相談に乗ってほしいという話をしたわけですよ。そうするとですね、トップAは大変熱心に相談に乗ってくれて、自分から各担当者への声がけ、指示出しまでやってくれた訳です。これは本当にAと、まあその下にいるB、Cの関係性を考えると、本当にこんなことまでやってくれて、っていうのを感じたり。で、ここからまた結果を観察することで考えたことというのが、企画の初期段階で相談をすれば、非常に協力してくれる、と。頭ごなしに反対するどころか、色々ご自身から提案も行ってくれる、と。そんな感じもしました。で、初めにパターンを読む手順についてご説明したんですけれども、ここから対応マニュアルとして考えたことというのが、(1)企画の初期段階で部署XのトップAに話をし、その移行を一旦全て吸い上げる。(2)その意向も汲みながら、企画を立案し、変更箇所については、私の一番上の上司の賛同を得る。上記2点の徹底で、私が抱えていた「やるべき仕事がなぜか進まない」という課題の解決を図ることができました。
宮永: うまくいく、いったときのパターンは出しとけばいい訳ですけど、ただ、パターンで止まらないでですね、結局最後には原理の抽出まで行ったらどうか。これは、一番日本文化の中では不得意な分野じゃないかと思う訳です。で、どうですか。池松さんはこれ、原理としたらどういうふうに読む?
池松: そうですね、パターンは読めてるんだけど原理はないんじゃないかっていうのが一番の悩みだった訳なんですけれども。
宮永: ないって言うのは、読めてないっていう。
池松: はい、原理が見えてないっていうのが問題だったのかなって思ってるんですけれども。ずっと興味としてあったのがやはり上下関係、会社の組織を構成する上下関係だったと思うんですよ。上下関係を構成しているというか、そこで物事が進行されている流れはこういった二つに分けられて、私自身がやったことっていうのは、まあこの流れを生かしてはいるんですけれども、この二つでは語りきれないことなのかなというふうに考えているんですが…。
宮永: じゃあ最初に勝手に読み込んだ原理を、言ってみます。これまず第一に、二つの部署になってるけど、実際には上下関係が、二つの部署をまたがってあるんだと思うんです。だから、それがひとつあるんだと思うんです、誰が誰に従順だっていうのが。二つの部署が要するに一つの部署で考えても構わないような構造になってる。
池松: そうですね。
匿名希望: 匿名希望の会社員Aです(一同笑)。入社13年目です。これは非常に身近な話題になってきました(笑)。パターンを呼んで、観察、推理し、その推理に基づいて仮説を立案し、その仮説を検証せよ、というのは、よく新入社員で何をやっていいか分からなくて立ち往生している人に先輩社員が教えるアドバイスなんですが、ここで、ひとつだけ抜けているものがあります。観察のときにヒアリングをしなさいというのを私たちの会社では・・・。
宮永: ヒアリングって何ですか。
匿名希望: 観察というのは、相手の行動を外から観察しその理由を類推・抽出して記述する行動で、ヒアリングというのは、相手からなぜあなたはそのような行動をするのかを聞いて相手にその理由を出させる行動、という意味で使っています。     池松さんの場合は、その理由を相手に出させるっていうのがないなあと思って少々気になりました。と、言うのは、このようなケースは会社では良くある、私たちの会社でもよくありますし、話を聞くとほかの会社でもよくあるようなんですが、この場合非常に危険なにおいがします(苦笑)。どういうことかというと、先ほど宮永先生が言われたように、短期的な利益はこれで最大化されています。つまり、やるべき仕事は進むと思いますが、これを繰り返すとですね、中抜きされた人達が中抜きされたことをよく思わず、反撃をする時がやってきてですね、お前は誰の部下なんだっていう話になって、最終的にはうまくいかないのではないかという心配を感じます。