明石書房 2002年3月刊行 執筆者(執筆順):宮永國子 島添貴美子 井上貴子 矢野秀武 佐藤壮広
はじめに「アイデンティティと伝統の再帰性」 宮永國子 読みにくかったグローバル化も、二十一世紀に入って少し見え始めたように思われる。経済と政治は一極に集中し、文化は多様化する。一九九〇年代には、これがパラドックスに見えていたのだが、現在では、ありのままの現実として認識されつつある。非西洋世界のグローバル化の中心課題は、西洋近代産業社会への全面的な移行のただなかに、地域の伝統のアイデンティティを再度成立させようとする努力である。この努力によって伝統は、地球規模の近代産業社会の中に、地球文化の多様性として再生する。再帰性とは、異なる条件を乗越えて行われる、自己再生能力を言う。伝統の再帰性とは、近代社会の中に伝統が、形を変えて続いて行くことである。地域の伝統文化が、近代化にともなって消滅するのではなく、むしろ再生して新しい伝統を形成しつつ、近代によみがえるのである。 以上のような考察を確認するため、この論文集では、事例研究の専門家にそれぞれの分野での観察を報告してもらった。冒頭の島添論文は、東京ディズニーランドを事例とすることで、グローバル化とは第一に世界に対する統合の強制であり、グローバルなシステムは、ローカルな文化を有効に吸収できることを論じている。東京ディズニーランドのオープンした一九八三年は、日本の「レジャー元年」であり、これ以降日本のレジャー産業は、根本的に変容する。変容の最大の要素は、レジャー産業のシステム化である。東京ディズニーランドは、まさにその手本であった。そこに働くものはだれでも、「夢と魔法の王国」というコンセプトを理解し、賛同しなくてはならない。この頭で理解している内容を、身体化するシステムが世界に名高いマニュアルであり、その実践がディズニーランドを「夢と魔法の王国」にするのである。実践の学習過程もシステム化されている。当然のことながらグローバルなディズニー文化の実践と、ローカルな日本文化のあいだには、ギャップがある。ディズニーランドのシステムの中では、働く人々は個に分解され、ローカルな日本文化のコンテクストから引き離される。そうすることによって、このギャップは、個人的な能力や適応力の有無に解消されてしまうように、ディズニーランドのシステムは設計されている。ローカルとグローバルは、個人のなかでせめぎあう。その葛藤を自分なりに解決し、適応するものが残るのである。ローカルはかくして、グローバルの支配下に入り、ディズニーランドは、残ったものによる閉じられた「夢と魔法の王国」となる。 しかしながら、これにつづく井上論文は、グローバル化は文化の普遍化をもたらされず、むしろ、多様な文化が主張しあう場を提供すると論ずる。グローバル化に対応する地域文化の再帰こそが、じつはグローバルな現象となっていると言うことである。ここでは、インドのポピュラー音楽に表現される「愛国主義」が事例となっている。インドでは、一九九〇年代の家庭におけるテレビの普及によって、「大衆文化」が変質した。それまでのインド特有の共同体文化が、家庭内のテレビの前では、「個」と「公共」に分解する。この状況をフルに活用することで、爆発的に流行したのが、インドの国歌にも相当する「ヴァンデー・マータラム」(「母を讃える」)の現代版である。このような事例は、従来ではナショナリズムの発揚として、グローバル化と対立し、グローバル化を否定する観点から論じられることが多い。しかし井上は、「ヴァンデー・マータラム」の流行は、グローバル化によるローカル文化の再帰であるとする。しかもローカル文化は変質して、抽象性が高まり、インドの統一的な国民文化として受容される。インドと言う国民国家の成員として、「インド人」としてのアイデンティティが、この歌には歌いこめられているといえよう。伝統の再帰性とは、まさにこのような状況を言うのである。グローバル化とはじつは、世界統合による地域の伝統文化の破壊と再帰とが、同時に生成している場であると考えられるのである。 タイの「タンマカーイ」寺を事例とする矢野論文は、このような伝統の再帰の現場を克明な描写によって捉えている。この寺は、一九七〇年以降、都市部での急速なテクノクラートの台頭を受けて、急激に発展した。高いレベルの近代教育を受け、知的産業に従事する人々が中核をなす。瞑想修行によって、仏を内観することを通じ、神秘的自己と神秘的他者との連続性を獲得する。この連続性によって、社会的な自己と他者との組織化が行われるのである。真我(タンマカーイ)は万人に同質の理想であり、この理想に向かう努力を共有するコミュニティが、タンマカーイ寺である。