例えば、よくあるケースとして、部署Xからその相談した上司が異動になって中抜きされた人達が実権を握った場合、或いは池松さん自身がこの相手先の部署Xに異動になって中抜きされた上司が自分の直接の上司になったときに復讐が始まるということが考えられます。他にも色々なケースが考えられるでしょうけれども、現場の実際を知らないので。典型的にはそういうことが起きて、最終的にはうまくいかないのではないか。ただ、池松さんは女性なので――これちょっと言い方として語弊があるかもしれませんが――まあ中抜きされた人から、女はわかっちゃいねーよな、っていうような反応が出て、特に個人攻撃はされずに、ずっとこのやり方でうまくいくことも考えられます。ただし、男だとこのやり方は一回まで。2回やると大変なことになるでしょう。なぜそのように思ったかというと、左の「結果の観察」の一行目のところに、「対応も非常に早く、各担当者が言うように頭ごなしに否定するといったことは全くない」。この、頭ごなしに否定するというのが、ハハーンと思ったところで、XのトップのAさんが頭ごなしに否定するということは、Xという部署の中間管理職は自分の考えがない、もしくはあるのに自分の考えを出せない人だと思われる。もし、中抜きをされた人たちに自分の考えがない場合には、池松さんの行動を、ああ、頭のいい奴がやって来てパターン読んでうまく動いたと、おかげで仕事がうまく進んで両部署に共通に利益をもたらしたなかなか使える新人じゃないかという評価になるかもしれませんが、逆に自分の考えはあるんだけれども、Xのトップの個性あるいは権力が強いために自分の考えを出せない、という場合には、俺だってわかってるけど立場上言えないんだよ、という苦々しさ、苦しさを抱えつつ、日々の仕事で無能を演じているわけです。その場合に中抜きをやると必ずや報復が来ますので、ヒアリングをしてください、と。ヒアリングをすると中抜きされた中間管理職が有能なのかそうじゃないのか、自分の考えがあるのかないのかが分かります。ヒアリングをするとだんだん情が移りますから、中間管理職の本音や考えが引き出せます。こういうふうにやるとうまく行くんだけど、上のやつ頭固いんだよねとか、そういう話しもヒアリングのおまけとして聞けるかもしれない。そうなると中間管理職は池松さんの味方ですから、この中間管理職と一緒にXのトップのところに行くと、池松さんはその仕事のパイプ役だけでなく自分の部署とXの部署の組織のパイプ役になる。この一回仕事のケースだけでもパイプ役はパイプ役ですが、中間管理職の悩みまで共有すると、クラスターとクラスターとを結びつける構造的なパイプ役になることができるので是非そうやって欲しい。     それから、もうひとつ言えることは、このXのトップには実際会ったことは無いので違うかもしれませんが、日本企業ではどこでもそうだと思いますが、トップというのはトップとしての振る舞いを常に求められていいるわけです。トップとして振る舞いを常に周りから見られている。なので、池松さんのケースのように若い奴が相談しに来たときには、度量の大きさを見せるために、自分の部署にとって必ずしもそれほどメリットがないにしても、パフォーマンスとしてOKを出さざるを得ない場合がある。トップとしてね。で、Xのメリットより池松さんの部署のメリットが大きいようだと、それを繰り返しやると、やっぱりこのXのトップにとってもあなたは邪魔になってきますので、必ずヒアリングをやった方がいいのではないかと思います。人類学とは、あんまり関係ない発言になってしまいました(苦笑)。
宮永: いや、ヒアリングはトップのXに対してもやる訳ですか?