信者同士のつながりは、伝統的なコミュニティでの宗教実践をもふくんだものである。たとえば、瞑想体験の語り合い、寄進や小仏像の購入等の伝統的な積徳行である。神秘的な連続性は、古い社会関係の確認となることもあるし、また、新しい社会関係の基盤とすることもできる。日本や台湾への進出や支部の建設は、そのような信者同士の連続を基盤として、タイという国民国家の枠を超えるつながりである。このようなネットワークは、伝統的な共同体の仏教には見られない発展であろう。再帰した伝統をアイデンティティとすることによって、タンマカーイ寺の信者たちは、新興テクノクラートとして自らをグローバル化することへの可能性を開こうとしている。 つづく佐藤論文も同じような視座から、沖縄の伝統の現状を報告する。報告者の事例は、伝統的なシャーマン、ユタである。伝統的でしかもローカルなユタによる儀礼が、参加者にウチナーンチュというアイデンティティを与えるのである。これによって参加者はグローバルな状況の中に自らを位置けることが可能になる。ここでの宗教儀礼とは、政治的な対応を超えて、沖縄をひとつの霊的な共同体とし、その未来を創造する試みである。日本と言う国民国家に進んで組み入れられてしまうのではなく、祖先と自らを「つなぎなおし」することで、日本のなかでもさらに沖縄と言うアイデンティティを、伝統文化に求めるのである。それによってこそ積極的に、世界各地の先住民族と連帯を求め、米軍基地への対応が可能になるのである。沖縄のように、生活環境全体が世界の軍事秩序に組み込まれている社会では、ローカルなアイデンティティによってグローバルな状況に対応することは、必然的とさえいえるのかもしれない。 森論文の事例である親鸞会は、前出三論文と同様、伝統の再帰の現場を捉えている。場も内容も違っているのだが、伝統をあたらしく捕らえなおすことによってアイデンティティを獲得する点は、「タンマカーイ」寺の事例と同様である。著者がこの会をファンダメンタリズムと定義する理由は、儀礼の否定と死への関心である。これを「原点」として、実践上の妥協を極力排除する。この実践上の妥協の無さが、戦闘的な姿勢を生むのである。この潔癖さは、儀礼主義や現世利益を通じて、現実との妥協や、相対主義、折衷主義を柔軟的と考える集団とは、際立った対照をなしている。親鸞会は、このような集団を容赦なく批判することによって、独自のアイデンティティを獲得するのである。しかしながら、このようなアイデンティティは、どうしても批判者にとどまらざるを得ない。結果的に、親鸞会が「本当の教え」の実践を強調する場面でも、第三者にはそうでない教えの実践との違いを、観察できない場合も多いのである。 同じようにアイデンティティを扱いながら、以下の二論文は、その喪失によるクライシスを直接のテーマとしている。初めの葛西論文は事例を、つづく樫村論文は、事例をまじえながら、ラカン派によるアイデンティティ・クライシスへのアプローチを理論的に展開している。葛西論文の事例は、アルコホーリクス・アノニマスという名称の断酒自助会である。アルコール依存症は、自己のアイデンティティがアルコールに依存している状態である。この会では米国発信のハイヤー・パワーあるいは「神」を語ることによって、断酒する自分の物語を各自が時間をかけて創出する。会員は、まず断酒の誓いをアイデンティティとする集団に参加する。そうすることによって、酒への依存を所属集団への依存に切り替える。その後、個別にハイヤー・パワーや「神」の理解を契機として、集団的アイデンティティを超越することによって、個別性を獲得し、自律した個となろうとする。しかし日本では会員は、米国文化では一般的な神概念に困惑する。代わりに日本文化のさまざまな類似概念を当てはめることもあれば、自律性の獲得を回避したまま、集団依存を維持することもある。米国発信のセラピーへの対応は、受容か拒絶かの二者択一ではなく、模索と選択的な受容である。 樫村論文は、グローバル化によるアイデンティティ・クライシスを総括することを通じて、主体とそのコンテクストの変容に対応する、新しい「ニンゲン」と「文化」を観察する。視点は、ラカン派精神分析である。グローバル化における精神的な危機、クライシスにさらされるのは、社会の成員全員である。そのなかでは、(1)ニューエイジ運動による新たな生活世界の構成、(2)「ニンゲン」文化の再配置としての精神分析的文化、(3)外傷を媒介とする愛の世界、を将来への可能性として考えることができる。報告者が最も希望を抱くのは、第二の精神分析的文化である。