匿名希望: いいえ、中間管理職のトップです。
宮永: やりにくいですよね。
匿名希望: トップはあんまり時間がなくてアポも取れないと思うので、トップに対してはヒアリングはできないと思います。
池松: なんていうか、頭をよぎったことを羅列させていただくんですが、まず、新人にそのようなことを教えてくれるだなんて、非常にいい会社にお勤めしてらっしゃるなって思いながらお伺いしてたんですけれども。
匿名希望: いや、僕が教えてんだよ。(一同笑)
池松: それは失礼しました。ちょっとヒアリングをやりなさいということで、実際書いてないんですけれど、ヒアリングはしています。というのは、なぜAとBとCの間でこんなことが起きうるのか、そうすることに何のメリットがあるのかも私には全然わからなかったので。一体何でこんな状況なんですかっていうのは、実は聞いております。それはBとCに。非常に人間関係的な回答が帰ってきたので、ヒアリングの回答は返ってきたんですけれども、そこが分かってもどうにもできない。あと、もう一点。BとCの中抜き問題ですけれども、これは実は私自身、非常に抵抗がありました。私は本来の流れというのは横同士の交渉だと思っているので。それを飛び越えて上に行くというのは、やはりなるべくしたくはないなっていうのが正直なところでした。ところがですね、BとCがあまりにも反対され続け過ぎて、無力感に押されているような状態でですね。私からAに話をしてもいいですかって聞くと、もう是非そうしてくれっていうような状況となってしまっていたんですね。そこをご理解して頂ければと思います。でも原因が非常に人間関係的なことなので、私も上に立つ人っていうのはやはり物事に対して決定を下していくのが仕事だと思ってるので、部署XのトップAもですね、人間的な感情は別にしてですね、きちんと決定を下すべきだと思ってはいました。でも。ちょっとそれもないような状況だった訳です。少し状況の補足説明になりましたでしょうか。
宮永: あの、振ってしまってもよろしいですか、三入さん、いかがですか。こういうアプローチは。
三入: いや、大変面白い。非常に感心しました。ちょっと感想・・・。
宮永: 感想を、お願いします。
三入: 感想をちょっと言いますと、池松さんですか、とても一年半の会社生活だとは思えない知恵のある人だな、と。ということは、会社っていうのは必ず組織でやってますから。組織は必ず上から下。それから横同士の組織がありますね。そういうところでどういう力関係で動いてるかっていうか、組織の形状っていうか、会社の運動力学っていうか、そういうものを非常にはやく見抜いたってことですよね。ですからそこがまた非常に驚いた、一年半とは思えない、大変優れた知恵だと思いますね。それと2番目は、ちょうど、コメント入れた方がいたけれども、なかなかそういう知恵があって物が見えても、宮永さんの言うようにパターンが見えたりしても、これを実際の行動に移すことっていうのは非常に難しいんですね。行動に移すっていうのはどういうことかっていうと、自分に自信があって、行動力もある。単に知恵があるだけとか、ものがよく見えるだけでは、行動力がないと、人にははたらきかけられませんね。ですから正直に言って、あなたは大変知恵もあるし、非常に勇気もあって本当に一年半くらいでこういう人っていうのは、すごいなと思いますね。それと、先ほどもちょっとコメント入れた方がおられまして、こういうことで中抜きしたりなんかすると後で大変だよっていうような話が(笑)。これは別に会社に限らず、もうあらゆるところがそうだと思うんですね。これは、政治家も官僚も全く同じでしょう。よくは知りませんけど宗教界でも全く同じかな。人間っていうのは、そういうものを、かなり本質的に持ってるみたいですね。組織があると大体同じ傾向を持ってますからね。そうするとそういうところで、こういうことをすると、あとから確かに大変なことになることもあるわけですね。でもやっぱり感心したのは、あなたのいる会社は非常に柔軟な会社だなあ、と。会社は組織が大きくなればなるほど、古くなればなるほど、硬直化するわけですね。これはきっと宗教界も同じだろうと思うんですね。このような行動を受け入れるこの会社は柔軟な会社だなと思う。相手の人、Aですか。よその部署の新人の話をすぐパッて聞くって事はその人はかなりものが分かってる人で、会社っていうのは革新をやらないといい会社にならないんだっていうことを、やっぱり分かってる人ですよね。ですから、あなたの知恵と行動力には非常に感心しましたけれども、会社も非常に柔軟で、こういうよい会社があるのだなと思いますね。と、いうのがコメントです。
池松: もともとこのサンプルを考えたきっかけが、すみません、こんな言い方をしてしまって、この場にいらっしゃらないのにあれなんですけれど、型を読むということ自体がわからない、一体どうやってそういうことをやっていくのかもわからないし、どういうことなのかもわからない、っていうお話をされていた方がいまして、私には会社が硬直化しているところにいらっしゃるのかなというふうに思えたんですけど。その方に分かって頂くために、何か良いサンプルはないかなと考えたのがきっかけでした。おそらく、上から下決定内容が伝達されて、下は本当に決められたことだけをやるっていう、そういった組織の中で働いていると、物事を進める方法について考える必要性っていうのも、出てこないんじゃないかなと思うんですよね。ある意味それは非常に楽で、その体質が自分に合えば、働いていく上で悩むこともあまりないのかなと思うんですけれども。私自身が置かれた会社ではあり得ない状況なんですよね。私の職場は、よく言えば柔軟なんですが、やはりもうちょっとソリッドなところがあった方がいいんじゃないかなあ、というのが私自身の正直な感想です。
宮永: どうでしょう。どんな会社が、よろしいでしょうか。(笑)
三入: やっぱり会社っていうのは人ですよね。それが担当者であれ、中間管理者であれ、経営者であれ、それぞれの地位身分がある人。それぞれ自分の権力、地位を守るために、とにかく自分の気に入らない人とか、自分の立場をおびやかすような者は外していく、そういうやり方では、組織っていうのはやはり力が出ないと思いますね。個人個人はどうしても組織の中でそういう保身の術というものを身に付けていくわけですよね。でもそうなると、その保身の術だけに長けた人が、場合によると運悪くトップになることもあるわけですね。そうするとそういうのがない人はどんどん後退してしまう。やっぱり知恵があって魅力があって、柔軟で人を許容できる。それができる組織っていうのは、中にいる人も満足して、どんどん発展できると思いますね。
宮永: 発表に関してはとても面白かったと思います。こういうところでですね、日常レベルで、見ていくことができると思うんですよね。この今発表していただいたレベルで事例を出して頂きたい訳です。そうなると、電化を拒絶した少年っていうのは、やっぱりもっとはっきりしたパターンがあるんじゃないかと思うんです。言葉で表現しろって本人に言っても、漠然とした言葉しか返ってこないけれども、とにかくパターンをこっちが読めば、はっきりしたものがあるんじゃないですか。小井君の場合でも、第3者が見れば(笑)すぐに読めてしまうパターンです。そうすると、例えばこの電化を拒絶した少年に対して、私たち観察者はその第3者の立場にいる訳ですから、これ、読めるんじゃないかなと思うんです。確かにヒアリングは重要で、どうしてそんなパターンするんだっていうのは重要なんですけど、本人がパターンに気がついていなくても、こっちがそれを読んで、このパターンあるんじゃない?って言えば、小井君のように、あっそうでした、と反省するかもしれないし、そんなのは言いがかりだ、と言うかもしれない。で、どっちの場合でも、そのヒアリングはもっとその本人にとって切実なものになっていくんじゃないですか。そうすると、知らない人が突然来て、再帰的近代化、どう?みたいな質問するよりは(笑)、ずっと本人も答えやすい対話ができてくるんじゃないですか。そうすると、主観と客観なんていう、それこそ究極の二元論を、私たち自身が使わなくても済むし、そこに陥らなくても済むんじゃないですか。ポストモダンの後っていうのは、それは方法持ったって、理論を持ってたって、それはあなたの理論に過ぎないんだ。それが普遍性を持つとしたら、その根拠はどこだっていうことなんですよ。根拠を示すっていうところしかない訳ですよね。で、そうなると矢野さんの問題、というか問題提起に帰って行く訳ですよね。結局は根拠を示すことでみんなが相対化されてしまうと、結局説得力なんだ、と。説得力のあるものが勝つんだったら、それこそまた元に戻って、情緒にはたらきかけて勝つ。だから日本のディベートは、情緒にはたらきかけることで勝つ訳でしょ。要するに情緒に訴えかけることで勝てるんだったら、情緒に訴えかけることのどこが悪いかっていう確信犯になっていくわけですよね。だからリーダーシップさえあればいい。じゃあリーダーに従って全員で崖から飛び降りて、実は自滅するネズミの群れみたいになるんじゃないかっていう、恐れは常にありますよね、そういう集団になってしまうとしたら。だから、それをどうするかなんです。で、ここで打ち切るか続けるかです。品川君どうですか。割合に切りは付いたと思うんですけどね、問題提起としてはね。