それは、「ニンゲン」を伝統や自然から自立させ、移動可能な構造のセットとして、再配置を可能にする。自律を獲得することで、社会の成員となることができる。ここでは精神分析は、治療ではなく、それを成立させている文化そのものを指す。このような文化をもつ社会は現在では可能性でしかないが、しかしグローバル化のもとで、その気配は十分に感じられるのである。 薄井論文のテーマはジェンダーと女性のアイデンティティである。女性の現時点での問題点が女性自身にあり、「みずからの主体化の実現像が実のところシステムに同化した戦略的主体にすぎない」ことを、分析的に論じている。このような自己批判は、いままでのフェミニズムのひとつの決算であるとともに、これからの第一歩を踏み出すための準備でもある。この角度から、さまざまな事例を検討することによって、現在の女性たちの動きが、「被害者」という自己定義を超えて進みつつある現状が見えてくる。グローバル化が、複雑な世界状況を生み出すとともに、認識論的なリアリズムを推進することは、女性についてはとくに顕著な現象かもしれない。 角田論文は、ハンナ・アレントの複数性の概念に、アイデンティティ・クライシスを乗越え、グローバル化を契機とする民主主義の可能性を示唆する。アレントにおける「活動」とは、「根本的な人間の条件」であり、労働や仕事のような所与の社会制度を超越する契機である。だからこそそれは、おなじように「根本的人間の条件」である自由や出生や死や複数性と直結する。複数性とは、活動の主体である人間が、個であると同時に集団であるという事実である。活動は公的領域に位置付けられることによって、本来的に社会的な行為として定義される。社会を構成する複数の個は、集団を客観的に世界内に位置付けることによって、所与の社会制度を超越することができる。しかし国民国家による主権の独占は、このような活動を労働や仕事におとしめることによって、拡大再生産される危機をはらんでいる。アレントの言う国民国家と帝国主義の癒着を、国民国家の世界の経済統合への参入と読み替えれば、複数性の概念はそのままグローバル化時代の民主主義の条件を提示している。グローバル化の再帰性が創造的自己破壊の可能性を含むとすれば、複数の個による政治形態の創出も視野に入れることができる。このように考えれば、これまでの論文で観察された再帰性は、複数性の創出、あるいは個と集団の関係性の実験、として読むことができる。セラピーは、アイデンティティ・クライシスを乗越えることを通じて、所与の制度を再確認することもできるし、新しい個による新しい社会の可能性の探求として、読むこともできる。 永澤論文ではこのテーマをさらに進めて、民主主義や新しい個の創造を実験する社会空間を、教育の場で成立させる可能性を追究する。認識論の基盤はカントである。西洋近代では古典的とも言える命題を、日本の社会・文化のなかで成立させようとする試み自体が、グローバル化の必然である。キーワードである他者、批判、危機は、アレントの言う個の複数性と同様に、所与の制度を超越する可能性を示唆するものである。グローバル化は、反復による隷属のなかに自由を見出す契機ともなるし、超越の可能性を秘めた多様な個を創造する契機ともなる。狂気、身体、顔、理性、二律背反、義務、自由、自己決定、性的差異、安楽死、はこの二つの可能性がせめぎあう時空間の様相である。いずれの場合にも、超越の契機は他者である。そこに向かって、どのように補助線を引くかによって、多様な自己が構成される。 以上すべての論文の共通分母は、アイデンティティである。現在一般的に行われているように、グローバル化を、特定地域の文化現象の世界的伝播として、あるいはその組み合わせとして、とらえることは間違いではないだろう。西洋近代産業社会は、世界中に伝播をしつづけている。しかしながら、伝播はどのように多様に見えようとも、パターンとしては単純である。グローバル化には、伝播論ではどうしても捉えきれない複雑さがある。それは、地域の伝統文化の再帰による文化的な多様性が、グローバル化という世界規模の過程には、すでに組み込まれていると言う事実から生ずる。伝統文化の再帰が、グローバル化に対応するアイデンティティを作り出してきた。この事実を視野に入れてはじめて、これからの世界の動向と、われわれ自身の在り方を考えることができるのではないだろうか。 (以上、「はじめに」は、論文集全体の内容の紹介になっております。詳しくは個別の論文をお読みください。)
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