品川: そうですね。
宮永: じゃ、御願いします。
村中: 小井さんの事例のところで、最後両親に嘘をついておしまいになっているのですが、何と言うか、ここが自分の中で、心理的にで違和感があるんですけれども。嘘をつくという、なぜこのような終わり方をしてるのかが、ちょっと良くわからなかった。なんというか、質問になっていないですけれども。
宮永: いや、いいんですよ。じゃあ、小井君。
小井: この記述は、こういう問題が起きてからすぐに書いた記述で、それ以降一回も手直ししていないという状況でした。だから僕はパターンも読めていないし、原理も抽出できていません。とりあえず最初に、こうすれば良かったんじゃないか、ああすれば良かったんじゃないかっていうことを、観察の記述のところで書いて、それから右の部分に移るのですけれど、右の部分に移るまですごく時間が空いています。その過程で、話し合いの中で様々なことを指摘されて、ああ、こういうパターンがあったのかということが自分なりに見えてくる中で、相手の意思と自分の意思を両立させるという原理を取り出して、ではそこからどうやって自己呈示の仕方を変え、自分の行動を変えることができるかということを考えて、レジュメの右のページの最後の部分に行き着きました。      最初の記述の部分は、まだパターンも原理も何も見えてない状況で書きました。右のページに移ったときには、パターンを読んで、原理を抽出してから、その行動をどういうふうに変えるかというところまで考えていますので、ちょっと時間差があります。
村中: 私も今、質問をどういうふうにすればいいのかがやっとわかりました(笑)。自分の中の常識では、嘘が入っている結論は、あまり良いパターンではない気がしたので、その点はどう思いますかということを聞こうとしたんですけれども、見事に私の質問のパターンを読んでくださいました(笑)。もうちょっと掘り下げたパターンであれば、嘘のないパターンになると。そこまでが必要だというのが回答だということですね。ちょっとすいません、少し感想を言ってもいいですか。
宮永: はいどうぞ。皆さんも感想をおっしゃってください。
村中: 勉強会とはちょっとはなれて、本当に個人的な感想になるかと思うんですが、これは私は、お母さんに同情するんですね。私自身も債権回収の仕事をしたことがあるんですが、お金を踏み倒す人っていうのは必ずいます。で、踏み倒す人は悪だ、っていうのは、確かに金銭のやり取りではそれはそうなんですけれども、ただ、踏み倒す人、踏み倒さざるを得ない人にもそれなりの事情があってですね、まあ、こっちも仕事でやっているので、お金をきっちり督促するわけですけれども、そのことによって、場合によっては人が夜逃げしたり、自殺したりとかするわけですよね。テレコミュニケーターというカタカナ職業はどういうことかというと、お金を貸した人間が貸した先に情が移ってしまうと督促が非常になりきれないので、督促を外部にアウトソースして、まったく関係のない人がお金の請求をすると、相手の事情がわからないのでよりドライに冷酷にお金の取立てができます、とこういうことを狙ったものです。例えばイメージで言えば、豚肉を食べるのに、自分で豚を一匹潰して肉を食べると気持ち悪くなったりかわいそうだと思うけれども、スーパーで豚コマ100グラムとか表示してあるパックを見れば、美味しそうだって思いますよね。そういうような感覚で、そのことに加担して誰か死ぬかもしれないようなことに、母親が、自分の息子を加担させてしまうことに抵抗があるというのは、非常に母親の気持ちはわかります。で、話をもどしますと、小井さんは、パターンを読まれたときに、まず感情的な依存関係が自分にはあったということを、発見しています。左側の第2パラグラフの上から4行目に、「両親がこんなに反対するとは思わなかったので驚いた」と書いてある。両親っていうのはまあ何でも自分のやっていることに賛成してくれるだろうって思い込みがある。その自分の思い込みがあったから小井さん驚いたんだけれども、思い込みがあったということを自分で発見したというのは、素晴らしいと思います。ただ、もうひとつ重要なこととして、母親がなぜそのように反発するのかということに関する情報不足がある。自分にはパターンを読むための十分な情報がある、という思い込みがやはりまだ小井さんの方にあると思います。パターンを読む前に、今自分が持っている情報がパターンを読むのに十分かもしれないが、ひょっとしたらまだ十分じゃないかもしれないという認識を持ってもらえると、母親との経験の共有に向けてもう一歩踏み出すことができるのではないか、と、老婆心ながらこれが感想です。
宮永: 小井君どうです。
小井: 先ほど、感情的な依存関係にあるっていうことを発見されて素晴らしいとおっしゃっておられたのですが、これも僕が発見したわけではなくて、話し合いの中で、こういう問題が見えてきました。自分の意思として、感情的な依存関係をやめるということを目的として確認できました。それで、パターンを読む前に、十分な知識というのか、そういうものが必要じゃないのかという話だったと思うんですけれども、確かに僕もまだ世の中のことが分かっている訳ではないので、確かにパターンを読むときには、そういう問題が様々出てくるのではないかと感じました。
宮永: パターンを読む前に情報不足だということを言って、それが有効な人もいるし、パターンを読むことから入って、あ、情報不足だったんだなと過去形で気がつく人もいるんですよね。小井君は過去形で気がつくほうですよね。それからもうひとつ、自分がこうだっていうことを、自分の、言ってみれば弱点のようなところも、正直に書いているのがいいっておっしゃってましたけど、それはその通りなんです。書ける人もいれば、自分の弱点は抑圧しちゃう人もいる訳です。だけれどもそれはやっぱりその人が、どういうふうに自分と他者を構造化してるかっていうことなので、だからやっぱりどこから入りやすいかっていうのはその人によると思うんです。パターンから入って情報に行く人もいるし、情報を与えられると、パターンが読めるようになる人もいるし、色々あると思うんです。 先輩がいるというだけで、励ましになると思います。僕はうまくやってるよって言ってくれるだけで、すごく気が楽になります。それじゃないと、昨日の自分だけを見て、自分はあんなに馬鹿だったのか、本当に馬鹿だったんだなと思って潰れちゃうっていう、そういうのがあるんです。いや、小井君だって今日、出てこないって言ったんですよ。(笑)こんな馬鹿な自分を皆さんの前にさらすなんていやだ、とか突然メールで言ってきたんで、今になって逃げるなーって言ったら、いや、出ますってまたメールが来て(笑)。それはあって当然なんです。一歩出ちゃ半歩下がって、また半歩下がって一歩出て、っていう、そういうことですよね。だから発表するときにレジュメを作ってくるほど、人生は格好良くないですよね、実践は。だからその実践をできるだけ読み込んでいくっていうことを、もっとして頂きたいと思うんです。そういうものを出しても怖くないようになる。それから、そういうものを人が出してきても、攻撃しないで事実として受け入れることができて、それに対して自分は違った価値を持っているというふうに言ってくれれば、パターンを読むというところから、もっと、何て言うんでしょうね、関わりがある結果が得られるんじゃないかと思うんです。 そういうのを、また西洋の話で悪いんですけれども、長い近代の試行錯誤から汲み取って、そしてやっと作り上げたのが、そのネットワーク社会だと思うんです。で、私たちはその後発利得というのがあるので、彼らが非常に試行錯誤して苦しんで、膨大な犠牲を払って作り上げたその結果をですね、割合に上手に取り込むことができる。で、矢野さんの例は、私はすごい事例だと思うんですけれども、要するに全くの平和利用ですよね。しかも伝統的な人格を発展させながら、ネットワーキングの人間関係を作っていこうとしているかのように私には見える訳ですね。全然お互いに知らないでで、やっぱりネットワーキングしたいと言っている新宗教が日本にもあります。私はそこをかっているんですけど。これは昔から社会学の方の定説になってますけども、結局新しい流れが世界的に外から来たときに、一番乗りやすいのはそれまで周辺的だった人達ですよね。だから男性上位の、非常に女性が貶められているような昔の伝統的な村で、宣教師が来たときにパッと飛びつくのは女性で、みんなクリスチャンになっちゃう(笑)。そういうものを取り上げていったら、私たちもそこから学ぶことができるんじゃないか。決して楽な学び方じゃない。きれいごとだけ言ってても、全然駄目だと思うんです。表面的なところじゃ駄目で、やっぱり実践。現実的に、だから、こうやってみたらこうなったっていう、そこまで行かないと。そうするともう、セラピーと同じところまで、行きますよね。ただ、治す気はないので、自分がどうするかっていうこと絞っていきたいんです。
永澤:  池松さんの発表と今の小井さんの発表を、二つ共通にまとめられるかなと思って、中抜き問題ということで、ネットワーク化というのが日本人である私たちにまだよくわかってないのは、中抜き問題の処理というのをどうするかということだと思うんですけれども、この小井さんの非常に普遍的な、本当にどの親子関係、上司と部下との関係にも、本当に共通する核みたいなものが、取り出されているというのに感心したんですね。つまり、親子関係で、特に思春期の子どもとか、あるいはある程度までの子どもだと思うんですけれども、まだ親が自分の子供だっていうように思っている場合ですよね。親子関係で接しているときに、必ず陥るトラブルのパターンは、まず要するに、自分はもう、仕事は決まったっていうふうに親の意見を聞かずに、まあ本人は自立してるって思ってるし、俺もいっぱしだって思ってるから言っちゃう訳ですよね。つまりこの場合、仕事は決まったのかっていう場面で、親の意見を聞かずに、こういう仕事だって、俺が決めたっていうふうに言う訳ですよ。その場合親っていうのは、絶対に100パーセントそれをそのまま認めないですよ。(一同笑)つまり、中抜きされたと思ってる訳ですよ。で、何の中抜きかというと、自分が体現しているものです。つまり、子どもで小さいお前よりも、自分は社会の常識を身に付けてるんだ、と。で俺は、親として、社会常識というものの代理人として、子どもに対してるんだって、殆どの親はそういうふうになりますよね。で、それを体現している俺に相談せずに、つまり中抜きしていきなり決めるというのは何事だというのは、これは殆どのパターンだと思って、で、それを見事に実体験として抽出して、こうしている、と。だから、今度親と向き合うときに、自分は何々したいが、お父さんやお母さんはどう思うかっていうのは正にかっこよ過ぎるんですけれど、本当にできるかどうかは別として、一つの可能な答というのは、中抜きをしないということで、こうなるんじゃないかなと思いました。そういうことで、自分の意思と相手の意思が両方見えていないというところで中抜きされていたのが、こういうふうに独立した意思というものを自分と相手に認めるという意味で、原理になっていると思うんですよ、これは。その意味で、かなり抽象化された原理の抽出がなされたのは、素晴らしかったと思います。
宮永: そうすると、永沢さんに読んでいただいたように、お二人の発表の共通テーマは中抜きですね。ええ。
永澤: 私は、皆さんもそうかもしれないんですけれども、宮永先生がおっしゃっていることを学びたいと思っている訳ですね、そのネットワーク化というのを。それは、要するに中抜き問題をどういうふうに処理するかということです。それをどう上手く、合理的に、効率的にやっていくのかということは重要だと思うんですね。現段階ではそれ以上はわかりませんけど。
宮永: これから上に立つ人の課題かもしれませんね。三入さんいかがですか、最後に中抜き問題。
三入: これは人類永遠の難問題で(笑)。洋の東西を問わずに、人っていうのは一人で生きてる人はいないんで。まあ、近代西洋は一人で生きてるようなこと言って、何でもやってきましたよね。それでも、やっぱりそれは今のような複雑な組織がある、そういうものを持って生きている訳ですね。それを政治的に言えば、ネーションステートの。あらゆるところで、個人ひとりっていうのはあり得ないんで。結局いろんな人がいて、みなつながってるわけです。で、つながるときに非常にハイアラキー階層性ですか、そういう関係と、ある種のコミュニティーっていうんですか、共同体っていうんですか、そういう感じでつながるときもある。基本的にそういう二つのパターンがあると思うんですけれどもね。そういう中で、それぞれの力学というか、ある関係があって、その中で個人が何らかの形で動いてる。そういったグループとか組織内で程度の差があるが階層的なものが働いている。フラットだったらそうじゃないと思うんですけれどもね。じゃあフラットな社会っていうものがどの程度あったかっていうと、やっぱり長い歴史で見ても、そんなに多くなくて、非常に原始的な状態はそうだったかもしれませんけれどもね。近代になればそういうことは、ほとんど許されなくなっちゃった。そんな構造が、数百年で世界を支配していったんじゃないかなあ、とこう思うんですね。ですから、中抜きしてうまく行くような社会ができれば、これは、本当に神様の世界っていうことでしょう。それを許容できる人達ばかりっていうことですよね。それを許容できる人と許容できない人がいて、現実が構成されていると思うんですよね。最近はネットワーキング、グローバライゼーションで、ネーションステートを超えるようなものすごい力を持つようになってきた。そういうような中抜きをしてるわけですね。この辺になるとあまり勝手なことを言ったら具合が悪いけれども、(笑)グローバライゼーションって言うのは恐るべき時代がついに来てしまったな、と。いい方向へ行けば、本当の意味でのフラットな、しかもお互いに許容しあって、理解し合えるようになるかもしれないけれども、そうじゃなければ、今まで作り上げてきた近代ヨーロッパって言うものは本当に崩れてしまう。で、すでにその兆候が表れてる訳ですね。グローバライゼーションの基本は、経済ですけれども、金融がもうものすごい速さで世界中を動きまわるのですよね。それが、全くコントロール不可能な段階に既に来ちゃったんですよね。で、コントロールしなければならないんだけれども、それを今提案してる人もごく僅かいますけれども、あの強大なアメリカすらも、それをコントロールしようとは決して思ってない、むしろそれをどんどん拡張させようとしてる訳ですね。そんなことで、本当に金融の秩序が保てるのだろうか。中抜きになっちゃって、勝手にヘッジファンドが金を世界中動かしまくってる訳ですから。まさに投機場になっちゃってる訳ですね。まったくのギャンブル市場ですよね。で、それをすすめてるのがアメリカなんですね。これは、もうとっても秩序の保てない、非常な危険な社会に飛び込んじゃったんだと。今はやく手を打たないと、本当に大変だなあと、それが5年後か10年後か、30年後か知りませんけれども、そんなに先の話じゃないと思うんですね。ですから、まあさっきの中抜きの話に戻りますと、中抜きしてるっていうことがいかに怖いことか。中抜きっていうのは、みんなが神様、仏様みたいな知恵があって、勇気もあって、寛容の精神もあって、許容もできれば、それはいいんですけれども。近代っていうものはついにそこまで来ちゃったんですね。そういうものを金融の世界が生み出しちゃった訳ですね。それは、はっきり言えばここ50数年っていうことで、その芽は前からある訳ですね。あるけれども、近年そこまで出てきていなかったのが、なぜ出てきたかっていうと、結局ITの時代になって、ネットが流れるようになった。それから金融関係は昔は銀行とか証券とか、保険というように非常に区別がはっきりしてた訳ですね。垣根をざっとは作った訳ですね。その垣根がないといかに恐ろしいかっていうのが、29年の大恐慌、その経験に基づいてアメリカが、自由モットーのアメリカがついに、制約を設けなきゃしょうがないっていうんで、それで新らしい金融システムを作ったわけですね。だけど、そんなのは具合が悪いと、とにかく規制があるのがいけない、なんでも自由がいいんだと。いうことで全部解体してきた。それでついに日本にも、その最終段階が来ちゃったんですね、アメリカの強力な圧力で、ついにそこまで来ちゃった訳ですね。日本がそこまで来たっていうことは、アメリカと日本で、世界の大体、経済の半分近くを支えてるわけですから、これはもうアメリカだけなら、変なことをやっても、過去のブラックマンデーのときは日本も防いだわけですけれどもね。今度は日本がそこまで来ちゃうと、防げない訳です。だけど、今EUがだんだん力をつけてきて、ユーロっていう大きな力のある貨幣を使うようになったんで、あそこと協力してどのくらい食い止められるかなというふうに思ってますけど。何か話が非常に広がっちゃって(笑)。中抜きですか。関連した話が非常にひろがってっちゃって恐縮です。中抜きすることで、新らしい展開がし易くなる面があるが、し過ぎると混乱し秩序が保てなくなるおそれがある。要はバランスをどうとるかということが大事だということでしょう。以上で終わります。
宮永: はい、ありがとうございました。グローバル社会では、皆さん、中抜きされずに相手を中抜きしようっていう、そういう構造でしょう。まあその辺り(グローバル社会の構造)までは見えませんでしたけれども。話は尽きないと思いますので、今日はここで終わらせていただきます。次回、2月の20日、永澤・樫村組の待望の発表がありますので、手帳に書き込んでおいてください。私はもう長い間、ずっと前から書き込んであります。
永澤: 樫村さんからのご連絡、私に直接というよりも、宮永先生から声をかけていただけますか。樫村さんとの通信が最近無いので、打ち合わせをしてないんですよ。
宮永: 最悪の場合には、出られないかもしれないけれども、お任せしてやっていただいていいですよね。
永澤: 樫村さんが出席できる場合には、最初の発表をセッティングするのをお願いしたいんですけど。
宮永: わかりました。今日は雨の中をお集まりいただきましてありがとうございました。発表者の皆様、本当にありがとうございました。では、次回、よろしくお願いいたします。





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